「陽炎のように捉えられない」という神秘的な力を説いた経典が、摩利支天経です。
武士の守護神として名高い摩利支天ですが、その信仰の根拠となった経典については、あまり知られていません。
この記事では、摩利支天経の種類・内容・日本への伝来、そして武将たちがこぞって信仰した理由まで、詳しく解説します。
概要
摩利支天経(まりしてんきょう)とは、天部の女神・摩利支天を本尊とする仏教経典の総称です。
漢訳された経典が複数存在しており、大正新脩大蔵経(だいしょうしんしゅうだいぞうきょう)の密教部(第21巻)に収録されています。
各経典は、摩利支天の姿・真言(しんごん)・修法(しゅほう)などを説いており、内容によって「穏やかな女神形」と「忿怒(ふんぬ)形」という大きく異なる二種類の図像が伝えられています。
摩利支天経の種類
大正新脩大蔵経に収録される摩利支天関連の経典は、以下の6つが代表的です。
| 日本語名 | 大正蔵No. | 内容の特徴 |
|---|---|---|
| 末利支提婆華鬘経 | No.1254 | 天扇を持つ穏やかな天女形を説く |
| 摩利支天菩薩陀羅尼経 | No.1255 | 摩利支天の姿・功徳・陀羅尼を説く |
| 摩利支天陀羅尼呪経 | No.1256 | 真言・修法・護身の功徳を説く |
| 大摩里支菩薩経 | No.1257 | 三面六臂または三面八臂の忿怒形を説く |
| 摩利支菩薩略念誦法 | No.1258 | 念誦の略式作法を説く |
| 摩利支天一印法 | No.1259 | 一印の修法を説く |
これらはすべて、インドで成立したサンスクリット語の原典を漢語に翻訳したものです。
主要な翻訳者は、唐代の高僧・不空三蔵(ふくうさんぞう、705〜774年)とされています。
不空三蔵という翻訳者
摩利支天経の漢訳に最も深く関わったのが、不空三蔵(サンスクリット語:Amoghavajra=アモーガヴァジュラ)です。
不空三蔵は、鳩摩羅什・真諦・玄奘とならぶ「四大訳経家」の一人として知られており、生涯で110部143巻もの経典を漢訳しました。
密教を唐に根付かせた立役者であり、玄宗・粛宗・代宗の三代にわたって国師として仕えた人物です。
不空三蔵が摩利支天を重視していたことは、いくつかの記録から確認できます。
唐の王子が病に倒れた際、不空三蔵が摩利支天に王子の守護を祈念したという古文書が残されています。
安史の乱(755〜763年)の時期には、唐の朝廷から調伏の祈祷を依頼されたことも記録されており、摩利支天は護国の文脈で活用されていました。
各経典の内容
末利支提婆華鬘経(No.1254)・仏説摩利支天経
最もよく知られる摩利支天の姿を説くのが、これらの経典です。
穏やかな天女の姿で表され、左手を胸の前にして天扇(てんせん)を握り、右手を伸ばして掌を外に向けて下に垂らす姿が描かれています。
この姿は「優形」(やさがた)の摩利支天として、仏画や仏像に多く用いられてきました。
また、この系統の経典では、摩利支天の本質的な神威が次のように説かれています。
「天女あり。摩利支と名づく。大いなる神通自在の力をもつ。常に日月天の前を行く。日天・月天は彼を見ること能わず」(仏説摩利支天経)
太陽でさえ見ることができないほどの不可視性——これが摩利支天の力の本質とされています。
摩利支天陀羅尼呪経(No.1256)
この経典では、摩利支天の力の核心が明快に示されています。
「無人能見我 無人能捉我(誰も私を見ることができない。誰も私を捉えることができない)」という言葉が記されており、この「見えない・捉えられない」という特性が護身の根拠とされました。
また、この経典には実践的な修法も説かれています。
陀羅尼(だらに)や小さな尊像を紙に書き写し、髷(まげ)の中や衣の中に入れておけば、一切の悪から守られ、旅の道中も守護されると記されています。
これが後に武将たちの「お守り」信仰の直接的な根拠となりました。
大摩里支菩薩経(No.1257)
穏やかな天女形とは打って変わって、この経典では忿怒形の摩利支天が描かれています。
三面六臂(さんめんろっぴ)または三面八臂(さんめんはっぴ)という複数の顔と腕を持ち、弓・箭(や)・針・糸・金剛杵(こんごうしょ)などの武器を手にした姿です。
猪(いのしし)の上に乗るのが大きな特徴であり、七頭の猪が引く車に乗る姿で描かれることもあります。
この忿怒形は、害を与えようとする者の口と眼を針と糸で縫い合わせるという、積極的な加護を表しています。
中世日本の武士たちが崇拝した摩利支天像は、この大摩里支菩薩経を典拠とした忿怒形が多く見られます。
「陽炎」という神格の意味
摩利支天のサンスクリット語名はマーリーチー(Mārīcī)といい、「陽炎」「光線」「日光」を意味します。
この名称は、摩利支天経が説く神威と直結しています。
陽炎は実体がなく、目に見えても決して捉えることはできません。
焼いても燃えず、水をかけても濡れず、傷つけることもできない——この特性こそが、摩利支天の護身力の根拠です。
摩利支天を信仰することで、信者が陽炎のような「捉えられない存在」となり、敵の害を受けなくなると説かれました。
摩利支天の起源については、インドの最古の聖典『リグ・ヴェーダ』に登場する暁の女神「ウシャス(Ushās)」が起源とする説があります。
太陽が昇る直前に現れる神秘的な暁の光を神格化した存在が、仏教に取り込まれて摩利支天となったと考えられています。
日本への伝来と武士の信仰
経典の伝来
摩利支天経は、密教とともに日本に伝えられました。
日本への普及に大きく貢献したのが、禅師・清拙正澄(せいせつしょうちょう、1274〜1339年)です。
清拙は中国から来日した際に摩利支天の像を携えており、これが日本における摩利支天信仰の広がりに影響を与えたとされています。
武士階層への浸透
摩利支天経に説かれた「見えない・捉えられない」という神威は、戦場における護身として武士階層に深く響きました。
摩利支天陀羅尼呪経の修法に基づく「摩利支天隠形法(まりしてんおんぎょうほう)」は、護身・隠身を目的とした密教修法として広まりました。
摩利支天を信仰した武将として知られているのは、以下の人物たちです。
- 楠木正成(くすのきまさしげ):南北朝時代の武将
- 前田利家(まえだとしいえ):加賀藩初代藩主
- 毛利元就(もうりもとなり):戦国大名
- 山本勘助(やまもとかんすけ):武田信玄の軍師
- 立花道雪(たちばなどうせつ)・立花宗茂(たちばなむねしげ):筑前の武将親子
楠木正成や前田利家は兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したと伝えられています。
毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いたことが伝えられています。
禅宗・日蓮宗への広がり
摩利支天信仰は武士だけにとどまりませんでした。
禅宗では護法善神として重視され、日蓮宗においても日蓮(にちれん)や日親(にちしん)が深く帰依したことが記録されています。
日蓮は「大日天子の前には摩利支天女がいます」と記しており、摩利支天を太陽神に仕える存在として位置づけました。
摩利支天経の真言
摩利支天経に基づく真言(しんごん)は、複数の形式が伝えられています。
短真言(一般的なもの)
オン・アニチ・マリシエイ・ソワカ
オン・マリシエイ・ソワカ
長真言(陀羅尼)
ナモアラタンナ・タラヤヤ・タニヤタ・アキャマシ・マキャマシ……(以下続く)
真言を唱えながら修法を行うことで、摩利支天の加護を得られると各経典は説いています。
現在の寺院での摩利支天護摩法(まりしてんごまほう)も、これらの経典に基づいています。
ご利益
摩利支天経が説くご利益は、経典によって以下のようにまとめられます。
- 護身(ごしん):あらゆる危険・害悪から身を守る
- 隠身(おんしん):敵や害する者から姿を隠す
- 勝負運:戦い・試合・競争での勝利
- 蓄財(ちくざい):財の蓄積・富の獲得
- 開運出世:幸運をもたらし、社会的地位を高める
- 一切技芸如意満足:あらゆる技芸・願望の成就
現代では武道・格闘技の勝負祈願、また商売繁盛を願う参拝者も多く見られます。
主な摩利支天の霊場
摩利支天経の教えを今に伝える代表的な寺院として、以下が知られています。
- 妙宣山徳大寺(みょうせんざんとくだいじ)(東京・台東区上野アメ横):「下谷摩利支天」と呼ばれる日蓮宗の寺院で、日本三大摩利支天のひとつとされています。
- 禅居庵(ぜんきょあん)(京都・建仁寺塔頭):清拙正澄が来日の際に元から将来した七頭の猪に乗る摩利支天像が秘仏として祀られています。
- 宝泉寺(ほうせんじ)(石川・金沢):金沢における摩利支天信仰の拠点として知られています。
いずれの寺院でも縁日(亥の日)には多くの参拝者が訪れ、摩利支天経に基づく祈祷が行われています。
まとめ
- 摩利支天経とは、天部の女神・摩利支天を本尊とする仏教経典の総称
- 大正新脩大蔵経の密教部(第21巻)に6種類が収録されている(No.1254〜No.1259)
- 主要な翻訳者は唐代の密教僧・不空三蔵(705〜774年)
- 「見えない・捉えられない」という陽炎(マーリーチー)の神威が核心
- 穏やかな天女形(No.1254・1255系)と忿怒形(No.1257系)という二種の図像を伝える
- 摩利支天陀羅尼呪経の「無人能見我 無人能捉我」の教えが武士の護身信仰の根拠となった
- 楠木正成・前田利家ら多くの武将が深く帰依した
摩利支天そのものへの興味をお持ちの方は、ぜひ摩利支天のメイン記事もご覧ください。
また、天部一覧では、摩利支天をはじめとする仏教の守護神たちを一覧でご紹介しています。
参考情報
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この記事で参照した情報源
一次資料(原典)
- 『末利支提婆華鬘経』(大正新脩大蔵経 No.1254、密教部)
- 『摩利支天菩薩陀羅尼経』(大正新脩大蔵経 No.1255)
- 『摩利支天陀羅尼呪経』(大正新脩大蔵経 No.1256)
- 『大摩里支菩薩経』(大正新脩大蔵経 No.1257)
- SAT大正新脩大蔵経テキストデータベース(東京大学)
参考になる外部サイト
- 密教部(大正蔵)- Wikipedia – 収録経典番号の確認
- 不空金剛 – Wikipedia – 不空三蔵の経歴
- 摩利支尊天のお話 – 長松院 – 経典の内容と信仰の解説

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