戦国時代、身長182cmの偉丈夫が3メートルもの長槍を振り回して戦場を駆け回る姿を想像してみてください。
それが前田利家です。
「槍の又左」と恐れられた武勇と、11人もの子宝に恵まれた愛妻家の顔。
そして織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人3人に仕えた世渡り上手。
この記事では、加賀百万石の礎を築いた前田利家の生涯を、わかりやすく紹介します。
前田利家の基本プロフィール
前田利家は尾張国(現在の愛知県名古屋市)の武将の四男として生まれました。
四男というのは、当時「家を継げない立場」を意味していました。
しかし利家は若い頃から織田信長に仕え、その武勇で頭角を現します。
最終的には能登・加賀・越中の3国を治める大名となり、豊臣政権では五大老の一人にまで上り詰めました。
「犬千代」と呼ばれた血気盛んな若武者
派手な格好のかぶき者
若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をした「かぶき者」でした。
幼名は「犬千代」。犬のように大胆で勇猛な性格から付けられた名前です。
街で利家を見かけた人々は、その異様な姿に道を譲ったと言われています。
まるで現代のヤンキーのような存在だったわけです。
「槍の又左」の異名
利家が得意としたのは長槍でした。
3メートル以上もある長槍を自在に操り、多くの戦で武功を上げます。
その活躍から「槍の又左」「槍の又左衛門」と呼ばれるようになりました。
又左衛門というのは利家の通称です。
初陣で敵将を討ち取る
1552年、15歳の利家は萱津の戦いで初陣を飾ります。
そこでなんと敵の首級を挙げるという大活躍。
織田信長は利家を「肝に毛が生えているかと思うほどの豪胆さ」と賞賛しました。
この時から利家は信長のお気に入りの家臣となります。
信長の怒りを買い、浪人生活へ
拾阿弥斬殺事件
順調に出世していた利家ですが、1559年に大きな失態を犯します。
信長が寵愛していた茶坊主の拾阿弥と諍いを起こし、斬り殺してしまったのです。
何があったのか?
拾阿弥が利家の大切にしていた笄(髪結い道具)を盗んだとされています。
柴田勝家の助命で切腹を免れる
主君の寵臣を殺した罪は重く、通常なら切腹は免れません。
しかし柴田勝家らの取り成しで、利家は出仕停止処分だけで済みました。
それでも織田家からは追放され、利家は浪人生活を余儀なくされます。
血気盛んな性格が災いしたわけです。
桶狭間で汚名返上
浪人となった利家ですが、諦めませんでした。
1560年の桶狭間の戦いに、個人的に参戦したのです。
「武功を上げて信長に許してもらおう」
そんな思いで戦場に立った利家は、見事に敵の首を二つも取ります。
この功績が認められ、利家は織田家への帰参を許されました。
まつとの結婚 — 戦国屈指の愛妻家
12歳の従妹との結婚
1558年、22歳の利家は当時12歳だった従妹のまつと結婚します。
まつは幼い頃から容姿端麗で賢く、読み書きそろばんも嗜む才媛でした。
現代の感覚では驚くような年齢差ですが、当時としては珍しくありません。
むしろ二人の母親が姉妹で、幼い頃から一緒に育った仲だったのです。
11人の子宝に恵まれる
利家とまつの夫婦仲は非常に良好でした。
生涯で11人もの子供を授かっています。
これは当時としても多い方です。
戦国武将の多くは側室を持ちましたが、利家は正室のまつとの間にこれだけの子供をもうけました。
内助の功で前田家を守る
まつは単なる良妻ではありません。
利家の死後、息子の前田利長が徳川家康から謀反の疑いをかけられた時のことです。
まつは自ら「前田家のため、家康の人質となる」と申し出て江戸へ向かいました。
この決断が前田家を救ったのです。
織田信長に仕え、北陸で出世
赤母衣衆に選ばれる
帰参を許された利家は、順調に出世していきます。
赤母衣衆という織田家の精鋭部隊の一員に選ばれました。
赤母衣衆は信長直属の親衛隊のような存在です。
選ばれたのは特に優秀な武将だけでした。
府中三人衆として北陸へ
1575年、柴田勝家に越前一国の支配権が与えられた際、利家は重要な役目を任されます。
不破光治、佐々成政とともに「府中三人衆」として、勝家の監視役を命じられたのです。
これは信長の巧みな人事でした。
勝家に全権を与えながら、目付役を置いて牽制する。
能登一国を拝領
1581年、利家は信長から能登国を与えられます。
これで利家は一国の大名となりました。
四男として生まれ、浪人生活も経験した利家が、ついに大名の地位を手に入れたのです。
槍一筋で勝ち取った出世でした。
本能寺の変後 — 秀吉か勝家か
恩義ある勝家と親友の秀吉
1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれます。
その後、豊臣秀吉と柴田勝家が織田家の後継者をめぐって対立しました。
利家にとって、これは非常に難しい選択でした。
勝家は利家の命の恩人であり、「おやじ」と慕う存在。
一方の秀吉は同じ尾張出身で、家族ぐるみの付き合いをしてきた親友。
賤ヶ岳の戦いで秀吉へ
1583年の賤ヶ岳の戦いで、利家は最初勝家側につきます。
しかし戦いの途中で秀吉側へと寝返りました。
これは単なる裏切りではありません。
前田家の存続を第一に考えた、苦渋の決断だったのです。
落ち延びる勝家を厚遇
戦いに敗れた勝家が、利家の領地を通って逃げる時のことです。
勝家は何も言わず、利家の養女を返しに立ち寄りました。
利家は勝家を丁重に迎え、酒食でもてなしたと言われています。
「裏切った」という印象を和らげようとしたとも、恩義に報いようとしたとも言われます。
勝家はその後、妻のお市の方とともに北ノ庄城で自害しました。
豊臣秀吉の右腕として
加賀百万石の礎
秀吉に臣従した利家は、能登に加えて加賀半国を与えられます。
その後も領地は拡大を続けました。
1585年には佐々成政の領地だった越中国の一部も手に入れ、前田一族で76万石以上に。
やがて能登・加賀・越中の3国を治める大大名となります。
これが後に「加賀百万石」と呼ばれる前田家の礎となったのです。
小田原征伐で北国勢を率いる
1590年、秀吉は小田原の北条氏を攻めます。
利家は北国勢の総大将として上杉景勝らとともに出陣しました。
松井田城、鉢形城、八王子城を次々と攻略。
伊達政宗への尋問も利家が担当しました。
秀吉から絶大な信頼を寄せられていたことがわかります。
五大老の一人に
1598年、秀吉は五大老・五奉行制を敷きます。
利家は徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家とともに五大老の一人に選ばれました。
特に秀吉の息子・豊臣秀頼の後見人としての役割を任されます。
これは秀吉が利家をどれだけ信頼していたかの証でした。
秀吉の死と利家の最期
秀吉との絆
利家と秀吉の関係は、主従を超えた親友でした。
二人は同じ尾張出身で、ほぼ同年代。
妻同士も親しく、利家の四女・豪姫は生まれてすぐに秀吉の養女となりました。
まさに家族ぐるみの付き合いだったのです。
家康を牽制する立場
1598年、秀吉が亡くなります。
秀吉の遺言で秀頼を守る役目を負った利家。
しかし徳川家康が天下取りに向けて動き出します。
家康に対抗できる力を持っていたのは、利家だけでした。
当時、家康よりも利家の方が人望があったと言われています。
多くの大名が利家を支持していたのです。
病に倒れる
ところが秀吉が亡くなった年の秋、利家は体調を崩します。
実は利家は若い頃から腹痛の持病に苦しんでいました。
脂っこい食べ物で悪化したことから、胆石発作ではないかと考えられています。
最期は消化器系の癌(胆嚢癌の可能性が高い)だったとされます。
家康との最後の対峙
病床の利家のもとを、家康が見舞いに訪れました。
このとき利家は布団の下に抜き身の刀を隠していたという逸話があります。
家康を斬ろうとしていたのか、それとも自衛のためか。
真相は謎ですが、利家が家康を警戒していたことは間違いありません。
まつとの最後の会話
死の2日前、利家は妻のまつを枕元に呼びました。
まつは鎖帷子を差し出して言います。
「あなたさまはこれまで多くの人を殺めてこられました。地獄に落ちるかもしれません。どうかこれを身につけて」
しかし利家はこれを拒否しました。
「義に背く戦はしたことがない。もし地獄に落ちたなら、戦で死んだ者どもをかき集めて、閻魔相手にもうひと合戦してくれるわ」
豪快な利家らしい言葉です。
そして「鎖帷子はまつが着て、自分を追いかけてくるように」と言い残しました。
1599年4月27日、大坂で死去
1599年4月27日(慶長4年閏3月3日)、利家は大坂の自邸で亡くなります。
享年62歳(61歳とも)でした。
秀吉の死からわずか1年。
豊臣秀頼の後見人として、もっと長く生きたかったはずです。
利家が残した遺言
利家は死の10日ほど前、妻のまつに11箇条の遺言を書き取らせました。
その内容から、利家が徳川家康をどれだけ警戒していたかがわかります。
主な遺言の内容:
- 前田家の兵力16,000のうち8,000を利長が率いて大坂に残り、秀頼を補佐せよ
- 残る8,000で金沢を守れ
- もし謀反人が出たら、敵の領地に踏み込んで戦え(自分の領地を戦場にするな)
- 利長は3年間は加賀に下るな
特に最後の「3年間は加賀に下るな」という遺言は重要でした。
3年あれば秀頼も成長し、豊臣政権も安定するはずだったのです。
しかしこの遺言は守られませんでした。
利家の死後すぐ、利長は家康の勧めで金沢へ帰国してしまいます。
前田利家はどんな性格だったのか
熱く人情に厚い「兄貴」気質
利家の性格を一言で表すなら「兄貴」でした。
熱く人情に厚く、裏表のない気質。
多くの武将から慕われ、人望がありました。
だからこそ秀吉亡き後、家康に対抗できる存在だったのです。
倹約家でそろばん好き
一方で、利家はそろばん勘定が好きな倹約家でもありました。
妻のまつからは「ケチ」と言われることも。
戦に出れば槍を振るって敵をなぎ倒し、家に戻れば金勘定。
この二面性が利家の魅力でした。
身長182cmの偉丈夫
残された鎧の大きさから、利家の身長は178〜182cmと推定されています。
当時の男性の平均身長は157cm程度でした。
つまり利家は、現代で言えば身長2メートルクラスの巨漢だったわけです。
3メートルの長槍を振り回すのに、この体格はピッタリだったのでしょう。
利家の死が変えた歴史
利家が亡くなったことで、豊臣政権を支える柱が失われました。
その翌日には五奉行の石田三成が襲撃される事件が起き、政局は急速に悪化します。
もし利家があと5年、いや3年でも長生きしていたら。
秀頼が成人するまで家康を牽制できていたら。
関ヶ原の戦いは起こらず、徳川幕府も存在しなかったかもしれません。
歴史に「もしも」はありませんが、利家の死は確実に歴史の流れを変えました。
加賀百万石の伝統文化
利家が築いた加賀百万石は、江戸時代を通じて外様大名としては最大の藩として存続しました。
加賀藩は文化面でも栄え、金沢は「小京都」と呼ばれるほど洗練された都市に発展します。
金箔工芸、加賀友禅、九谷焼など、多くの伝統工芸が花開きました。
これらの文化の基礎を築いたのが前田利家だったのです。
まとめ — 槍一筋で天下に駆け上がった男
前田利家は四男という不利な立場から、槍の腕一つで加賀百万石の礎を築きました。
利家の生涯のポイント:
- 「槍の又左」として武勇で名を馳せた
- 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた世渡り上手
- 妻のまつとの間に11人の子供をもうけた愛妻家
- 能登・加賀・越中を治める大大名となった
- 豊臣政権の五大老として秀頼を守ろうとした
- 1599年、病で62歳の生涯を閉じた
利家の人生は、戦国時代を生き抜くための処世術の見本とも言えます。
時には勝家を裏切り、時には秀吉に従い、最期まで豊臣家を守ろうとした。
その一方で、妻や家族を大切にし、多くの武将から慕われる人望の厚さも持っていました。
武勇と人徳、計算と情熱——これらすべてを兼ね備えた男が、前田利家だったのです。


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