ギンドロ(銀白楊)という木をご存知でしょうか?
葉の表は深い緑色なのに、裏返すと銀白色に輝く、不思議な木です。風が吹くたびに緑と白が交互にきらめく様子は、まるで木そのものが呼吸しているかのよう。
実はこの木には、ギリシャ・ローマ神話に由来する悲しい物語が隠されているんです。
その物語の主人公が、今回ご紹介する「レウケ」。冥界の王ハデスに愛され、死後にギンドロの木へと姿を変えた美しいニンフです。
この記事では、あまり知られていないギリシャ神話のニンフ「レウケ」について、その伝承や象徴する意味を詳しくご紹介します。
レウケとは?

基本情報
レウケ(古代ギリシャ語:Λεύκη、ラテン語表記:Leuce)は、ギリシャ・ローマ神話に登場する海のニンフ(オーケアニス)の一柱です。
名前の「レウケ」は古代ギリシャ語で 「白い」 を意味しています。この名前は、彼女が変身することになる白ポプラ(ギンドロ)の木の名前でもあるんですね。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | レウケ(Λεύκη / Leuce) |
| 意味 | 「白い」「白ポプラ」 |
| 種族 | オーケアニス(海のニンフ) |
| 父 | オーケアノス(大洋の神) |
| 母 | テテュス(海の女神) |
| 関係者 | ハデス(冥界の王) |
| 象徴 | ギンドロ(白ポプラ / 銀白楊) |
| 主な出典 | セルウィウスの『牧歌注釈』 |
オーケアニスとは
レウケが属する「オーケアニス」について、少し説明しておきましょう。
オーケアニスとは、大洋の神オーケアノスと海の女神テテュスの間に生まれた3000人の娘たちのこと。彼女たちは川、泉、湖、地下水など、あらゆる淡水に関わる場所を守護するニンフでした。
有名なオーケアニスには、ゼウスの最初の妻メティスや、プロメテウスの物語に登場するアシアなどがいます。レウケもまた、この由緒正しい水のニンフの一員だったとされています。
レウケの神話:ハデスとの悲恋
レウケにまつわる神話は、冥界の王ハデスとの悲しい恋物語として伝わっています。
ハデスによる略奪
ローマ時代の注釈家セルウィウスによると、レウケはハデス(ローマ名:プルート)に見初められ、冥界へと連れ去られました。
この「略奪」というモチーフは、ギリシャ神話でよく見られるパターンです。ペルセポネがハデスにさらわれた話が有名ですが、レウケの物語もそれと似た構造を持っています。
冥界での生活と死
レウケは冥界でハデスとともに暮らしましたが、彼女はあくまでニンフ。神々のような完全な不死の存在ではありませんでした。
ニンフは非常に長い寿命を持つものの、永遠に生きられるわけではありません。やがてレウケにも、死の時が訪れます。
愛するレウケを失ったハデスは、深い悲しみに暮れました。
ギンドロへの変身
レウケの死を悼んだハデスは、彼女を永遠に記憶するため、ある行動に出ます。
ハデスはレウケをギンドロ(白ポプラ)の木に変身させ、冥界の楽園であるエリュシオンの野に植えたのです。
エリュシオンとは、英雄や善良な魂が死後に暮らす、冥界の中でも特別に美しい場所。レウケは木となってもなお、その聖なる場所で永遠に生き続けることになりました。
この物語は、ハデスが冷酷な死の神ではなく、深い愛情を持った存在であることを示す、数少ないエピソードの一つでもあります。
ヘラクレスとレウケの木
レウケの物語には、ギリシャ神話最大の英雄ヘラクレスが登場する後日談があります。
冥界への旅と白ポプラの冠
ヘラクレスは、十二の功業の一つとして、冥界の番犬ケルベロスを生け捕りにする任務を与えられました。
セルウィウスの伝えるところによると、ヘラクレスは冥界から帰還した際、白ポプラ(ギンドロ)の葉で作った冠を被っていたとされています。
これがレウケが姿を変えた木から取ったものかどうかは、文献によって解釈が分かれます。
パウサニアスが伝える別の伝承
2世紀のギリシャの旅行作家パウサニアスは、『ギリシア案内記』の中で別の伝承を記録しています。
パウサニアスによると、ヘラクレスはテスプロティア地方のアケロン川の岸辺で白ポプラを発見し、これをオリンピアに持ち帰ったとされています。ホメロスが白ポプラを「アケロイス(アケロンの木)」と呼んだのは、このためだというんですね。
この伝承では、白ポプラはレウケの変身した木ではなく、もともと冥界の川の近くに生えていた神聖な木として描かれています。
葉の二色についての解釈
ギンドロの葉は、表が暗緑色、裏が銀白色という独特の二色を持っています。
古代の注釈家セルウィウスは、この二色がヘラクレスが上界と下界の両方で働いたことの二重性を象徴すると説明しました。
また、20世紀のイギリスの詩人・神話学者ロバート・グレイヴズは、著書『ギリシャ神話』(1955年)の中で、「葉の裏側がヘラクレスの汗で白くなった」という詩的な解釈を提唱しています。ただし、これはグレイヴズ独自の解釈であり、古代の文献には記載されていない点に注意が必要です。
ギンドロの象徴的意味

レウケが姿を変えたとされるギンドロ(白ポプラ)は、古代ギリシャ・ローマで特別な意味を持つ木でした。
冥界と死の象徴
ギンドロは、冥界との強い結びつきから死と冥界の象徴とされていました。
パウサニアスによると、白ポプラはテスプロティア地方のアケロン川——冥界への入り口とされた川——の岸辺に特に多く生えていたといいます。このことから、白ポプラは冥界の神ハデスの聖なる木とされました。
ヘラクレスとゼウスの聖木
ギンドロはヘラクレスの聖木としても崇められました。
パウサニアスによると、エリス地方では白ポプラだけがゼウスへの供儀に使われる木材とされていました。これは、ヘラクレスがオリンピアの競技会を創設した際、この木を導入し、供儀の際に犠牲獣の腿骨を焼くのに使ったためだとされています。
オリンピック競技の勝者がギンドロの冠を被ることもあり、これはヘラクレスを讃える意味がありました。
バッコス(ディオニュソス)の儀式での使用
バッコス(ディオニュソス)の秘儀を行う信者たちは、冥界的な側面を持つこの神を讃えるために白ポプラの冠を被りました。
また、葬礼競技——死者を悼んで行われた運動競技——でも白ポプラの冠が用いられたとされています。この木の冥界的な起源が、葬儀にふさわしいとされたのでしょう。
レウケに関する文献と出典
レウケの神話は、主にローマ時代の文献に記録されています。
主な出典
セルウィウスの『牧歌注釈』
レウケについて最も詳しい記述を残しているのは、ローマ帝国後期(4〜5世紀)の注釈家マウルス・セルウィウス・ホノラトゥスです。
セルウィウスは、ウェルギリウスの『牧歌(エクロガエ)』7.61および4.250に対する注釈の中で、レウケの物語を記録しています。彼によると、レウケは「オーケアノスの娘」であり、「ハデス(プルート)に連れ去られ、死後にエリュシオンで白ポプラに変えられた」とされています。
パウサニアスの『ギリシア案内記』
2世紀のギリシャの旅行作家パウサニアスは、『ギリシア案内記』5.14.2で白ポプラについて言及しています。
ただし、パウサニアスはレウケのニンフとしての物語には触れず、ヘラクレスがテスプロティアのアケロン川の岸辺で白ポプラを発見してオリンピアに持ち帰ったという伝承を記録しています。
古典ギリシャ時代の文献には登場しない?
興味深いことに、レウケという名のニンフは、ホメロスやヘシオドスといった古典ギリシャ時代の主要な文献には登場しません。
『ホメロス風讃歌』の「デメテル讃歌」には、ペルセポネとともに花を摘んでいたニンフたちの名前が列挙されていますが、その中に「レウケ」の名はありません。「レウキッペ」という似た名前のニンフは登場しますが、これは「白い馬」という意味で、白ポプラとは関係がありません。
このことから、レウケの物語は古典ギリシャ時代には存在せず、ローマ時代以降に白ポプラの神話的起源を説明するために創作された可能性も指摘されています。
他の変身譚との関係
レウケの物語は、ギリシャ神話に数多く存在する「変身譚」の一つです。
似たような物語としては、アポロンに追われてゲッケイジュ(月桂樹)になったダフネや、水仙の花に変わったナルキッソスなどがあります。これらの神話に共通するのは、愛や執着が植物への変身という形で永遠化されるというモチーフです。
特にダフネの物語との類似性は注目に値します。どちらも神に愛されたニンフが、最終的に木に姿を変えるという構造を持っているんですね。
ハデスの恋愛:レウケとミンテ
ハデスは、ゼウスやポセイドンと比べると、恋愛沙汰の少ない神として知られています。
一途な冥界の王
ギリシャ神話の主神ゼウスは、数え切れないほどの女神や人間の女性と関係を持ったことで有名です。海の神ポセイドンも同様に多くの愛人がいました。
しかし、ハデスは正妻ペルセポネに対して比較的誠実な神として描かれています。浮気のエピソードはごくわずかしか伝わっていません。
ミンテの物語
ハデスに関係する女性として、「ミンテ」というニンフの物語も伝わっています。
ミンテはコキュートス川(冥界の「嘆きの川」)のニンフで、ハデスに見初められました。しかし、嫉妬したペルセポネ(あるいはデメテル)によってミント(薄荷)の草に変えられてしまったとされています。
ミンテの物語は複数の古代文献に記録されており、レウケの物語よりも広く知られていました。レウケとミンテは、ハデスに関わった数少ない女性として、しばしば比較されます。
現代文化におけるレウケ

レウケは、ギリシャ神話の中ではあまり有名ではないニンフですが、現代の創作作品にも時折登場します。
小説・ウェブコミック
リック・リオーダンの「パーシー・ジャクソン」シリーズをはじめとする、ギリシャ神話をモチーフにした現代ファンタジー小説では、冥界を舞台にしたエピソードでレウケが言及されることがあります。
また、人気ウェブコミック『Lore Olympus(ローア・オリンポス)』では、レウケがキャラクターとして登場し、ハデスとペルセポネの物語に絡む存在として描かれています。
ゲーム・映画
「ゴッド・オブ・ウォー」シリーズや「ハデス」といったギリシャ神話を題材にしたゲームでは、冥界の描写にギンドロの木が含まれていることがあります。直接「レウケ」として名前が出ることは稀ですが、白ポプラは冥界の象徴的な植物として登場します。
植物学での名称
実際のギンドロの学名は「Populus alba」(ポプルス・アルバ)で、「alba」は「白い」を意味します。
古代ギリシャでは白ポプラを「レウケ(白いもの)」と呼んでいたため、ニンフの名前と木の名前は同じ語源を持っています。ニンフが木に由来する名前を持っていたのか、それとも木がニンフに由来する名前を持つようになったのかは、鶏と卵のような問題ですね。
まとめ
レウケは、ギリシャ神話の中では決して有名とは言えないニンフです。
主な出典がローマ時代の注釈文献に限られており、古典ギリシャ時代の主要な神話には登場しないという特徴があります。しかし、だからこそ彼女の物語には、神話がどのように形成され、発展していったかを考えるヒントが隠されています。
レウケの物語の要点
- レウケはオーケアニス(海のニンフ)で、大洋の神オーケアノスの娘とされる
- 冥界の王ハデスに見初められ、冥界に連れ去られた
- 完全な不死ではなかったため死亡し、ハデスによってギンドロ(白ポプラ)に変えられた
- エリュシオンの野に植えられ、永遠にその地で生き続けることになった
- 英雄ヘラクレスが冥界から帰還した際、白ポプラの冠を被っていたとされる
- 白ポプラはハデス、ヘラクレス、ゼウスの聖木として古代ギリシャで崇められた
- 主な出典は4〜5世紀のセルウィウスの『牧歌注釈』
レウケの物語は、古代の人々が自然現象——白ポプラの葉の二色——を神話的に説明しようとした試みの一つかもしれません。あるいは、冥界の神ハデスに人間的な感情を与え、より親しみやすい存在として描くための物語だったのかもしれません。
次にギンドロの木を見かけたとき、風に揺れる銀白色の葉を眺めながら、遠い昔に冥界の王に愛された美しいニンフのことを思い出してみてください。
何千年も前に語られた物語が、今も私たちの身近な自然の中に息づいている——そう考えると、神話の世界がぐっと身近に感じられるかもしれませんね。

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