日本の歴史の中で、最も謎に包まれた時代があることをご存知でしょうか?
それは「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれる、第2代から第9代までの天皇の時代です。『古事記』や『日本書紀』にほとんど事績が記されておらず、その実像は今も歴史の闇の中にあります。
第5代・孝昭天皇(こうしょうてんのう)もまた、この欠史八代の一人。しかし興味深いことに、全国各地の神社には孝昭天皇の御代に創建されたという伝承が数多く残されているんです。
この記事では、孝昭天皇の系譜や宮の所在地、そして各地に伝わる神社創建伝承について詳しくご紹介します。
概要
孝昭天皇は、日本の第5代天皇とされる人物です。
『日本書紀』では観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)、『古事記』では御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)と記されています。また『播磨国風土記』には大三間津日子命(おおみまつひこのみこと)という名でも登場しているんですね。
「孝昭」という漢風諡号(かんぷうしごう)は、8世紀後半に淡海三船(おうみのみふね)という学者によって撰進されたものとされています。諡号とは、亡くなった後に贈られる名前のことです。
孝昭天皇の基本情報
- 在位期間:孝昭天皇元年1月9日〜孝昭天皇83年8月5日(伝承上)
- 宮:掖上池心宮(わきがみのいけごころのみや)
- 陵:掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)
- 崩御時の年齢:『日本書紀』では113歳、『古事記』では93歳
在位83年、100歳を超える寿命という数字は現代の感覚からすると不自然に感じますよね。このような長寿の記録が欠史八代の天皇に共通する特徴の一つでもあります。
系譜
孝昭天皇の家系は、『日本書紀』と『古事記』で詳しく記録されています。
父母
- 父:懿徳天皇(いとくてんのう)- 第4代天皇
- 母:天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)- 息石耳命(いしみみのみこと)の娘
懿徳天皇22年2月に立太子(皇太子になること)し、懿徳天皇34年に父帝が崩御すると、翌々年の1月に即位しました。同年7月には掖上池心宮へ都を移したと伝えられています。
皇后と皇子
皇后:世襲足媛(よそたらしひめ)
『日本書紀』本文と『古事記』によれば、尾張連(おわりのむらじ)の祖である瀛津世襲(おきつよそ)の妹とされています。ただし『日本書紀』の別伝では、磯城県主葉江の娘・渟名城津媛(ぬなきつひめ)とする説もあるんです。
皇子
- 天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと):第一皇子。和珥氏(わにうじ)・春日氏・小野氏など多くの氏族の祖となった
- 日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと):第二皇子。後の第6代・孝安天皇
このように、孝昭天皇の血筋は後の天皇家だけでなく、古代日本の有力氏族にもつながっていったとされています。
伝承
孝昭天皇は『古事記』『日本書紀』では系譜の記載のみで具体的な事績が伝わっていません。しかし、全国各地の神社には孝昭天皇の御代の創建を伝える興味深い伝承が残されているんです。
宮と陵の伝承地
掖上池心宮
宮の所在地は、現在の奈良県御所市池之内周辺と伝えられています。同地には「掖上池心宮阯」の碑が建てられており、往時を偲ぶことができます。
この宮名の由来について、『日本書紀』推古天皇21年(613年)11月条に「掖上池」を造らせたという記事があり、この池と関連があるとも考えられています。
掖上博多山上陵
陵は奈良県御所市大字三室にある「博多山」に治定されています。宮内庁が管理しており、形式は山形。陵の近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭天皇神社(孝昭宮)も鎮座しています。
播磨国風土記の逸話
『播磨国風土記』には、『古事記』『日本書紀』にはない独自の逸話が記録されています。
飾磨(しかま)の地名由来
孝昭天皇がこの地に屋形(御殿)を造っていたとき、大きな鹿が鳴いていたそうです。その声を聞いた天皇が「鹿が鳴いているなぁ」と仰せになったことから、この地を「飾磨」と呼ぶようになったと伝えられています。
邑宝の里
孝昭天皇がこの地で井戸を開いて食事をされた際、「私は多くの国を占有した」と仰せになり、そのため「大の邑(おおのむら)」と名付けられたという話も残っています。
全国の神社創建伝承
孝昭天皇の御代に創建されたと伝わる神社は、関東から九州まで広範囲に分布しています。
関東地方
- 氷川神社(埼玉県さいたま市):武蔵国一宮。社伝によれば孝昭天皇3年の創建で、出雲の杵築大社を遷したとされる
- 箱根神社(神奈川県箱根町):聖占仙人が神山に神仙宮を開いたのが始まりと伝わる
- 伊豆山神社(静岡県熱海市):当初は日金山(現在の十国峠)山頂にあったとされる
東海・中部地方
- 富知神社(静岡県富士宮市):孝昭天皇2年創建。古くは富士大神を大山祇神として祀っていた
- 若栗神社(愛知県一宮市):孝昭天皇がこの地に滞在し、世襲足媛を妃としたと伝わる
近畿地方
- 石津神社(大阪府堺市):孝昭天皇7年創建。事代主神(戎神)が五色の石を携え降臨したことに由来する
- 阿須賀神社(和歌山県新宮市):孝昭天皇53年創祀。『古事記』『日本書紀』に記される熊野神邑とされる
九州地方
- 狭野神社(宮崎県高原町):神武天皇御降誕の地とされ、孝昭天皇の御代に創建
- 東霧島神社(宮崎県都城市):霧島・諸県地方の山岳信仰の聖地として祀られてきた
これらの神社創建年代を西暦に機械的に換算すると紀元前5〜4世紀頃となりますが、これはあくまで伝承上の年代です。
まとめ
孝昭天皇は、欠史八代の一人として実在性に議論がある天皇ですが、全国各地に豊かな伝承が残されています。
重要なポイント
- 第5代天皇で、『日本書紀』では観松彦香殖稲天皇と記される
- 父は懿徳天皇、母は天豊津媛命
- 皇后・世襲足媛との間に二皇子をもうけ、次男が第6代・孝安天皇となった
- 宮は奈良県御所市の掖上池心宮、陵は同市の掖上博多山上陵
- 『播磨国風土記』には飾磨の地名由来など独自の逸話が残る
- 氷川神社や箱根神社など、全国各地の古社に創建伝承が伝わる
欠史八代の天皇については、創作とする見方と一定の史実を反映しているとする見方があり、現在も議論が続いています。各地の神社に残る伝承は、古代の人々がこの天皇をどのように記憶し、語り継いできたかを今に伝える貴重な資料といえるでしょう。


コメント