【二千年以上も尊敬され続ける聖人】孔子とは?その教え・生涯・伝説をやさしく解説!

神話・歴史・伝承

もし「人生で一番大切なことは何ですか?」と聞かれたら、あなたは何と答えるでしょうか。

今から約2500年前、中国にこの問いへの答えを示した一人の人物がいました。

それが孔子(こうし)です。彼の教えは中国だけでなく、日本、韓国、ベトナムなど東アジア全体の文化に深い影響を与え、現代でも私たちの考え方や行動の基礎となっています。

この記事では、「聖人」として二千年以上も尊敬され続けてきた孔子の生涯と教え、そして彼にまつわる伝説について詳しくご紹介します。

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概要

孔子(こうし)は、紀元前551年頃に中国の魯国(ろこく、現在の山東省)で生まれた思想家・哲学者です。

本名は孔丘(こうきゅう)、字(あざな、成人後の呼び名)は仲尼(ちゅうじ)といいます。「孔子」というのは「孔先生」という意味の尊称なんですね。

春秋時代という戦乱の時代に生き、人の道正しい政治のあり方を説いた人物として知られています。

孔子が創始した思想は儒教(じゅきょう)と呼ばれ、その教えをまとめた『論語(ろんご)』は今でも世界中で読まれている古典です。後世の人々から至聖先師(しせいせんし)万世師表(ばんせいしひょう)などと呼ばれ、教育者・思想家の最高峰として尊敬されています。

偉業・功績

孔子の最大の功績は、教育を民間に広めたことです。

教育の革新

それまでの中国では、教育は貴族だけのものでした。しかし孔子は「有教無類(ゆうきょうむるい)」、つまり「教育に身分の区別はない」という理念を掲げたんです。

孔子の教育実践

  • 身分を問わず弟子を受け入れた
  • 生涯で約3,000人の弟子を育てた
  • そのうち特に優れた弟子が72人いた(七十二賢人)
  • 謝礼は干し肉一束だけという低い敷居

孔子は「因材施教(いんざいしきょう)」、つまり一人ひとりの個性や理解力に合わせて教える方法を実践しました。これは現代の教育でも理想とされる方法なんですね。

古典の整理と保存

孔子は、それまでバラバラに存在していた古代の書物を整理し、後世に伝える役割も果たしました。

孔子が整理・編纂したとされる書物

  • 『詩経(しきょう)』:古代の詩集
  • 『書経(しょきょう)』:歴史書
  • 『礼記(らいき)』:儀礼の記録
  • 『易経(えききょう)』:占いと哲学の書
  • 『春秋(しゅんじゅう)』:魯国の歴史

これらは五経(ごきょう)と呼ばれ、儒教の根本経典となりました。

思想の確立

孔子の思想の中心は「仁(じん)」という概念です。仁とは、簡単に言えば人を思いやる心のこと。

「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」

これは孔子の有名な言葉で、「自分がされたくないことを、他人にしてはいけない」という意味です。この考え方は「黄金律」として世界中で知られています。

系譜

孔子の先祖は、意外にも中国の古代王朝殷(いん)の王族だったんです。

先祖の歴史

孔子の家系図をたどると、殷王朝の帝乙(ていいつ)に行き着きます。殷が周王朝に滅ぼされた後、その王族の子孫は宋国に封じられました。

孔子の先祖は宋国の貴族でしたが、7代前の孔父嘉(こうふか)という人物が宮廷内の争いで殺されてしまいます。その後、孔子の先祖は魯国に逃れ、そこで代々暮らすようになりました。

父と母

孔子の父は叔梁紇(しゅくりょうこつ)という軍人で、当時としては珍しい長身で力持ちだったと伝えられています。城門を持ち上げる怪力の持ち主だったとか。

しかし、父は孔子が3歳の時に亡くなり、母の顔徴在(がんちょうざい)が一人で孔子を育てました。母も孔子が17歳の時に亡くなったため、孔子は幼い頃から苦労を重ねたんですね。

子孫

孔子の直系子孫は、世界で最も長く続く家系として知られています。

子孫の記録

  • 孔子の死後から現在まで、83代にわたって記録されている
  • 2005年にギネスブックで「世界最長の家系図」として認定
  • 現在も200万人以上の子孫が確認されている
  • 77代目の孔徳成(こうとくせい)は台湾に移住し、2008年に亡くなった

歴代の中国王朝は、孔子の子孫に衍聖公(えんせいこう)という特別な爵位を与え、手厚く保護してきました。

姿・見た目

孔子の外見について、古い記録には驚くべき記述があります。

身長

『史記』によると、孔子の身長は九尺六寸だったとされています。

当時の1尺を約19センチとすると、孔子の身長は約186センチ。春秋時代の人としては非常に背が高く、「長人(ちょうじん)」つまり「背の高い人」と呼ばれていました。

これは父親からの遺伝で、父の叔梁紇も怪力で知られる大柄な人物でした。

顔の特徴

孔子の頭の形には特徴がありました。

『史記』には「圩頂(うてい)」という記述があり、これは頭のてっぺんが凹んでいたという意味です。中央が低く、四方が高い地形のような形をしていたため、「丘」という名前がつけられたという説があります。

服装と立ち居振る舞い

孔子は礼儀作法をとても重視した人物なので、自身の服装や振る舞いにも気を使っていました。

『論語』に記録されている服装の規則

  • 季節に合わない服は着ない
  • 色の組み合わせにも気を配る
  • 正式な場では必ず正装する
  • 立ち居振る舞いは常に威厳を保つ

弟子たちは、孔子の威厳ある姿を見て、自然と敬意を抱いたといいます。

特徴

孔子には、思想家としてだけでなく、一人の人間としても興味深い特徴がたくさんありました。

学び続ける姿勢

孔子は自分自身のことを「述べて作らず」と表現しました。これは「自分は新しいことを作り出すのではなく、昔から伝わる良いものを伝えるだけだ」という謙虚な姿勢を示しています。

しかし実際には、孔子は古い教えを現代的に解釈し直し、新しい思想体系を作り上げたんですね。

孔子の有名な言葉

「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(したが)う、七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」

これは「15歳で学問を志し、30歳で自立し、40歳で迷わなくなり、50歳で天命を知り、60歳であらゆることを理解し、70歳で心のままに行動しても道を外れなくなった」という意味です。

音楽への深い愛情

孔子は音楽を非常に愛していました。

斉国で素晴らしい音楽「韶楽(しょうがく)」を聞いた時には、三ヶ月間も肉の味が分からなくなるほど感動したという逸話が残っています。「音楽がこれほど素晴らしいものだとは思わなかった」と語ったそうです。

食事へのこだわり

意外なことに、孔子は食べ物にとてもこだわりがあった人物でした。

孔子の食事の原則

  • よく精白された米を好む
  • 時間が経って変色した食べ物は食べない
  • 季節外れの食材は口にしない
  • 適切な調味料で味付けされていないものは食べない
  • 食事中は話さない

これらの記録から、孔子が健康と礼儀を重んじる、几帳面な性格だったことが分かります。

政治への情熱

孔子の最大の願いは、自分の思想を政治に生かすことでした。

50代前半で魯国の大司寇(だいしこう)という高官の地位に就きましたが、権力者たちとの対立により、結局その地位を去ることになります。その後、孔子は13年間も諸国を巡り歩き、自分の思想を理解してくれる君主を探しましたが、実現しませんでした。

この失望が、孔子を教育により力を入れる方向へと向かわせたんですね。

伝承

孔子の生涯には、数々の伝説的なエピソードが残されています。

誕生の奇跡

孔子の誕生には不思議な伝説があります。

母の顔徴在が尼丘山(にきゅうざん)で祈ったところ、五人の老人が現れ、麒麟(きりん)が玉の書を吐き出したという話です。その書には「水の精の子が、衰えた周王朝を継いで、位のない王(素王)となるだろう」と書かれていたとか。

これは後世の人々が、孔子の偉大さを讃えるために作った伝説だと考えられています。

夾谷の会(きょうこくのかい)

紀元前500年、魯国の定公が斉国の景公と会見した時、孔子は外交官として同行しました。

斉国は舞楽隊を連れてきましたが、実は踊り子たちは武器を持った兵士だったんです。これは孔子をテストするための罠でした。

孔子はすぐに陰謀を見抜き、毅然とした態度で抗議。斉国の景公は孔子の見識に感心し、魯国に侵略していた土地を返還したといいます。

少正卯(しょうせいぼう)の処刑

孔子が大司寇の地位にあった時、少正卯という学者を処刑したという記録があります。

少正卯は孔子と同じく弟子を持つ学者でしたが、孔子は彼を「五つの罪」があるとして処刑しました。これについては、後世の学者の間で意見が分かれており、実際には起こらなかった出来事だという説もあります。

困窮の旅

孔子が諸国を巡っていた時、陳国と蔡国の間で食料が尽き、7日間も絶食状態になったことがありました。

多くの弟子が病に倒れ、弱音を吐く中、孔子は変わらず講義を続けました。弟子の子貢(しこう)が楚国に助けを求めに行き、ようやく救出されたという逸話が残っています。

「喪家の犬」

孔子が鄭国で弟子たちとはぐれた時、ある人が子貢にこう言いました。

「東門に、額は堯(ぎょう)のよう、首は皋陶(こうよう)のよう、肩は子産(しさん)のようだが、腰から下は禹(う)より三寸短く、まるで喪家の犬のような人がいるよ」

「喪家の犬」とは、葬式の家で居場所がなく、うろうろしている犬のこと。つまり「落ちぶれた様子」という意味です。

子貢がこれを伝えると、孔子は容姿の描写は別として、「喪家の犬というのは、まさにその通りだ」と笑って答えたそうです。この素直さが、孔子の人柄を表しています。

獲麟(かくりん)

孔子が74歳の時、魯国で狩りをしていた人々が麒麟を捕らえたという知らせが入りました。

麒麟は平和な時代にしか現れない聖獣とされています。しかし、その麒麟が戦乱の時代に現れ、しかも捕まって傷つけられてしまった。

孔子はこれを見て深く絶望し、編纂していた歴史書『春秋』をこの記事で打ち切ったといいます。「獲麟」という言葉は、そこから「物事の終わり」や「絶筆」を意味するようになりました。

以貌取人、失之子羽(いぼうしゅじん、しっしうう)

孔子は一度、弟子の澹台滅明(たんだいめつめい、字は子羽)を外見で判断して見くびってしまいました。

子羽は容姿が醜かったため、孔子は最初「才能がないだろう」と思ったのです。しかし後に子羽は立派な教育者となり、300人もの弟子を持つようになりました。

これを知った孔子は「以貌取人、失之子羽(容姿で人を判断したために、子羽の真価を見失った)」と反省の言葉を残しました。

出典・起源

孔子について知るための主な資料をご紹介します。

『論語(ろんご)』

孔子の思想を知る最も重要な文献です。

孔子の死後、弟子たちが師の言葉や問答を記録してまとめたもので、全20篇からなります。短い言葉の中に深い智慧が込められており、現代でも人生の指針として読まれています。

『史記(しき)』

前漢の歴史家司馬遷(しばせん)が書いた歴史書です。

「孔子世家(こうしせいか)」という章で孔子の伝記が詳しく記されており、孔子の生涯を知る基本資料となっています。司馬遷は孔子を「素王(そおう)」、つまり「王位のない王」として高く評価しました。

『孔子家語(こうしけご)』

孔子とその弟子たちの問答を集めた書物です。

長い間、偽作だとされてきましたが、近年の研究で再評価されつつあります。孔子の思想や日常生活について、『論語』以上に詳しい記述があるんですね。

『礼記(らいき)』

儒教の礼に関する記録をまとめた書物です。

この中の『大学』と『中庸』という二つの篇は、孔子の思想を発展させた重要な文献として、後に『論語』『孟子』と合わせて「四書(ししょ)」と呼ばれるようになりました。

『春秋(しゅんじゅう)』

魯国の歴史を記録した年代記で、孔子が編纂したとされています。

紀元前722年から紀元前481年までの出来事が記されており、この時代を「春秋時代」と呼ぶのは、この書物の名前に由来しているんです。

まとめ

孔子は、二千年以上にわたって東アジアの文化と思想に影響を与え続けている偉大な思想家です。

重要なポイント

  • 紀元前551年頃、中国の魯国に生まれた思想家・教育者
  • 「仁」を中心とした思想を説き、儒教の創始者となった
  • 身分に関係なく教育を広め、約3,000人の弟子を育てた
  • 『論語』をはじめとする古典を通じて、その教えが伝えられている
  • 謙虚で学び続ける姿勢、音楽を愛する心、食事へのこだわりなど、人間的な魅力も持っていた
  • 生涯をかけて理想の政治を実現しようとしたが、志半ばで終わった
  • 死後も中国歴代王朝から尊敬され、「至聖先師」として祀られた
  • その子孫は83代にわたって続き、世界最長の家系として知られている

孔子の教えの本質は、人を思いやり、正しく生きること。それは時代を超えて、今も私たちの心に響く普遍的な真理なのかもしれませんね。

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