「誠」の一字を旗印に、幕末の京都を守った男たちがいました。
その頂点に立っていたのが、新選組局長・近藤勇です。農民の子として生まれながら、剣の腕一つで武士の頂点にまで上り詰めた彼の生涯は、まさに激動の幕末を体現しています。
池田屋事件で尊王攘夷派の志士たちを一網打尽にし、「壬生狼」と恐れられた新選組。しかし、時代の波に抗い続けた近藤の最期は、あまりにも悲劇的なものでした。
この記事では、幕末最強の剣客集団を率いた近藤勇について、その生涯と功績、そして人物像を詳しくご紹介します。
概要
近藤勇(こんどう いさみ)は、幕末に活躍した武士であり、新選組の局長として知られる人物です。
天保5年(1834年)に武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)で農家の子として生まれました。本名は宮川勝五郎といいます。
15歳で天然理心流の道場「試衛館」に入門し、剣術の才能を開花させた近藤は、やがて養子として近藤家に迎え入れられ、四代目宗家を継承することになりました。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天保5年10月9日(1834年11月9日) |
| 没年 | 慶応4年4月25日(1868年5月17日) |
| 出身地 | 武蔵国多摩郡上石原村(現・東京都調布市野水) |
| 流派 | 天然理心流 |
| 役職 | 新選組局長、幕臣 |
文久3年(1863年)、将軍警護のために結成された浪士組に参加したことが、近藤の運命を大きく変えました。京都に残留して「新選組」を結成し、その局長として幕末の動乱期を駆け抜けることになったのです。
しかし、戊辰戦争で新政府軍に敗れ、慶応4年(1868年)4月25日、板橋刑場にて斬首されました。享年35歳でした。
偉業・功績
近藤勇の功績といえば、やはり新選組の創設と指揮が挙げられます。
新選組の結成と組織化
文久3年(1863年)2月、近藤は清河八郎が主導する浪士組に参加し、京都へ上洛しました。
しかし、清河が尊王攘夷の旗を掲げて江戸へ帰ることを表明すると、近藤は副長の土方歳三、沖田総司ら試衛館の同志とともに京都に残留することを選びます。
京都守護職・松平容保のもとで「新選組」を結成し、近藤は局長に就任しました。副長には土方歳三が就き、以後、二人三脚で組織を率いていくことになります。
新選組の功績として特筆すべきは、その厳格な組織運営でした。「局中法度」と呼ばれる隊規を定め、違反者には切腹を命じるという厳しい規律のもと、烏合の衆に過ぎなかった浪士たちを精鋭集団へと育て上げたのです。
池田屋事件——歴史を変えた一夜
元治元年(1864年)6月5日、近藤率いる新選組は京都三条の旅館「池田屋」を襲撃しました。
これが有名な「池田屋事件」です。
当時、長州藩を中心とする尊王攘夷派の志士たちは、京都に火を放ち、混乱に乗じて天皇を長州へ連れ去るという過激な計画を練っていました。
新選組はこの情報を事前に察知し、近藤以下約10名で池田屋に突入したのです。
池田屋事件の結果
- 攘夷派志士7名を斬殺
- 4名を捕縛
- 20名以上が逃走中に捕らえられる
- 新選組側の死者はわずか3名
この事件により、京都焼き討ちの計画は阻止され、明治維新の到来は数年遅れたとも言われています。
池田屋事件の功績により、近藤は幕府から500両もの褒賞金を受け取りました。新選組の名は天下に轟き、「壬生狼」として恐れられる存在となったのです。
幕臣への取り立て
慶応3年(1867年)6月、近藤は幕府直参の旗本に取り立てられました。
農民の子として生まれた近藤が、武士の最高位ともいえる旗本にまで上り詰めたのです。これは、剣術の腕と新選組での功績が認められた結果でした。
同時期には、近藤に「大久保大和」という変名と、若年寄格という高い地位が与えられています。
系譜・出生
近藤勇は、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)の農家に生まれました。
生家と幼少期
父・宮川久次郎は多摩の豪農で、母・みよとの間に三男として生まれたのが近藤勇です。幼名は勝五郎といいました。
近藤の生家である宮川家は、相模国の小田原北条氏の家臣を祖とするとされています。北条氏滅亡後に帰農し、代々この地で農業を営んできた家柄でした。
幼い頃から腕白で、近所では「石原の乱暴者」と呼ばれていたといいます。しかし一方で、読み書きを熱心に学ぶ勤勉な面もあったようです。
天然理心流への入門
天保15年(1844年)、11歳の勝五郎は天然理心流三代目宗家・近藤周助の道場「試衛館」に入門しました。
入門の経緯については複数の説があります。
通説:近藤周助が多摩地方を巡回指導していた際、勝五郎の素質を見出して入門を勧めたとされています。
別説:勝五郎の父・久次郎が息子の将来を案じ、武芸を身につけさせようと入門させたという説もあります。当時、多摩地方では農民が剣術を学ぶことは珍しくありませんでした。
入門後、勝五郎は「島崎勝太」と名を改め、剣術の修行に励みました。
近藤家への養子入り
嘉永2年(1849年)、16歳の島崎勝太は近藤周助の養子となり、「近藤勇」の名を与えられました。
これにより、勝太は農民から武士の身分へと上昇したのです。
万延元年(1860年)には天然理心流四代目宗家を継承し、試衛館道場の主となりました。同年、松井つねと結婚し、のちに娘・瓊子(たまこ)をもうけています。
家族関係
- 実父:宮川久次郎(多摩の豪農)
- 実母:みよ
- 養父:近藤周助(天然理心流三代目宗家)
- 妻:松井つね
- 娘:近藤瓊子(たまこ)
- 弟子・同志:土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ほか
姿・見た目
近藤勇の外見については、当時の記録や写真から、いくつかの特徴が伝わっています。
体格と容姿
近藤は当時としては大柄な体格だったとされています。
身長は5尺7寸(約172cm)ほどあったと推定されており、これは幕末の日本人男性としてはかなり高い部類に入ります。当時の平均身長が155cm前後だったことを考えると、周囲からは「大男」として見られていたでしょう。
現存する写真を見ると、がっしりとした体つきで、いかにも武人らしい風貌をしています。
顔つきについては、「容貌魁偉」(ようぼうかいい)と評されています。これは「立派で威厳のある顔立ち」という意味です。
江川太郎左衛門は近藤について「容貌魁偉にして、音吐さながら洪鐘の如く」と記しており、見た目だけでなく声も大きく響き渡るものだったことがわかります。
口の大きさにまつわる逸話
近藤には「口にこぶしを丸ごと入れることができた」という有名な逸話があります。
これは戦国武将・加藤清正と同じ特技だったとされ、近藤自身も「清正公のように出世したい」と周囲に語っていたといいます。
新選組の屯所があった八木家の子息・八木為三郎は、後年のインタビューで「近藤先生は口が大きく、笑うとえくぼができた」と回想しています。
服装と愛刀
新選組といえば、浅葱色のだんだら羽織が有名です。これは会津藩から支給された資金で作られたもので、近藤も他の隊士と同様にこの羽織を着用していました。
近藤の愛刀として知られるのが「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)です。
池田屋事件の後、近藤は故郷への手紙で「下拙の刀は虎徹故にや、無事に御座候」(私の刀は虎徹だったので無事でした)と誇らしげに書いています。永倉新八や沖田総司の刀が折れたり欠けたりする中、近藤の刀だけは無傷だったというのです。
ただし、この虎徹が本物だったかどうかについては議論があります。当時から虎徹の贋作は多く出回っており、「虎徹を見たら偽物と思え」という言葉があったほどでした。近藤の虎徹は実際には名工・源清麿の作だったという説もあります。
特徴
近藤勇の人物像は、周囲の証言によってさまざまに伝えられています。
性格——温厚で愛嬌のある人物
近藤の性格について、当時を知る人々は概ね好意的な証言を残しています。
新選組隊士だった永倉新八は「温厚な人だった。決して無鉄砲な乱暴者ではない」と語っています。また、「愛嬌があって、いつもニコニコと笑っていた」という証言も残っています。
渋沢栄一も近藤について「会って見ると存外穏当な人物で、毫(いささか)も暴虎馮河の趣などは無く、よく事理の解る人であった」と記しています。
一方で、「頑固」「強情」という評価もあります。永倉新八は別の場面で「蛮骨をもって鳴らしただけ、おうおうにしてわがままの挙動」とも述べており、近藤の頑固な一面を窺わせます。
仲間思いの一面
近藤は仲間を大切にする人物でした。
処刑される際、一緒に捕らえられた野村利三郎と相馬主計の二人について「自分を処刑できればそれだけで大手柄だろう。この二人は助けてほしい」と命乞いをしたといいます。この嘆願は聞き入れられ、二人は命を救われました。
また、新選組の若い隊士たちを可愛がり、彼らからは「先生」と慕われていたという記録も残っています。
剣術の腕前
天然理心流四代目宗家として、近藤の剣術の腕前は確かなものでした。
天然理心流は実戦を重視した剣術であり、華麗な技よりも「斬る」ことに特化した流派でした。竹刀での稽古では特別目立たなかった近藤ですが、「真剣を持たせたら敵なし」と評されるほど実戦には強かったといいます。
池田屋事件では、自ら先陣を切って敵陣に突入し、多くの志士を斬り伏せています。
読書家としての一面
近藤は読書を好み、特に『三国志演義』や『忠臣蔵』などの英雄譚を愛読していました。
幼い頃から関羽や楠木正成、赤穂浪士たちに憧れ、「忠義」の精神を自らの行動規範としていたといわれています。最後まで徳川家への忠誠を貫いた近藤の姿勢は、こうした読書体験から培われたものかもしれません。
伝承
近藤勇にまつわる伝承や逸話は数多く残されています。
少年時代の度胸試し
近藤が15歳の頃、宮川家に賊が押し入ったことがありました。
兄たちが「今すぐ戦おう」と言い出しましたが、近藤は「今は奴らも気が立っている。立ち去る時を狙って襲ったほうがよい」と冷静に制止しました。
賊が盗みを終えて引き揚げようとした瞬間、近藤と兄は一斉に襲いかかりました。賊は盗品を捨てて逃走し、追いかけようとした兄を近藤は再び止めて「窮鼠猫を噛むというではないか。追わずにおこう」と言ったといいます。
この逸話は、若くして冷静な判断力と度胸を備えていた近藤の人物像を伝えています。
「今宵の虎徹は血に飢えている」
近藤の名台詞として知られる「今宵の虎徹は血に飢えている」は、後世の講談や小説で創作されたものです。
実際の近藤がこのような台詞を言ったという記録はありません。しかし、この言葉は近藤勇という人物のイメージを象徴するものとして広く知られるようになりました。
首の行方
慶応4年4月25日、近藤は板橋刑場で斬首されました。その首は京都の三条河原で晒し首にされましたが、その後の行方は謎に包まれています。
首の行方については複数の説があります。
- 新選組隊士の斎藤一が奪い返し、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬ったという説
- 東本願寺の嘆願により下げ渡され、京都の東大谷に葬られたという説
- 近藤の親族が密かに持ち去ったという説
いずれも決定的な証拠はなく、近藤の首がどこに眠っているかは今も不明のままです。
各地に残る墓
近藤勇の墓は全国各地に存在します。
最も有名なのは、JR板橋駅前にある「近藤勇墓所」です。これは明治9年(1876年)に永倉新八が発起人となって建立したもので、土方歳三をはじめ新選組隊士たちの供養塔でもあります。
東京都三鷹市の龍源寺には、近藤の胴体が埋葬されたとされる墓があります。処刑後、近藤の遺体は密かに運び出され、この寺に葬られたといいます。
また、会津若松市の天寧寺には近藤の遺髪を納めた墓があります。これは会津藩主・松平容保が新選組への謝意を込めて建立したものとされています。
出典・起源
近藤勇に関する史料は、同時代の記録から後世の回想録まで多岐にわたります。
一次史料
- 近藤勇書簡:故郷の佐藤彦五郎や小島鹿之助に宛てた手紙が多数現存しており、新選組の活動や近藤の心情を知る上で貴重な史料となっています
- 新選組関係文書:会津藩や京都守護職に関する公文書に、新選組の活動記録が残されています
回想録・証言
- 『新撰組顛末記』(永倉新八著):新選組二番隊長だった永倉新八が晩年に著した回想録。池田屋事件などの詳細が記されています
- 『浪士文久報国記事』(永倉新八著):同じく永倉による回想録
- 八木為三郎の証言:新選組屯所があった八木家の子息による証言が、子母澤寛の取材により記録されています
後世の研究
新選組に関する研究は明治以降も続けられ、特に子母澤寛の『新選組始末記』(1928年)は、多くの証言を集めた基礎文献として知られています。
ただし、新選組に関する史料には後世の創作や誇張が含まれていることも多く、史実の検証は現在も続いています。
まとめ
近藤勇は、農民の子として生まれながら、剣の腕一つで幕末の歴史に名を刻んだ人物でした。
天然理心流四代目宗家として試衛館を率い、新選組局長として幕府のために戦い続けた近藤。池田屋事件での活躍は京都の治安維持に大きく貢献し、彼を幕臣の地位にまで押し上げました。
しかし、時代は徳川幕府の終焉へと向かっていました。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、近藤は新政府軍に捕らえられて板橋で処刑されます。享年35歳という若さでした。
近藤の最期の言葉とされる辞世の句には、彼の生き様が凝縮されています。
孤軍援け絶えて俘囚となる
顧みて君恩を思えば涙更に流る
一片の丹衷能く節に殉ず
推陽は千古是れ吾がともがら
「たとえわずかな真心しか持たぬ身でも、節義に殉じることは知っている」——この言葉は、最後まで徳川家への忠誠を貫いた近藤勇の信念を表しています。
新選組という組織は、近藤の死後も土方歳三らによって北へと転戦を続けましたが、函館五稜郭の戦いで終焉を迎えました。しかし、彼らの生き様は後世の人々の心を捉え続け、150年以上経った今も多くの小説やドラマ、映画の題材となっています。
「誠」の旗のもとに戦い続けた新選組局長・近藤勇。その波乱に満ちた生涯は、日本史の中でもひときわ鮮烈な光を放っています。


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