古代エジプトの人々は、人間がどこから生まれたのか考えたとき、一人の神の姿を思い浮かべました。
その神は轆轤(ろくろ)の前に座り、まるで陶芸家のように土をこねて人間の体を作り上げたのです。
雄羊の頭を持つこの神の名は「クヌム」。ナイル川の恵みと創造の力を司る、エジプト神話でも特に古い神様なんです。
この記事では、土から人を生み出した創造神「クヌム」について、その神秘的な姿や役割、興味深い伝承を分かりやすくご紹介します。
概要

クヌム(フヌムとも呼ばれます)は、古代エジプト神話に登場する創造神の一人です。
エレファンティネという町(現在のアスワン)を中心に、紀元前3100年頃の初期王朝時代からすでに信仰されていた、非常に歴史の古い神様なんですね。
クヌムが他の創造神と違うのは、陶芸家のように轆轤を使って人間を作ったという点です。世界各地に「土から人が作られた」という神話はありますが、クヌムはまさにその代表的な存在といえるでしょう。
また、ナイル川の氾濫を管理する水の神としても崇められていました。古代エジプト人にとって、ナイル川の氾濫は農業に欠かせない恵みだったんです。
姿・見た目
クヌムの姿は、一目で分かる特徴的なものです。
クヌムの外見的特徴
- 頭部:雄羊の頭を持つ
- 体:人間の体
- 角の形:時代によって変化
- 古い時代:横に螺旋状に伸びる角(古代エジプト固有の羊の角)
- 新王国時代以降:下向きに曲がった角(アメン神と同じ形)
- 持ち物:轆轤(陶芸用の回転台)、アンク(生命の象徴)、ワス杖(力の象徴)
- 服装:腰布、時には王冠
面白いことに、クヌムの角の形は時代によって変わっているんです。これは、モデルとなった羊の種類が変化したためなんですね。
特殊な姿
場面によっては、クヌムは別の姿でも描かれることがあります。
- 四つの頭を持つ雄羊:四元素(火・水・土・風)や四柱の神(ラー、ゲブ、シュウ、オシリス)の魂を表す
- 雄羊の頭を持つ魚:ナイル川との結びつきを強調
- 雄羊の頭を持つワニ:ナイル川の支配者としての側面
特徴
クヌムには、創造神ならではの特別な力と役割があります。
主な能力と役割
創造の力
クヌムの最も重要な役割は、轆轤を使って生命を作り出すことです。ナイル川の泥土を材料に、人間だけでなく神々や動物まで、あらゆる存在を形作ったとされています。
人間を作るときは、まずクヌムが轆轤の上で体を形成し、次に蛙の女神ヘケトがそこに魂を吹き込んで命を与えました。このため、クヌムは「神の陶工」「父たちの父」「母たちの母」とも呼ばれたんです。
ナイル川の管理者
古代エジプト人は、エレファンティネ(第一カタラクト)にナイル川の源があると信じていました。クヌムはその番人として、川の氾濫を管理する重要な神だったんですね。
普段は結界で水位を抑えていますが、クヌムがその結界を解くことで水が溢れ出し、大地を潤す氾濫が起きると考えられていました。「弓の矢」を放って洪水を引き起こすとも表現されています。
豊穣の神
ナイル川の氾濫が運ぶ肥沃な泥土と結びついて、クヌムは豊かな実りをもたらす神としても崇められました。雄羊という動物自体が生殖能力の象徴だったこともあり、「交尾の巧みなもの」という称号も持っていたそうです。
技巧の神
陶芸という高度な技術を持つクヌムは、優れた職人の神でもありました。彼の名前自体が「結び付ける」「作り上げる」という意味を持っていたんです。
守護神としての側面
クヌムには、穏やかな創造者という顔だけでなく、荒々しい戦士の顔もあります。
雄羊の野生的な性質を反映して、クヌムは「弓の民を押し返すもの」という称号を持っていました。これは、エジプトに反抗するヌビア人たちを制圧する守護神としての役割を表しているんですね。
伝承

クヌムにまつわる伝承の中で、特に有名なものをご紹介します。
飢饉の石碑(ファミン・ステラ)
セヘル島に残る「飢饉の石碑」には、クヌムの力を示す印象的な物語が刻まれています。
あらすじ
- 第三王朝のジョセル王の時代、エジプトに7年間の干ばつと飢饉が襲った
- 王はナイル川の氾濫が起きない原因を調べ、エレファンティネの神クヌムが怒っていることを知った
- ジョセル王は夢の中でクヌムに会い、神殿への奉納を約束した
- クヌムは「ナイルは私の命令で毎年氾濫し、エジプトを潤すだろう」と約束
- 王は神殿への税収の10分の1を捧げることを定めた
この石碑の上部には、ジョセル王がクヌム、サテト、アヌケトの三柱に貢物を捧げる姿が彫られています。
ファラオの誕生神話
クヌムは、多くのファラオの誕生物語に登場します。これは王の正統性を示すための重要な神話だったんです。
女王ハトシェプストの誕生
新王国時代の女王ハトシェプストの神殿(デイル・エル・バハリ神殿)には、彼女の「神聖な誕生」の場面が描かれています。
- クヌムが轆轤の前に座り、粘土でハトシェプストの体とカア(魂の一部)を形成
- 「生命、健康、力、そしてすべての贈り物」を与える
- クヌムの手で作られたことで、彼女が神々の上に現れることができた
アメンホテプ3世の誕生
ルクソール神殿には、アメンホテプ3世がクヌムによって作られる様子が刻まれています。
西カール・パピルス(三つ子の王たち)
中王国時代の物語では、ルッデデトという女性が三つ子の王を出産する際、クヌムと他の神々が助産師に化けて現れます。クヌムは赤ちゃんたちの体に「健康」を吹き込み、報酬として大麦の袋を受け取ったとされています。
エスナ神殿の神話
エスナ(ラトポリス)では、クヌムは雌ライオンの女神メンヒトと結婚し、魔法使いの神ヘカをもうけたとされています。
エスナ神殿の壁面には、クヌムを讃える多くの賛歌が刻まれており、彼が人間だけでなく、神々、動物、植物、さらには様々な言葉までも創造したと歌われています。
ステラ(石碑)に見るクヌム
セティ1世のステラ
セティ1世がクヌムに二つの壺を捧げる姿が描かれています。クヌムはワス杖とアンクを持ち、アテフ冠と太陽円盤を頂いています。碑文には「西の主クヌムに愛されし者」と刻まれているんです。
トゥトアンクアメンのステラ
シン・エル・カビドから出土したステラでは、トゥトアンクアメンがクヌムに香を焚く姿が描かれています。玉座に座ったクヌムは腰布、胸当て、幅広い襟飾りを身に着けており、「カタラクトの主」という称号が記されています。
信仰の広がり

クヌムは古い神でありながら、その役割が他の神々と調和しやすかったため、エジプト全土で信仰を受けていました。
主要な信仰地
エレファンティネ
クヌム信仰の中心地で、中王国時代(紀元前2055-1650年頃)から神殿が建てられていました。ここでは妻のサテトと娘(または妻)のアヌケトと共に三柱で祀られていたんです。
黄金の頭飾りをつけられ、石棺に納められたミイラ化された聖なる雄羊も発掘されており、クヌムへの篤い信仰が窺えます。
エスナ神殿
プトレマイオス朝からローマ時代にかけて建設された神殿で、クヌムを主神として祀っています。ここではネイト、メンヒト、ヘカなどと共に崇拝されました。
神殿の壁面には、ローマ皇帝ティベリウスやコンモドゥスがクヌムに捧げ物をする場面が描かれています。また、大賛歌と呼ばれる長大な讃歌では、クヌムが全ての生命の創造者として詳しく語られているんです。
その他の地域
- コム・オンボ
- エドフ
- デンデラ
- ヘルモポリス
- メンフィス
- さらにはヌビア地方まで
他の神々との関係
クヌムは様々な創造神話に組み込まれ、独自の立場を保ちました。
- ヘルモポリス創世神話:原初の卵と世界を創造した陶工として登場
- アトゥムやプタハ:他の創造神が台頭する中でも、「技術者」としての独自性を保持
- ヌン:原初の水と結びつけられることもあった
- ラー:「クヌム・ラー」として太陽神の魂とも同一視された
運命の神
人間を作るクヌムは、その人の運命も決めると考えられていました。このため「運命の主」「来世の主」とも呼ばれ、人々の人生全体を司る存在だったんです。
まとめ
クヌムは、土と水の力で生命を創造した古代エジプトの重要な神です。
重要なポイント
- 雄羊の頭を持つ創造神で、轆轤を使って人間や神々を作った
- 古い神で、初期王朝時代(紀元前3100年頃)からすでに信仰されていた
- エレファンティネを中心に、エジプト全土で崇拝された
- ナイル川の番人として氾濫を管理し、豊穣をもたらす神
- 技巧の神として陶芸や工芸の守護者
- ファラオの誕生神話に登場し、王権の正統性を保証する役割
- サテト、アヌケト、ヘケト、メンヒト、ネイトなど複数の女神と結婚
- 「神の陶工」「父たちの父」「運命の主」など多くの称号を持つ
クヌムは創造者としての穏やかな面と、守護神としての荒々しい面を併せ持つ、非常に多面的な神様でした。エジプト文明の根幹であるナイル川の恵みと、人間という存在の起源を同時に象徴する、まさに古代エジプト神話の中核を担う神だったんですね。


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