「惑星はどうやって動いているんだろう?」
そんな疑問に、数学的な答えを初めて与えた人物がいます。
ヨハネス・ケプラー(1571〜1630)です。
彼が発見した「ケプラーの法則」は、のちにニュートンの万有引力の法則へとつながり、現代の宇宙開発の礎となりました。
NASAが打ち上げた系外惑星探査機に「ケプラー」という名前がつけられているのも、彼の偉大な功績をたたえてのことなんですね。
この記事では、ケプラーの法則や業績、そして波乱万丈な生涯についてわかりやすく解説します。
ケプラーってどんな人?
ヨハネス・ケプラーは、16〜17世紀に活躍したドイツの天文学者・数学者です。
当時はまだ「地球が宇宙の中心」という天動説が主流でした。
コペルニクスが地動説(太陽中心説)を唱えていたものの、科学的に証明されたわけではなかったんです。
ケプラーは膨大な観測データと数学を駆使して、惑星の動きに法則性があることを発見しました。
この発見が、地動説を科学的に裏付けることになったんですね。
さらに驚くべきことに、彼の業績は天文学だけにとどまりません。
光学の分野でも「近代光学の父」と呼ばれるほどの功績を残しているんです。
ケプラーの法則をわかりやすく解説
ケプラーの最大の功績といえば、やはり「ケプラーの法則」でしょう。
全部で3つあります。
第一法則:楕円軌道の法則
惑星は太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描く。
それまで、惑星の軌道は「完全な円」だと信じられていました。
円は神が創造した完璧な図形だから、天体の動きも円であるべきだ——そう考えられていたんですね。
ところがケプラーは、実際の観測データを調べた結果、惑星の軌道が円ではなく「楕円」だと突き止めました。
しかも太陽は楕円の中心ではなく、少しずれた「焦点」の位置にあるんです。
2000年以上信じられてきた常識を覆す、革命的な発見でした。
第二法則:面積速度一定の法則
惑星と太陽を結ぶ線分が、一定時間に描く面積は常に等しい。
ちょっとイメージしにくいかもしれませんね。
簡単に言うと、「惑星は太陽に近いときは速く、遠いときは遅く動く」ということです。
太陽に近い位置では移動距離が長くなり、遠い位置では短くなる。
でも、どちらの場合も「太陽との間に描く扇形の面積」は同じになるんです。
これは角運動量保存則という物理法則につながる重要な発見でした。
第三法則:調和の法則
惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。
数式で書くと「T² ∝ a³」となります。
Tは公転周期(太陽の周りを一周する時間)、aは楕円軌道の長い方の半径です。
この法則のおかげで、太陽からの距離がわかれば公転周期を計算できるようになりました。
しかもこの法則は、太陽と惑星の関係だけでなく、惑星と衛星の関係にも当てはまるんです。
近代光学の父としての顔
ケプラーは天文学だけでなく、光学の分野でも画期的な業績を残しています。
目の仕組みを解明
ケプラーは、光がレンズを通ってどのように像を結ぶのかを研究しました。
その結果、網膜に逆さまの像が映ることを初めて正しく説明したんです。
この発見によって、近視や遠視がなぜ起こるのかも説明できるようになりました。
凸レンズや凹レンズがどうして視力を矯正できるのか、その理論的な基礎を築いたのもケプラーです。
光の強さの法則
ケプラーは「光の強さは距離の2乗に反比例する」という法則も発見しました。
光源から離れるほど、光は弱くなっていく——現代では当たり前のこの原理を、最初に定式化したのが彼なんです。
ケプラー式望遠鏡
ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って天体観測を始めたのは1610年のこと。
ケプラーはすぐに望遠鏡の原理を研究し、改良版を考案しました。
ガリレオの望遠鏡は凸レンズと凹レンズを組み合わせたもの。
一方、ケプラー式望遠鏡は2枚の凸レンズを使います。
ケプラー式のほうが視野が広く、より高い倍率を実現できました。
現代の屈折望遠鏡のほとんどは、このケプラー式の原理に基づいています。
ケプラーの波乱万丈な生涯
ケプラーの人生は、苦難の連続でした。
それでも彼は研究を続け、歴史に残る発見を成し遂げたんです。
幼少期:貧困と病弱
1571年12月27日、ドイツのヴァイル・デア・シュタットに生まれました。
祖父は町長を務めた名家でしたが、父は傭兵として各地を転々とし、ケプラーが5歳のときに家を出てしまいます。
幼い頃に天然痘にかかり、視力が弱くなりました。
天文学者にとって目が悪いのは致命的ですが、それでも彼は星を追い続けたんですね。
6歳のとき、母に連れられて彗星を見たこと。
9歳のとき、父と一緒に月食を観察したこと。
この2つの体験が、ケプラーを天文学の道へ導きました。
大学時代:コペルニクスとの出会い
奨学金を得てテュービンゲン大学に入学。
もともとは牧師になるつもりでしたが、ここで運命が変わります。
数学教授のミヒャエル・メストリンから天文学を学び、コペルニクスの地動説に出会ったんです。
ケプラーはすぐにこの説を支持し、天文学の研究に没頭するようになりました。
ティコ・ブラーエとの出会い
1600年、ケプラーは当時最高の天文観測者だったティコ・ブラーエのもとへ行きます。
ティコはまだ望遠鏡がなかった時代に、肉眼で驚異的な精度の観測データを残していた人物です。
ケプラーはティコの助手として働き始めましたが、わずか1年半後の1601年、ティコは急死してしまいます。
しかしケプラーは彼の膨大な観測データを引き継ぎ、それをもとに惑星運動の法則を発見することになりました。
晩年:魔女裁判と貧困
ケプラーの人生には、まだ試練が待っていました。
1615年、なんと母親が魔女として告発されてしまったんです。
当時のヨーロッパでは魔女狩りが盛んで、無実の人々が処刑されていました。
ケプラーは母を救うために奔走し、6年もの裁判の末、ようやく釈放を勝ち取りました。
しかし、その間も彼は研究を続け、第三法則を発見したのはまさにこの時期だったんです。
1630年11月15日、58歳でレーゲンスブルクにて死去。
三十年戦争の混乱の中、彼の墓は数年後に破壊されてしまいました。
ケプラーの主要な著作
| 出版年 | 書名 | 内容 |
|---|---|---|
| 1596年 | 宇宙の神秘 | 正多面体を用いた惑星軌道の幾何学的モデルを提唱。コペルニクスの地動説を全面的に支持 |
| 1604年 | 天文学の光学的部分 | 近代光学の基礎を築いた著作。光の屈折、レンズの原理、人間の視覚の仕組みを解説 |
| 1609年 | 新天文学 | ケプラーの第一法則と第二法則を発表。天文学史上最も重要な著作のひとつ |
| 1611年 | 屈折光学 | 望遠鏡の原理を理論的に解明。ケプラー式望遠鏡の設計を提案 |
| 1619年 | 世界の調和 | ケプラーの第三法則を発表。宇宙の数学的な調和を探求 |
| 1627年 | ルドルフ表 | ティコの観測データに基づく惑星位置表。コペルニクスの表より30倍も精度が高かった |
現代への影響
ケプラーの発見は、現代科学にどのような影響を与えているのでしょうか。
ニュートンへの橋渡し
ケプラーの法則がなければ、ニュートンの万有引力の法則は生まれなかったかもしれません。
ニュートンは「惑星がケプラーの法則に従うためには、どんな力が必要か」を考え、万有引力を発見したんです。
宇宙開発への貢献
人工衛星の軌道計算には、今でもケプラーの法則が使われています。
ロケットの打ち上げ、惑星探査機の軌道設計——すべてケプラーの発見が土台になっているんですね。
ケプラー宇宙望遠鏡
2009年にNASAが打ち上げた系外惑星探査機「ケプラー」は、9年間の運用で2600個以上の系外惑星を発見しました。
ケプラーの名を冠したこの望遠鏡は、彼の遺産を現代に引き継いでいます。
まとめ
ヨハネス・ケプラーについて、ポイントを整理しておきましょう。
- ドイツの天文学者・数学者(1571〜1630)
- ケプラーの法則(第一〜第三法則)を発見し、地動説を科学的に裏付けた
- 「近代光学の父」として光学分野でも画期的な業績を残した
- ケプラー式望遠鏡を考案し、現代の屈折望遠鏡の基礎を築いた
- ニュートンの万有引力の法則につながる重要な発見をした
- 貧困、視力障害、母親の魔女裁判など、苦難の中で研究を続けた
貧しい家庭に生まれ、病弱で、視力も弱かった。
それでもケプラーは星を見上げ続け、宇宙の法則を解き明かしました。
彼の自作の墓碑銘には、こう書かれていたそうです。
「私はかつて天を測った。今は地の影を測る。わが精神は天界を離れることはなかったが、わが肉体の影はここに眠る」
宇宙を愛し続けた天文学者の言葉は、400年後の今も輝いています。
ケプラーの法則一覧表
| 法則 | 別名 | 内容 | 発表 |
|---|---|---|---|
| 第一法則 | 楕円軌道の法則 | 惑星は太陽を焦点のひとつとする楕円軌道を描く | 1609年『新天文学』 |
| 第二法則 | 面積速度一定の法則 | 惑星と太陽を結ぶ線分が一定時間に描く面積は常に等しい | 1609年『新天文学』 |
| 第三法則 | 調和の法則 | 惑星の公転周期の2乗は軌道の長半径の3乗に比例する | 1619年『世界の調和』 |
ケプラー年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1571年 | ドイツのヴァイル・デア・シュタットに誕生 |
| 1577年 | 母と一緒に彗星を観察(6歳) |
| 1580年 | 父と一緒に月食を観察(9歳) |
| 1589年 | テュービンゲン大学に入学 |
| 1594年 | グラーツの学校で数学・天文学の教師になる |
| 1596年 | 『宇宙の神秘』を出版 |
| 1600年 | ティコ・ブラーエの助手としてプラハへ |
| 1601年 | ティコの死後、皇帝付き数学官の地位を継承 |
| 1604年 | 『天文学の光学的部分』を出版、超新星を観測 |
| 1609年 | 『新天文学』を出版(第一・第二法則を発表) |
| 1611年 | 『屈折光学』を出版 |
| 1615年 | 母が魔女として告発される |
| 1619年 | 『世界の調和』を出版(第三法則を発表) |
| 1621年 | 母が釈放される |
| 1627年 | 『ルドルフ表』を完成 |
| 1630年 | レーゲンスブルクにて死去(58歳) |


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