【あと一歩で歴史が変わった!】始皇帝暗殺未遂事件の主役「荊軻(けいか)」とは?その生涯と伝説の最期

神話・歴史・伝承

地図を広げた瞬間、そこから毒を塗った短剣が現れたら、あなたはどうしますか?

紀元前227年、秦の都・咸陽の宮殿で、まさにそんな衝撃的な出来事が起こりました。

後に中国を統一する始皇帝を、あと一歩のところで暗殺しかけた男がいたのです。その名は荊軻。彼の決死の行動は失敗に終わりましたが、2200年以上経った今でも、勇気ある悲劇の英雄として語り継がれています。

この記事では、中国史上最も有名な刺客「荊軲」の生涯と、歴史を変えかけた暗殺未遂事件について詳しくご紹介します。

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概要

荊軻(けいか)は、紀元前3世紀の中国戦国時代末期に活躍した刺客です。

元々は衛という国の出身で、本名は慶卿(けいけい)といいました。読書と剣術を愛する教養人でしたが、故郷で認められず、各地を放浪する遊侠の身となります。

やがて燕という国に辿り着き、そこで太子丹という王子に見出されました。当時、秦という強大な国が次々と他国を滅ぼしており、燕も滅亡の危機に瀕していたんです。太子丹は最後の手段として、秦王(後の始皇帝)の暗殺を計画し、その大役を荊軻に託しました。

荊軻は樊於期の首督亢の地図を手土産に秦の都へ向かい、地図の中に毒を塗った短剣を隠して暗殺を試みます。しかし、あと一歩のところで失敗し、命を落としました。

彼の物語は司馬遷の『史記』に詳しく記され、後世の詩人や作家によって数多くの作品の題材となっています。

荊軻の生い立ちと人物像

放浪の日々

荊軻は斉の名族・慶氏の末裔として生まれました。

若い頃から読書を好み、剣術にも優れていましたが、故郷の衛で君主に仕官を求めても用いられませんでした。失望した荊軻は、諸国を放浪する遊侠の道を選んだのです。

放浪中には興味深いエピソードがあります。榆次という場所で剣術の達人・蓋聶と剣術論で言い争いになりかけたとき、相手が睨むとすぐに退散しました。また邯鄲では、博打のルールをめぐって魯句践という者と喧嘩になりかけましたが、相手が怒ると即座に立ち去ったんです。

周囲は荊軻を「臆病者」と笑いましたが、実は違いました。些細なことで命を落とす危険を冒さないという、冷静な判断力の持ち主だったのです。

燕での生活

燕に移った荊軻は、高漸離という筑(古代の弦楽器)の名手と親しくなりました。

二人は毎日のように市場で酒を酌み交わし、高漸離が筑を奏でると荊軻がそれに合わせて歌い、やがて泣き始めるという有様でした。まるで周りに誰もいないかのように振る舞う二人の様子は、「傍若無人」という言葉の由来になったとされています。

荊軻は酒豪たちと交遊していましたが、その人となりは沈着冷静で思慮深いものでした。各地で賢人や豪傑と親交を結び、燕では実力者の田光に賓客として迎えられるほどの人物だったんですね。

暗殺計画の始まり

太子丹の苦悩

紀元前232年、燕の太子丹は秦に人質として送られていました。

丹は秦王政(後の始皇帝)と若い頃に親しくしていましたが、王になった政は丹を見下し冷遇します。屈辱に耐えかねた丹は秦から逃亡し、燕に帰国しました。

しかし、秦の勢いは増すばかり。次々と諸国を滅ぼし、ついに燕にも迫ろうとしていました。燕の国力では到底太刀打ちできません。丹は秦への報復と国の存亡をかけて、ある大胆な計画を思いつきます。

それが、秦王の暗殺でした。

田光の自害と荊軻の決意

丹は実力者の田光に相談し、田光は荊軻を推薦しました。

田光が荊軻に話を告げると、丹は別れ際に「他言無用」と念を押します。これを聞いた田光は、「人に疑われるのは節義ある俠客ではない。私はもう死んだので、秘密が漏れることはないと伝えてくれ」と言い残し、自害して荊軻を激励したのです。

田光の死を知った丹は大いに嘆きました。そして荊軻に会うと、席を離れて拝礼し、懇願します。

荊軻は一度は断りましたが、丹の固い意志を悟って承諾しました。

破格の待遇

荊軻は上卿という高い位で迎えられ、上等の館を与えられました。

丹は毎日荊軻のもとを訪れ、美食・珍品・車馬・美女など、欲しいものは何でも贈りました。『燕丹子』という書物によると、その待遇は驚くべきものだったそうです。

ある時、荊軻が瓦を拾って蛙に投げているのを見た丹は、すぐに金塊を捧げました。また、「千里馬の肝は美味そうだ」と荊軻が言うと、丹は馬を殺して肝を差し出したとも伝わっています。

このような破格の礼遇に、荊軻の心は満たされていきました。

暗殺の準備

手土産の確保

秦王に接近するには、相手が喜ぶ贈り物が必要でした。

荊軻が考えたのは、二つの手土産です。

暗殺に必要だった二つの贈り物

  • 樊於期の首:秦から亡命してきた将軍で、秦は彼に金千斤と領地一万家という莫大な懸賞金をかけていた
  • 督亢の地図:燕の肥沃な土地の地図で、秦が欲しがっていた領土

太子丹は、匿っている樊於期を殺すことに躊躇しました。そこで荊軻は単独で樊於期に会い、計画を打ち明けます。樊於期は秦への復讐の機会と悟り、感謝を告げて自ら首を刎ねました。

毒の短剣

荊軻は天下に比類なき短剣を用意しました。

趙の名工・徐夫人が作った短剣を百金で入手し、工人に命じて毒薬を塗布させます。試し斬りをすると、わずかに刺して血が糸ほど流れただけで即死するほどの威力でした。

副使には、勇士として名高い秦舞陽が同行することになりました。しかし荊軻は、秦舞陽を頼りにならないと見抜いていたんです。

易水の別れ

「風蕭蕭として易水寒し」

紀元前227年、いよいよ出発の日が来ました。

太子丹と事情を知る者たちは、みな白い喪服を着て送別に列しました。易水のほとりで道祖神の儀式が行われ、友人の高漸離が筑を奏でます。

荊軻はそれに合わせて歌いました。曲調が悲しい変徴の調べに移ると、壮士たちは皆涙を流しました。

そして荊軻が詠んだのが、この有名な詩句です。

風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還
(風が音を立てて吹き、易水は冷たい。壮士は一度去れば、再び帰ることはない)

さらに曲調が激しい羽声に転じると、誰もが憤怒と悲壮の感情から目を見開き、髪は逆立って冠を突き抜けんばかりの形相となりました。

荊軻は車に乗って去り、ついに一度も振り返ることはありませんでした

暗殺の実行

咸陽への潜入

荊軻たちは秦の都・咸陽に到着しました。

燕王の使者として千金もの贈り物を携えて参上し、まず侍中の蒙嘉に賄賂を贈ります。蒙嘉は秦王政に、「燕王は大王の威光に恐れ慄き、樊於期の首と督亢の地図を献上したいと申しております」と奏上しました。

秦王政は大いに喜び、荊軻たちは九賓の礼という最高位の礼で迎えられ、咸陽宮で秦王政と謁見することになったのです。

宮殿での緊迫

荊軻と秦舞陽が函を持って階段に至ると、問題が起きました。

秦舞陽が恐怖から顔色を変え、震え始めたのです。不審に思った群臣が尋ねると、荊軻は微笑んで答えました。

「北方の田舎者で、天子にお目にかかったことがないため、震え慄いているのです」

秦王政は地図を持ってくるよう命じ、荊軻が差し出します。秦王政が地図を開き始め、最後まで広げた瞬間──

そこには毒を塗った短剣が巻き込んでありました

決死の攻防

荊軻は素早く左手で秦王政の袖を掴み、右手で短剣を取って突きかかりました。

しかし秦王政は驚いて身を引き、立ち上がった時に袖が破れたため、間一髪でかわされます。秦王政は慌てて腰の剣を抜こうとしますが、剣が長い上に鞘が堅く締まっていて、すぐには抜けません。

荊軻は秦王政を追い回し、秦王政は必死で柱の周りを逃げ回りました。

秦の法律では、殿上に侍る者は武器を持つことができず、武器を持つ護衛は殿下に控えており、勅命なしには上がれませんでした。群臣たちは素手で荊軻を取り押さえようとします。

そのとき、侍医の夏無且が薬箱を荊軻に投げつけました。荊軻がひるんだ隙に、側近から「王よ、剣を背負われよ」と声が飛び、秦王政は剣を背中の方へ回してやっと抜くことができたんです。

荊軻の最期

秦王政は荊軻の左太腿を斬り、荊軻は倒れ込みました。

荊軻は短剣を秦王政に投げつけましたが、外れて柱に刺さります。このことから「図窮匕見(地図が尽きると短剣が現れる)」という故事成語が生まれました。物事が最終段階に至り、真相が明らかになることを意味する言葉です。

秦王政はさらに荊軻を斬りつけ、荊軻は八つもの傷を負いました。

荊軻は失敗を悟り、柱にもたれて笑い、足を投げ出して座り込むと、こう言い放ちました。

「事が成らなかったのは、生け捕りにして必ず約束を取り付け、それを太子に報告したかったからだ」

そして側近たちに殺されました。秦王政はしばらくの間、心が落ち着かなかったといいます。

その後の運命

燕の滅亡

秦王政は激怒し、王翦に命じて燕を攻めさせました。

翌年の紀元前226年には燕の都・薊が陥落し、首謀者である太子丹も殺されます。燕は紀元前222年に完全に滅ぼされ、その翌年の紀元前221年、秦は天下を統一しました。秦王政は始皇帝の号を名乗ったのです。

始皇帝によって、荊軻の一族は七族に至るまで根絶やしにされたと伝わっています。

高漸離の復讐

荊軻の友人・高漸離もまた、始皇帝への復讐を試みました。

高漸離は筑の名手として始皇帝の前で演奏する機会を得ますが、荊軻の友人であることが発覚し、目を潰されます。それでも高漸離は諦めず、筑に鉛を詰め込んで始皇帝を殴り殺そうとしましたが、失敗して処刑されました。

その後も張良など、始皇帝暗殺を目論む者が現れましたが、誰も成功しませんでした。

後世の評価

賛美と批判

荊軻は後世、反抗精神の象徴として多くの詩人や作家に讃えられました。

司馬遷は『史記』で、「その大義は成就しなかったものの、志は明らかであり、最後まで偽ることなく、その名は後世に伝わった」と評価しています。

東晋の詩人・陶淵明は「詠荊軻」という詩で荊軻の壮挙を詠い、唐の詩人・駱賓王も「于易水送人」で易水の別れを題材にしました。

一方で、北宋の司馬光は、「荊軻は一尺八寸程度の短剣で燕を強くし、秦を弱めようとした。なんと愚かなことだ」と批判的に評価しています。揚雄という学者も「君子の道からすれば、荊軻は盗賊の輩にすぎない」と述べました。

現代への影響

荊軻は現代でも高い知名度を誇っています。

中国では国民的に知られた人物であり、数多くの映画、ドラマ、文学作品の題材となっています。日本でも『Fate/Grand Order』などのゲームに登場し、若い世代にも親しまれているんです。

切歯腐心(歯軋りして心を腐らせる)という四字熟語も、樊於期が秦王殺害の方法を考え抜いていた様子から生まれた言葉です。

まとめ

荊軻は、紀元前3世紀に始皇帝暗殺を企てた伝説的な刺客です。

重要なポイント

  • 衛の出身で、読書と剣術を愛する教養人だった
  • 燕の太子丹の命を受け、始皇帝暗殺を引き受けた
  • 樊於期の首と督亢の地図を手土産に、毒を塗った短剣で襲撃
  • 易水の別れで詠んだ「風蕭蕭として易水寒し」は有名な詩句
  • 地図の中に短剣を隠し、宮殿で始皇帝を襲ったが失敗
  • 「図窮匕見」という故事成語の由来となった
  • 暗殺失敗後、燕は滅ぼされ、始皇帝は中国を統一
  • 後世、勇気ある悲劇の英雄として語り継がれている

荊軻の物語は、たった一人の勇気が歴史を変えかけた瞬間を伝えています。もし荊軻が成功していたら、中国史、いや世界史は全く違うものになっていたかもしれません。2200年以上経った今でも、その壮絶な生き様は人々の心を打ち続けているのです。

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