怪談「累(かさね)」とは?江戸時代の実話に基づく因果応報の物語

神話・歴史・文化

江戸時代、「四谷怪談」や「番町皿屋敷」と並んで人々を震え上がらせた怪談があります。それが「累ヶ淵(かさねがふち)」、通称「累(かさね)」の物語です。

この怪談の恐ろしさは、単なる幽霊話ではないところにあります。茨城県の農村で実際に起きたとされる事件をもとにしており、60年にもわたる因果応報と怨念が描かれています。歌舞伎や落語の題材としても繰り返し取り上げられ、現代の漫画にまで影響を与えているこの物語について、詳しく見ていきましょう。

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累ヶ淵とは何か

「累ヶ淵」とは、現在の茨城県常総市羽生町にある法蔵寺裏手付近の鬼怒川沿岸の地名です。江戸時代、この地を舞台にした「累(るい、かさね)」という女性の怨霊と、その除霊をめぐる物語が広く知られるようになりました。

この物語が最初に世に広まったのは、元禄3年(1690年)に出版された仮名草子『死霊解脱物語聞書(しりょうげだつものがたりききがき)』がきっかけです。この書物は、事件の当事者たちに取材してその顛末を記録した、いわばルポルタージュのような性質を持っています。著者は残寿(ざんじゅ)という僧侶で、怨霊を成仏させた祐天上人(ゆうてんしょうにん)の験力を世に伝える目的で書かれました。

累の怪談のあらすじ

『死霊解脱物語聞書』によれば、この物語は慶長17年(1612年)から寛文12年(1672年)までの約60年間にわたって展開されました。

助(すけ)の悲劇

物語は下総国岡田郡羽生村(現在の茨城県常総市)から始まります。この村に与右衛門(よえもん)という百姓がいました。与右衛門は妻を亡くした後、隣村からお杉という女性を後妻に迎えます。

お杉には前の夫との間にできた助(すけ)という子どもがいました。助は生まれつき容姿が醜く、手足も不自由だったため、義父の与右衛門から激しく疎まれました。与右衛門はお杉に対して「こんな子どもは誰かにやるか、捨ててこい。さもなくば親子ともども村に帰れ」と厳しく責め立てました。

思い詰めたお杉は、ついに我が子を殺すという決断をします。薬草摘みに出た折、助を川に投げ込んで溺死させてしまったのです。

累(かさね)の誕生

助の死んだ翌年、与右衛門とお杉の間に女の子が生まれ、「累(るい)」と名付けられました。ところがこの子は、殺された助に瓜二つの容姿だったのです。村人たちは「助が重ねて生まれてきたのだ」と噂し、「るい」ではなく「かさね」と呼ぶようになりました。

累は両親を早くに亡くし、一人で田畑や財産を引き継ぎます。やがて谷五郎という流れ者が村にやってきました。累は病気になった谷五郎を看病し、回復した彼を婿に迎えて「二代目与右衛門」と名乗らせました。

累の殺害

しかし谷五郎は、累の田畑目当てで婿入りしたに過ぎませんでした。彼は醜い容姿の累を次第に疎ましく思うようになります。そしてある日、畑仕事の帰り道、累に重い荷物を背負わせた上で、川に突き落として溺死させてしまいました。

恐ろしいことに、村人たちはこの殺害を目撃していながら、累を疎ましく思っていたために見て見ぬふりをしたのです。

怨霊の祟り

その後、谷五郎(二代目与右衛門)は次々と後妻を迎えましたが、彼女たちは6人まで不審な死を遂げます。ようやく7人目の妻・きよとの間に菊という娘が生まれました。

寛文12年(1672年)正月、菊は突然の異常な発作に襲われます。暴れ回り、奇声を発し、まるで地獄の責め苦を受けているかのような様子でした。そして菊の口を借りて、累の怨霊が語り始めたのです。

「私は菊ではない。26年前に殺されたお前の妻の累だ。お前は田畑目当てで婿入りしたくせに、私の顔や体が醜いことを憎み、畑の帰りに川に突き落として殺した。その恨みで、お前の後妻を6人まで呪い殺してやった」

累の霊は、殺害の様子を生々しく語りました。胸を踏みつけられ、口に砂を押し込まれ、目をえぐられ、首を絞められて殺されたと。目撃者がいたことを告げられた谷五郎は、ついに自分の罪を認めて累に謝罪しました。しかし、怨霊は菊の体から出ていこうとしませんでした。

祐天上人による死霊解脱

この危機を救ったのが、近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)に滞在していた祐天上人(ゆうてんしょうにん)でした。

祐天上人は寛永14年(1637年)に陸奥国磐城郡(現在の福島県いわき市)に生まれ、12歳で増上寺に入門した浄土宗の僧侶です。若い頃は経文を覚えることができずに苦労しましたが、修行を重ねて念仏の力で怨霊を成仏させる力を身につけたとされています。後に増上寺の第36世法主となり、5代将軍徳川綱吉やその生母・桂昌院、6代将軍徳川家宣からも深い帰依を受けました。

祐天上人は菊の髪をつかまえて床に引き据え、菊自身に念仏を唱えさせることで累の霊を成仏させました。

ところが、まもなく菊は再び霊に取り憑かれます。今度は先に殺された助の霊でした。助の霊は「累も醜さゆえに殺されてしまった。累の恨みは念仏で消えたけれど、おらの恨みはまだ消えていない」と訴えました。

祐天上人は助の霊にも十念を授け戒名を与えて成仏させ、60年にも及ぶ悪因縁をようやく断ち切ったのでした。

江戸時代の怪談としての特徴

累の怪談には、他の怪談にはない独特の恐ろしさがあります。

「実話」としての恐怖

この物語は、日本のどこにでもあるような農村で実際に起きた事件として記録されています。与右衛門も累も菊も実在した人物とされ、法蔵寺には今も彼らの墓が残されています。寺の記録によれば、累の命日は正保4年(1647年)8月11日、享年は35歳とされています。

因果が「重なる」構造

累の怪談では、祟りそのものが「重ねられて」います。まず助が殺され、その生まれ変わりとされる累も同じ場所で殺される。そして両者の怨霊が菊に取り憑いて因果を語る。殺しても殺しても同じ親のもとに生まれてくる子どもの執念と、それでも繰り返される悲劇。この「重なり」が、物語の名前の由来にもなっています。

社会全体への告発

累の怨霊は、殺害を黙認した村人たちをも呪いました。谷五郎が直接手を下したとはいえ、見て見ぬふりをした村全体が罪を負っている。累が醜いからといって疎んじ、殺されても助けなかった村人たちの冷酷さが、この怪談をより深刻なものにしています。

芸能への影響

歌舞伎「累物」

累の物語は「累物(かさねもの)」と呼ばれる一群の歌舞伎作品を生み出しました。

特に有名なのが、四代目鶴屋南北作『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』です。文政6年(1823年)に森田座で初演されたこの作品は、通称「かさね」と呼ばれ、現在も上演される人気演目です。

物語では、与右衛門という男と腰元のかさねが登場します。実は与右衛門は、かさねの母と密通してその父を殺した人物でした。かさねは知らずに父の仇と恋に落ち、やがて父の怨霊の祟りで顔が醜く変わってしまいます。美しい恋模様から一転して凄惨な殺しへと変わる展開が見どころとなっています。

また、寛政2年(1790年)初演の『薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)』も累物の代表作で、伊達騒動を題材とした作品の中に累の要素が組み込まれています。

三遊亭円朝『真景累ヶ淵』

明治期の落語家・初代三遊亭円朝は、累の伝説をもとに『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』という大作を創作しました。安政6年(1859年)頃に原型が作られ、後に改訂されてこの題名になりました。

「真景」という言葉は、当時流行していた「幽霊は神経のせい」という考えをもじったものです。円朝の隣家に住んでいた漢学者・信夫恕軒の発案とされています。

物語は全97章から成る長大な作品で、旗本・深見新左衛門が金貸しの鍼医・皆川宗悦を殺したことを発端に、両者の子孫が次々と不幸に陥っていく前半部分と、名主の妻への横恋慕を発端とする殺生沙汰と敵討ちの後半部分で構成されています。

全編を通して演じると毎日1時間かけて15日間かかるといわれ、近年では桂歌丸が「お熊の懺悔」まで語り切った数少ない噺家として知られています。

映画化の歴史

累の物語は映画でも繰り返し取り上げられてきました。

確認できる主な映画化作品としては、1924年の長尾史録監督『累ヶ淵』(サイレント映画)、1930年の二川文太郎監督『怪談累ヶ淵』、1957年の中川信夫監督『怪談累が渕』、1960年と1970年の安田公義監督『怪談累が淵』などがあります。

中川信夫監督の1957年版は特に評価が高く、因果の恐ろしさと女性の悲劇を見事に描いた作品として知られています。

累を訪ねる

法蔵寺(茨城県常総市)

累の墓がある法蔵寺は、累ヶ淵の物語の舞台となった場所です。境内には累、助、菊の墓とされる3基の墓石が並んでおり、常総市の指定文化財になっています。

また、本堂には累・助・菊と祐天上人の木像が安置されており、祐天上人が死霊供養に用いたとされる数珠も保管されています。

祐天寺(東京都目黒区)

東京の祐天寺は、祐天上人の没後に弟子の祐海が開基した寺院です。境内には「かさね塚」があり、法蔵寺にある累一族の墓の土が分祀されています。祐天上人の名号(南無阿弥陀仏を書いたもの)は厄除けの御利益があるとして、江戸時代から多くの人々の信仰を集めてきました。

現代への影響

累の物語は現代の創作にも影響を与え続けています。

漫画家・松浦だるまの『累(かさね)』(2013年〜)は、累の怪談をモチーフにした作品です。醜い顔で生まれながら卓越した演技力を持つヒロインが、口づけをした相手と顔を入れ替えることができる口紅の力を使って舞台女優として活躍していく物語で、古典の累伝説に新たな解釈を加えています。

また、「四谷怪談」のお岩、「皿屋敷」のお菊とともに、累は日本三大怪談の怨霊の一人として数えられることもあります。いずれも不当に殺された女性が怨霊となって復讐を果たす物語であり、当時の女性の弱い社会的立場を反映していると考えられています。

まとめ

累の怪談は、単なる恐怖譚を超えた深い人間ドラマです。

  • 『死霊解脱物語聞書』(元禄3年/1690年刊行)によって世に広まった
  • 茨城県常総市羽生町を舞台とした、実話に基づくとされる物語
  • 約60年にわたる因果応報と怨念の連鎖が描かれている
  • 祐天上人の念仏の力によって怨霊は成仏した
  • 歌舞伎、落語、映画など多くの芸能作品の題材となった
  • 法蔵寺には今も累の墓が残されている

殺されても殺されても重ねて生まれてくる子どもの執念、それでも繰り返される悲劇、そして見て見ぬふりをした社会への告発。累の物語が数百年にわたって語り継がれてきたのは、そこに人間の業と因果の恐ろしさが凝縮されているからなのかもしれません。

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