古代中国で、ある刀鍛冶の夫婦が命をかけて作り上げた二振りの剣がありました。
その剣は、王の命令で作られたにもかかわらず、製作者である夫は殺され、やがてその息子による壮絶な復讐劇へと発展していきます。
愛と犠牲、そして復讐が交錯するこの物語は、2000年以上も語り継がれてきた中国最古の名剣伝説なんです。
この記事では、古代中国の雌雄一対の名剣「干将・莫耶」について、その製作者夫婦の物語から復讐譚まで、詳しくご紹介します。
概要

干将・莫耶(かんしょう・ばくや)には、二つの意味があります。
一つは、古代中国の春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)に作られたとされる雌雄一対の名剣の名前です。
もう一つは、その剣を作った刀鍛冶の夫婦の名前なんですね。
夫の名前が「干将」、妻の名前が「莫耶」で、二人が命をかけて作り上げた剣に、自分たちの名前をつけたというわけです。
この剣は陰陽説に基づいて、陽(雄)の剣を「干将」、陰(雌)の剣を「莫耶」と呼びます。この陰陽は善悪を表すものではなく、単に対をなす性質を示しているだけです。
中国の古典文学『呉越春秋』や『捜神記』などに記録が残っており、後世の多くの物語や作品に影響を与えてきました。
偉業・功績
干将と莫耶の最大の功績は、当時の王から命じられた究極の名剣を完成させたことです。
剣作りへの献身
二人は、ただ優れた剣を作っただけではありません。製作過程で、妻の莫耶は自らの髪と爪を炉に投じたとされています(伝承によっては身を投じたとも)。
これは当時、金属が溶けない時に行われた儀式的な行為で、人間の気(生命力)を加えることで金属を溶かすという考え方に基づいていました。
後世への影響
この名剣は、中国の剣に関する伝説の中でも特に有名で、以下のような影響を与えています。
- 文学作品への登場:『史記』『荀子』『墨子』などの古典に名前が記録される
- 比喩としての使用:後世、優れた剣や鋭い決断力の例えとして使われるようになった
- 文化的象徴:夫婦の絆や職人の献身を象徴する物語として語り継がれた
戦国時代の兵法書『尉繚子』には「その決断は干将の剣のように鋭い」という表現があり、すでに当時から比喩として使われていたことが分かります。
系譜
干将には、有名な師匠がいました。
それが、同じく伝説的な刀工である欧冶子(おうやし)です。
欧冶子との関係
欧冶子は、越王允常のために五振りの宝剣を作った名工として知られています。
欧冶子が作った五剣
- 湛盧(たんろ)
- 巨闕(きょけつ)
- 勝邪(しょうじゃ)
- 魚腸(ぎょちょう)
- 純鈞(じゅんきん)
さらに、楚昭王のためには三振りの名剣(龍淵、泰阿、工布)も鍛えています。
干将は、この偉大な刀工・欧冶子と同門だったと『呉越春秋』に記されているんです。つまり、同じ師匠のもとで学んだ兄弟弟子だったということですね。
一部の伝承では、莫耶は欧冶子の娘だったとも言われています。そうなると、干将は師匠の娘と結婚したことになりますね。
姿・見た目
干将と莫耶の二振りの剣には、それぞれ特徴的な模様がありました。
剣の外観
干将剣(雄剣・陽剣)
- 色:黒色(製作時の涙の塩分が混ざったため、という伝承も)
- 模様:亀裂模様(龜文)が浮かんでいた
- 光沢:青い光沢
莫耶剣(雌剣・陰剣)
- 色:白色(結晶のような色)
- 模様:水波模様(漫理)が浮かんでいた
- 光沢:緑色の光沢
この模様は、おそらく鋳造(ちゅうぞう:金属を溶かして型に流し込んで作る方法)の過程で自然に生まれたものだと考えられています。
素材について
この剣が何でできていたのかは、実は議論があります。
『呉越春秋』では鉄剣として記述されていますが、この書物は東漢時代(西暦25年~220年)に書かれたもので、実際の春秋時代とは数百年の隔たりがあるんです。
考古学的には、同時代の「越王勾践剣」(1965年出土)が青銅製だったことから、干将・莫耶も青銅剣だった可能性が高いとされています。
特徴
干将・莫耶の剣には、いくつかの重要な特徴があります。
陰陽一対の性質
最大の特徴は、雌雄(陰陽)が対をなす剣だということです。
古代中国の陰陽説では、すべてのものに陰と陽の性質があり、それらが調和することで完全になると考えられていました。干将・莫耶は、まさにこの思想を体現した剣なんですね。
二振りが揃って初めて真の力を発揮するとされ、片方だけでは不完全だと考えられていました。
製作過程の特殊性
この剣の製作には、通常とは異なる方法が取られました。
製作の工程
- 五山の鉄精、六合の金英など最高の材料を集めた
- 天候や方角など、最高の条件を整えた
- 炉の温度が上がらず、鉄が溶けなかった
- 妻の莫耶が髪と爪を炉に投じた
- 300人の童子がふいごを吹いて送風した
- ようやく金属が溶け、剣が完成した
製作には3年もの歳月がかかったとされています(『捜神記』による)。当初、王は3ヶ月での完成を命じていたので、いかに時間がかかったかが分かりますね。
音を発する剣
『太平記』や『今昔物語集』の記述では、莫耶剣が「悲泣の声」や音を発していたとされています。
これは雌剣が雄剣を求めて鳴いていたと解釈され、二振りが離れていることを示す不吉な兆候と考えられていました。
伝承
干将・莫耶には、主に二つの大きな物語があります。一つは剣の誕生の物語、もう一つは復讐の物語です。
剣の誕生の物語
呉越春秋版
呉王闔閭(こうりょ)は、越から送られた三振りの宝剣を見て、自分も名剣が欲しくなりました。
そこで干将に二振りの剣を作るよう命じます。干将は最高の材料を集め、最適な条件を整えて炉を開きましたが、急に温度が下がって鉄が流れ出ません。
三ヶ月経ってもまったく進まない状況で、妻の莫耶が決断します。
かつて師匠たちが同じ状況に陥った時、炉に身を投じて鉄を溶かしたという故事があったからです。莫耶は自分の髪と爪を炉に入れ、さらに300人の童子にふいごを吹かせました。
すると、ようやく金属が溶けて、見事な二振りの剣が完成したのです。
しかし、干将は雄剣の「干将」を隠し、雌剣の「莫耶」だけを王に献上しました。
後日、魯の使者が莫耶を見た時、刃こぼれを発見します。使者は「欠点があれば滅亡する」と予言し、剣を受け取りませんでした。
復讐の物語
捜神記版
『捜神記』では、依頼主が楚王となり、さらに悲劇的な展開が続きます。
物語の流れ
- 父の処刑
- 完成に3年かかり、しかも雌剣しか献上しなかったため、楚王は激怒
- 干将を処刑してしまう
- 干将は処刑される前、妻に言葉を残す:「戸を出て南の山を見よ。松の生える石の上、その背に剣あり」
- 息子の成長
- 莫耶は男の子を産み、赤(せき)または眉間尺(みけんじゃく)と名付ける
- 成長した赤は、父の行方を母に尋ねる
- 母は真実を告げ、干将の言葉を伝える
- 赤は隠されていた雄剣「干将」を見つけ出す
- 復讐の決意
- 赤は日夜、父の仇を討つことを考える
- 楚王も夢で「ある若者が自分を殺そうとしている」と知り、懸賞金をかける
- 追われる身となった赤は山に逃げ込み、泣く
- 旅人との出会い
- 泣いている赤に、ある旅人が声をかける
- 赤が事情を話すと、旅人は言う:「貴方の首と剣があれば、私が仇を討とう」
- 赤は旅人を信じ、自ら首をはねる
- 死体は、旅人が「約束を守る」と言うまで倒れなかった
- 三つの首
- 旅人は赤の首と剣を持って楚王に会う
- 王は大喜びするが、赤の首が睨みつけてくる
- 旅人「勇士の首ですから、煮なければなりません」
- 三日三晩煮ても、赤の首は溶けず、にらみ続ける
- 旅人「王が覗けば必ず溶けます」
- 王が鍋を覗いた瞬間、旅人は干将の剣で王の首をはねる
- さらに旅人も自分の首をはね、三つの首が鍋に落ちる
- 三王墓
- 三つの首は煮えて混ざり合い、区別がつかなくなる
- 三人とも勇者として、一緒に埋葬される
- この墓は「三王墓」と呼ばれ、汝南県宜春城(現在の河南省)に今も残るとされる
龍への変化
さらに後世、西晋時代(265年~316年)の話が『晋書』に記録されています。
張華という人物が、ある夜空に剣の気配を感じ、雷煥という占い師に相談しました。雷煥は「その剣気は豊城の地下から来ている」と告げます。
二人が掘ってみると、石の中から二振りの剣が見つかりました。それぞれに「龍淵」「太阿」と刻まれていましたが、よく見ると「干将」だと分かったそうです。
張華が一振りを受け取り、もう一振りを雷煥が保管していました。しかし張華の死後、息子が父の剣を運ぶ途中、延平津(現在の福建省南平市)という場所で剣が突然鞘から飛び出し、雌雄の龍となって川に消えたというのです。
600年以上も地中で眠っていた二振りの剣は、最後には龍となって再会を果たしたんですね。
出典・起源
干将・莫耶の物語は、複数の古典文献に記録されています。
主要な文献
『呉越春秋』(ごえつしゅんじゅう)
- 著者:趙曄(ちょうよう)
- 時代:後漢時代(1世紀頃)
- 内容:剣の製作過程を詳しく記述
- 特徴:復讐譚は含まれていない
- 依頼主:呉王闔閭
『捜神記』(そうじんき)
- 著者:干宝(かんぽう)
- 時代:東晋時代(4世紀頃)
- 内容:主に復讐譚を記述
- 特徴:息子「赤」の復讐物語が中心
- 依頼主:楚王
その他の記録
剣の名前だけでも、以下の古典に登場しています。
- 『荀子』性悪篇:「闔閭の干将・莫耶・鉅闕・辟閭、これらはすべて古の名剣である」
- 『墨子』:「良剣は切れ味を期待するのであって、莫耶であることを期待するのではない」
- 『呂氏春秋』察今篇:「良剣は断つことを期待し、鏌鋣(莫耶の別表記)であることを期待しない」
- 『尉繚子』:「その決断は干将の剣のように鋭い」
これらの記述から、戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)にはすでに名剣として広く知られていたことが分かります。
日本への伝来
この物語は、日本にも伝わり、以下の作品に収録されています。
『今昔物語集』
- 巻第九第四十四話
- 題名:「震旦の莫耶、剣を造り王に献じ子の眉間尺を殺される話」
- 特徴:莫耶が男性として描かれている
『太平記』
- 巻第十三
- 題名:「兵部卿宮薨御事付干将莫耶事」
- 特徴:中国の原典に近い内容に戻っている
日本の文献では、復讐物語の主人公である息子の名前が「眉間尺(みけんじゃく)」として定着しています。これは「顔が三尺(約90cm)で、眉間が一尺(約30cm)あった」という特徴から付けられた名前だそうです。
歴史的背景
春秋時代の呉・越地域(現在の江蘇省・浙江省あたり)は、当時の中国でも特に優れた金属加工技術を持っていました。
1965年に出土した「越王勾践剣」は、2000年以上経っても錆びず、今でも紙を切れるほどの切れ味を保っています。これは当時の技術レベルの高さを証明する考古学的証拠なんです。
干将・莫耶の物語は、こうした高度な技術を持つ地域で生まれた、刀工たちへの敬意と畏怖を込めた伝説だと考えられています。
まとめ
干将・莫耶は、単なる名剣の物語ではなく、愛と犠牲、そして復讐が織りなす壮大な人間ドラマです。
重要なポイント
- 古代中国春秋時代の雌雄一対の名剣、および製作者夫婦の名前
- 陽(雄)の剣が「干将」、陰(雌)の剣が「莫耶」
- 製作に3年かかり、妻の献身によって完成した
- 『呉越春秋』『捜神記』など複数の古典に記録される
- 製作者の干将は王に殺され、息子が復讐を果たす
- 三つの首が鍋で煮られる衝撃的な復讐譚
- 後世、龍に変化して再会したという伝説も残る
- 2000年以上も語り継がれる中国最古の名剣伝説
この物語は、優れた職人への敬意、夫婦の絆、そして親子の情愛という普遍的なテーマを含んでいます。だからこそ、時代を超えて多くの人々の心を捉え続けているのでしょう。
今でも中国の福建省南平市には「双剣化龍」という記念碑が立ち、この伝説を今に伝えています。


コメント