貧しい若者が、一代で将軍となり天下統一に貢献する――。
そんな夢のようなサクセスストーリーが、古代中国で実際に起こりました。
しかし、その輝かしい成功の先に待っていたのは、思いもよらない悲劇的な結末だったのです。
この記事では、中国史上最高の軍事的天才とも称される「韓信」の生涯について、詳しくご紹介します。
概要

韓信(かんしん、?~紀元前196年) は、中国の秦末から前漢初期にかけて活躍した伝説的な武将です。
劉邦(りゅうほう)のもとで数々の戦いに勝利し、漢王朝の建国に最も貢献した人物の一人なんですね。
張良(ちょうりょう)、蕭何(しょうか)とともに 「漢の三傑」 と呼ばれ、後世には 「兵仙」(へいせん:兵法の神様) や 「国士無双」(こくしむそう:比類なき人物) という最高の称号で讃えられています。
韓信の位置づけ
- 出身地:淮陰(わいいん、現在の江蘇省淮安市)
- 活躍時期:紀元前206年~紀元前196年
- 主君:劉邦(後の漢の高祖)
- 最高位:楚王→淮陰侯
- 評価:中国史上最高の軍事戦術家の一人
興味深いのは、韓信が貧困から一代で王にまで登り詰めたという点です。しかし、その成功が最終的に彼の運命を狂わせることになるんですね。
偉業・功績
韓信の功績は、一言でいえば 「劉邦の天下統一を実現させたこと」 です。
主な軍事的功績
韓信は劉邦の大将軍として、次々と敵国を平定していきました。
韓信が征服した地域
- 三秦の平定(紀元前206年):関中地域を制圧
- 魏の征服:魏王豹を捕らえる
- 代の占領:北方の代国を制圧
- 趙の征服:「背水の陣」で20万の趙軍を破る
- 燕の降伏:戦わずして燕を帰順させる
- 斉の平定:70余りの城を攻略
- 垓下の戦い:30万の軍を率いて項羽を追い詰める
伝説的な戦術
韓信が残した戦術の中で、特に有名なものをご紹介しましょう。
背水の陣(はいすいのじん)
川を背にして陣を敷くという、通常ではありえない戦法です。兵法では「やってはいけない」とされる陣形なのですが、韓信はあえてこれを使いました。
なぜかというと、退路を断つことで兵士たちに「ここで戦うしかない」という覚悟を決めさせたんですね。この作戦で、わずか数万の兵で20万と号した趙軍を打ち破りました。
明修桟道、暗渡陳倉(めいしゅうさんどう、あんとちんそう)
「表向きは桟道を修理していると見せかけて、実際には別ルートの陳倉から進軍する」という作戦です。これは「三十六計」の一つとして現代にも伝わっています。
十面埋伏(じゅうめんまいふく)
項羽を追い詰めた垓下の戦いで用いた包囲戦術です。四方八方から攻撃し、敵に逃げ道を与えない戦法なんですね。
軍事理論への貢献
韓信は張良とともに軍事書籍の整理を行い、182家あった兵法書を35家にまとめました。また、自身も『韓信』という兵法書3篇を著したとされています。
系譜
韓信の出自については、あまり詳しい記録が残っていません。
家系について
- 出身:平民(庶民)の家系
- 家庭環境:極めて貧しい
- 母の葬儀:貧しくて満足な葬儀ができなかった
『史記』によると、韓信は母親が亡くなった時、葬儀を出す費用すらありませんでした。それでも、将来多くの人々が墓守として住めるように、広く見晴らしの良い高台を選んで埋葬したそうです。
この行動からも、若き日の韓信が普通の人とは違う志を持っていたことが分かりますね。
子孫について
韓信が処刑された際、一族も連座して処刑されました(三族の刑)。
ただし、一部の伝承では、蕭何が自分の息子と韓信の息子を交換して、韓信の血筋を守ったという話も残っています。また、子孫が広東・広西地域に逃れて、姓を「韋」(い)に変えたという説もあるんです。
姿・見た目
韓信の外見については、『史記』にいくつかの記述があります。
身体的特徴
韓信の見た目
- 身長:背が高い
- 武装:いつも剣を帯びていた
- 容貌:雄々しく立派な見た目
- 印象:夏侯嬰(かこうえい)が「容貌が雄壮だ」と評した
興味深いのは、若き日の韓信が剣を帯びていながら、決して抜くことはなかったという点です。これが有名な「股くぐり」のエピソードにつながるんですね。
持ち物
韓信は常に長剣を持ち歩いていましたが、これは実際に戦うためというより、武人としての誇りを示すものだったのかもしれません。
特徴
韓信の人物像には、いくつかの際立った特徴があります。
性格的特徴
忍耐強さと野心
若き日に「股くぐり」という屈辱に耐えたことからも分かるように、韓信は目的のためには一時的な恥を我慢できる人物でした。韓信は言いました。「恥は一時、志は一生」と。
戦略的思考
韓信の最大の特徴は、その卓越した戦略眼です。劉邦との最初の会見で、項羽の弱点と劉邦が勝つための戦略を見事に説明しました。
恩義を忘れない心
貧しい時代に食事を恵んでくれた老女には、王になってから千金という大金で報いました。一方、中途半端な親切をした亭長には、わずか百銭しか渡しませんでした。
能力的特徴
軍事的天才
劉邦は韓信の能力について、こう評しました。
「連百万之軍、戦必勝、攻必取(百万の軍を率い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る)」
韓信自身は「多多益善(たたえきぜん:多ければ多いほど良い)」と答えています。兵が多ければ多いほど、その力を引き出せるという自信の表れですね。
柔軟な発想
兵法の常識にとらわれず、状況に応じて最適な戦術を編み出す能力がありました。「背水の陣」はその典型例です。
弱点
一方で、韓信には政治的な判断力が不足していたとも言われています。
- 蒯徹(かいてつ)から独立を勧められても決断できなかった
- 劉邦への恩義にこだわり、自分の身の安全を守れなかった
- 功績を誇示してしまい、劉邦の猜疑心を招いた
司馬遷は「もし韓信が謙虚で、功績を誇らず、能力をひけらかさなければ、子々孫々まで讃えられただろう」と評しています。
6. 伝承
韓信にまつわる伝承は数多く残っており、その多くが現代の成語(ことわざ)として使われています。
若き日の伝承
股くぐり(胯下之辱・こかのじょく)
最も有名なエピソードです。
若き日の韓信は、ある日、町の若者に侮辱されました。
「お前は背が高くて、いつも剣を帯びているが、本当は臆病者だろう。その剣で俺を刺してみろ。できないなら、俺の股をくぐれ」
韓信は黙って若者の股をくぐり、周囲の人々は彼を笑いました。
しかし韓信は冷静に判断していたんです。「ここでこいつを殺しても何の得もない。それどころか仇持ちになってしまう」と。
王になった後、韓信はこの若者を探し出し、中尉(治安維持の役)という地位を与えました。そして周囲に言いました。「この男は壮士だ。あの時、私は彼を殺すこともできたが、そうしても名は挙がらない。だから恥を忍んで今日まで来たのだ」
漂母の一飯(いっぱんせんきん)
もう一つの有名な話が、漂母(ひょうぼ:布さらしの老婆)のエピソードです。
飢えていた韓信に、ある老女が数十日間、食事を恵んでくれました。韓信は「必ず厚く御礼をします」と言いましたが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけ。お礼なんて望んでいないよ」と答えたんです。
後に楚王となった韓信は、この老女を探し出し、千金という大金を贈りました。これが「一飯千金」という成語の由来です。
蕭何に追われる(蕭何月下追韓信)
韓信が劉邦のもとを去ろうとした時、蕭何が月明かりの下、夜通し追いかけて連れ戻したという伝説です。
劉邦は「なぜ他の将軍が逃げた時は追わなかったのに、韓信だけ追ったのか」と問いました。
蕭何は答えました。「韓信は 国士無双(他に比類ない人物)です。大王が漢中に留まるつもりなら韓信は必要ありません。しかし天下を争うなら、韓信は不可欠です」
この進言により、韓信は大将軍に任命されたんですね。
垓下の戦い(四面楚歌)
項羽を追い詰めた最後の戦いでは、有名な「四面楚歌」の計略が使われました。
韓信は項羽軍を包囲し、夜中に楚の故郷の歌を四方から歌わせたんです。これを聞いた楚の兵士たちは故郷を思い、戦意を失いました。
項羽は「漢軍は既に楚の地を全て占領したのか。なぜこんなに楚人が多いのだ」と嘆いたとされています。
悲劇の最期
最も悲しい伝承が、韓信の最期に関するものです。
狡兎死して走狗煮らる(こうとししてそうくにらる)
捕らえられた韓信は、この言葉を口にしました。
「狡猾な兎が死ねば、猟犬は煮て食われる。高く飛ぶ鳥がいなくなれば、良弓は仕舞われる。敵国が滅べば、謀臣は亡ぼされる。天下が定まったので、私も煮られるのか」
これは、用済みになった臣下が君主に捨てられる運命を嘆いた言葉なんですね。
成也蕭何、敗也蕭何(せいやしょうか、はいやしょうか)
「成功も蕭何、失敗も蕭何」という成語があります。
韓信を大将軍に推薦したのは蕭何でした。しかし、韓信を宮殿におびき出して呂后が捕らえる手助けをしたのも蕭何だったんです。
韓信の成功と失敗、両方に蕭何が関わっていたことから、この言葉が生まれました。
民間伝承
麻雀とサイコロの発明者
台湾では、韓信が麻雀やサイコロを発明したという伝説があります。このため、一部の廟では「賭博の神」や「財神」として祀られているんですね。
象棋(中国将棋)の創作
獄中で時間を持て余していた韓信が、兵法を教えるために象棋を作ったという伝説もあります。
風筝(凧)の発明
垓下の戦いで、韓信が牛皮で風筝を作り、竹笛をつけて夜空に飛ばしたという話があります。風が笛を鳴らし、その音に合わせて漢軍が楚の歌を歌って、楚軍の士気を挫いたとされているんです。
7. 出典・起源
韓信の伝承は、主に以下の歴史書に基づいています。
主要な出典
『史記』(しき)
- 著者:司馬遷(紀元前145年頃~紀元前86年頃)
- 関連箇所:「淮陰侯列傳第三十二」「高祖本紀」など
- 特徴:最も詳細で信頼できる韓信の伝記
司馬遷は韓信について、こう評価しています。
「もし韓信が謙虚で、功績を誇らず、能力をひけらかさなければ、漢王朝への勲功は周公・召公・太公望に匹敵し、子々孫々まで讃えられただろう。しかし天下が定まってから反逆を企んだのだから、一族が滅ぼされたのも当然だ」
『漢書』(かんじょ)
- 著者:班固(32年~92年)
- 関連箇所:「韓彭英盧吳傳第四」
- 特徴:『史記』を補完する形で韓信を記述
『資治通鑑』(しじつがん)
- 著者:司馬光(1019年~1086年)
- 特徴:歴代の歴史を編年体でまとめた歴史書
司馬光は、韓信の謀反について疑問を呈し、「劉邦の扱いが不公平だったことが原因」という見解を示しています。
成語の宝庫
韓信の生涯からは、実に多くの成語が生まれています。
韓信に由来する主な成語
- 国士無双:他に比類ない人物
- 背水の陣:退路を断って決死の覚悟で戦うこと
- 一饭千金:受けた恩に厚く報いること
- 胯下之辱:大きな屈辱に耐えること
- 多多益善:多ければ多いほど良い
- 十面埋伏:四方八方から包囲すること
- 四面楚歌:周囲が敵ばかりで孤立した状態
- 狡兎死して走狗煮らる:用済みになると捨てられること
- 成也蕭何、敗也蕭何:成功と失敗の原因が同じであること
歴史的評価の変遷
古代の評価
劉邦自身は韓信を「連百万之軍、戦必胜、攻必取、吾不如韓信(百万の軍を率い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る。この点で私は韓信に及ばない)」と高く評価しています。
中世以降の評価
唐代の李淵は「韓信は蕭銑、輔公祏にとっての致命傷だった。古の名将、韓信、白起、衛青、霍去病も及ばない」と賞賛しました。
宋代の司馬光、王安石なども韓信の軍事的才能を高く評価する一方、政治的判断力の欠如を指摘しています。
現代の評価
現代でも、韓信は中国史上最高の軍事戦術家の一人として評価されています。「言兵莫過孫武、用兵莫過韓信(兵を語るなら孫武を超える者はいない。兵を用いるなら韓信を超える者はいない)」という言葉があるほどです。
8. まとめ
韓信は、貧困から身を起こし、天下統一に最も貢献しながら、最後は悲劇的な最期を迎えた稀代の軍事的天才でした。
重要なポイント
- 劉邦の配下として数々の戦いで勝利し、漢王朝建国に最も貢献した
- 張良・蕭何とともに「漢の三傑」と称された
- 「背水の陣」など革新的な戦術を編み出した
- 「国士無双」と評される類まれな軍事的才能の持ち主
- 「股くぐり」のエピソードに見られる忍耐強さ
- 恩義を決して忘れない義理堅い性格
- 功高震主(功績が高すぎて主君を脅かす)により劉邦に疎まれた
- 呂后と蕭何の計略により長楽宮で処刑された
- 多くの成語や諺の由来となり、後世に大きな影響を与えた
韓信の生涯は、才能と野心、忠義と猜疑、成功と転落という相反する要素が複雑に絡み合った、人間ドラマの傑作とも言えるでしょう。
「恥は一時、志は一生」という韓信の言葉は、今なお多くの人々に勇気と教訓を与え続けています。


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