日本史の授業で「鎌倉幕府」と「室町幕府」を習ったとき、「なんだか似てる?」と思った経験はありませんか?
どちらも武士が政治を動かした時代で、同じような役職名も登場します。でも実は、この2つの幕府には大きな違いがあるんです。
鎌倉幕府は武士が初めて本格的に作り上げた政権でした。一方、室町幕府はその経験を引き継ぎつつも、朝廷との関係や支配のしくみを大きく変えています。
この記事では、鎌倉幕府と室町幕府の違いを、政治体制・朝廷との関係・経済基盤・文化など、さまざまな角度からわかりやすく解説します。
そもそも鎌倉幕府と室町幕府って何?

まずは2つの幕府の基本情報を確認しておきましょう。
鎌倉幕府とは
鎌倉幕府は、源頼朝が開いた日本初の本格的な武家政権です。
源平合戦で平氏を滅ぼした頼朝は、朝廷から離れた鎌倉の地に政治の拠点を構えました。成立年については、守護・地頭が設置された1185年とする説と、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とする説があります。現在の教科書では1185年説が主流となっています。
約150年続いたこの政権は、1333年に新田義貞らの攻撃によって滅亡しました。
室町幕府とは
室町幕府は、足利尊氏が京都に開いた武家政権です。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」が行われましたが、これに不満を持った武士たちを率いて尊氏が挙兵。
1336年に新たな政権を樹立し、1338年に征夷大将軍に任命されました。
「室町」の名前は、3代将軍・足利義満が京都の室町に豪華な邸宅「花の御所」を建てたことに由来しています。
約240年続いたこの政権は、1573年に織田信長によって15代将軍・足利義昭が京都を追放されたことで終わりを迎えました。
政治体制の違い
鎌倉幕府と室町幕府では、政治を動かすしくみに大きな違いがありました。
将軍の権力
鎌倉幕府では、初代将軍・源頼朝こそ強い権力を持っていましたが、頼朝の死後は状況が一変します。
3代将軍・源実朝が暗殺された後、源氏の血筋は途絶えてしまいました。
その後は京都から皇族や摂関家の子弟を「お飾り」の将軍として迎え、実際の政治は北条氏が行っていたのです。
室町幕府では、将軍は代々足利家が継承しました。
3代将軍・足利義満の時代には将軍権力が最も強くなり、太政大臣にまで昇りつめています。
しかし、足利家は清和源氏の名門とはいえ「誰もが認める嫡流」ではなかったため、有力な守護大名たちとの協力なしには政権を維持できませんでした。
つまり、鎌倉幕府では将軍は形だけの存在で北条氏が実権を握り、室町幕府では将軍が実権を持ちつつも有力大名との「連合政権」のような形だったわけです。
将軍を補佐する役職
将軍の補佐役にも違いがあります。
| 項目 | 鎌倉幕府 | 室町幕府 |
|---|---|---|
| 将軍補佐役 | 執権(しっけん) | 管領(かんれい) |
| 就任者 | 北条氏が独占 | 細川・斯波・畠山の三管領家が交代で担当 |
| 権力の強さ | 将軍を凌ぐ実権を持った | 将軍を補佐する立場にとどまった |
鎌倉幕府の執権は、北条氏が世襲することで将軍以上の権力を持ちました。これを「執権政治」と呼びます。
一方、室町幕府の管領は、3つの有力守護大名家が持ち回りで務める制度でした。そのため、特定の一族が権力を独占することは難しかったのです。
朝廷との関係
鎌倉幕府と室町幕府では、天皇・朝廷との付き合い方がまったく異なりました。
鎌倉幕府──朝廷との対立
鎌倉幕府は、朝廷から距離を置く方針をとりました。
1221年の「承久の乱」では、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと挙兵しましたが、幕府軍に敗北。
これ以降、幕府は朝廷を監視するために京都に「六波羅探題」を設置し、天皇や貴族の動きを厳しく管理するようになりました。
鎌倉幕府は朝廷とは別の場所(鎌倉)に拠点を置き、朝廷の権威に頼らず独自の武家政権として存在していたといえます。
室町幕府──朝廷との共存
室町幕府は、朝廷と密接に協力する方針をとりました。
足利尊氏が幕府を開いた当時、朝廷は南朝(後醍醐天皇)と北朝に分裂していました。尊氏は北朝側の天皇から征夷大将軍に任命されたため、北朝を支えなければ自分の立場も危うくなります。そのため、幕府を京都に置いて朝廷と協力関係を築いたのです。
3代将軍・足利義満は南北朝を統一し、さらに「太政大臣」という公家の最高位にまで昇りました。義満の時代には、将軍は天皇と親しく交流する存在となっていました。
この違いは後の運命にも影響しています。室町幕府は朝廷の権威を利用して統治していたため、世の中が実力主義になるとその基盤が揺らぎ、戦国時代へと突入していきました。
支配体制の違い

武士たちをどのように統治していたかにも、大きな違いがあります。
鎌倉幕府──御恩と奉公
鎌倉幕府の支配体制の基本は「御恩と奉公」と呼ばれる主従関係でした。
御恩(ごおん)とは、将軍が御家人に与える恩恵のことです。
具体的には、先祖伝来の土地を保証する「本領安堵」や、新しい土地を与える「新恩給与」などがありました。
奉公(ほうこう)とは、御家人が将軍に対して果たす義務です。
戦時には軍役として戦場に駆けつけ、平時には京都や鎌倉の警備を担当しました。
この関係は将軍と御家人が直接結びつくもので、将軍は全国の御家人を把握していました。
室町幕府──守護大名との連合政権
室町幕府では、「御恩と奉公」のような将軍と武士の直接的な関係は薄れました。
代わりに台頭したのが「守護大名」です。
守護とは、もともと各国の軍事・警察を担当する役職でした。
鎌倉時代の守護の権限は限られていましたが、室町時代になると権限が大幅に拡大。
年貢の徴収や裁判なども行えるようになり、一国を実質的に支配する「守護大名」へと成長していきました。
その結果、室町幕府は将軍と有力守護大名の連合政権のような形になりました。
足利義満の時代こそ将軍権力が強かったものの、その後は守護大名の発言力が増し、幕府は常に不安定な状態にありました。
経済基盤の違い
幕府がどのように収入を得ていたかにも、大きな違いがあります。
鎌倉幕府の財政
鎌倉幕府は、比較的安定した財政基盤を持っていました。
主な収入源は以下の通りです。
- 関東御領:将軍家が直接支配する広大な土地からの収入
- 関東御分国:将軍家が国司を任命できる国からの収入
- 地頭からの収入:全国に配置した地頭からの上納金
特に関東御領は広大で、幕府の安定した収入源となっていました。
室町幕府の財政
室町幕府は、鎌倉幕府に比べて財政基盤が脆弱でした。
幕府が直接支配する土地(御料所)は、鎌倉幕府ほど広くありませんでした。
その理由の一つは、守護大名に権限を与える代わりに、荘園の年貢の半分を徴収する権利(半済令)を認めたことです。
これにより、幕府に入るはずの収入が守護に流れてしまいました。
そこで室町幕府が重視したのが日明貿易(勘合貿易)です。
3代将軍・足利義満は、明(中国)の皇帝に「臣源道義」と名乗り、朝貢という形で貿易を行いました。
明側からは貢物の数倍もの下賜品が与えられたため、幕府にとって大きな収入源となったのです。
このように、土地からの収入が少ない室町幕府は、貿易や酒屋・土倉(金融業者)への課税など、多様な財源に頼らざるを得ませんでした。
地方統治の違い
全国をどのように治めていたかにも、違いがあります。
鎌倉幕府の地方統治
鎌倉幕府は、守護・地頭を全国に配置して統治しました。
- 守護:各国に1人ずつ置かれ、謀反人の逮捕や殺害犯の追捕などの警察権を担当
- 地頭:荘園や公領に置かれ、年貢の徴収や土地の管理を担当
守護の権限は警察権に限定され、土地の支配は地頭が行うという役割分担でした。幕府の支配は基本的に全国に及んでいました。
また、承久の乱後は京都に六波羅探題を設置し、朝廷の監視と西国武士の統率を行いました。
室町幕府の地方統治
室町幕府では、地域ごとに異なる統治機構で分割統治していました。
- 京都周辺:幕府が直接統治
- 関東:鎌倉府を設置し、足利尊氏の子の家系が「鎌倉公方」として統治
- 東北:奥州探題・羽州探題を設置
- 九州:九州探題を設置
特に鎌倉府は、「公方」(将軍を意味する言葉)の名を持つだけあって独立性が強く、幕府に対してたびたび反乱を起こすなど、両者の関係は微妙なものでした。
また、守護の権限が大幅に強化され、徴税権や司法権まで持つようになりました。守護たちは基本的に京都に住んで将軍のもとで政務を行い、現地には「守護代」という家臣を派遣して統治させていました。
滅亡の原因

2つの幕府は、それぞれ異なる理由で滅亡しました。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府滅亡の大きな原因は、元寇(モンゴル襲来)です。
1274年と1281年の2度にわたり、モンゴル帝国が日本に攻めてきました。
御家人たちは命がけで戦いましたが、外国との戦いで新たな土地を得ることはできません。
幕府は恩賞として与える土地がなく、「御恩と奉公」のバランスが崩れてしまったのです。
不満を募らせた御家人たちは幕府を見限り、後醍醐天皇の倒幕運動に加わりました。
足利尊氏や新田義貞といった有力御家人の離反により、1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。
室町幕府の滅亡
室町幕府滅亡の原因は、将軍権力の弱さと守護大名の台頭です。
もともと室町幕府は有力大名との連合政権であり、将軍の力には限界がありました。
1441年には6代将軍・足利義教が守護大名の赤松満祐に暗殺される「嘉吉の乱」が起き、幕府の権威は大きく失墜。
さらに1467年には、守護大名同士の争いから「応仁の乱」が勃発。
11年にわたる戦乱で京都は荒廃し、幕府は全国を統制する力を完全に失いました。
これが戦国時代の始まりとなり、最終的に織田信長によって幕府は終わりを迎えました。
文化の違い
2つの時代の文化にも、それぞれ特徴があります。
鎌倉文化
鎌倉時代の文化は、武士の気風を反映した素朴で力強いものでした。
仏教では、新しい宗派が次々と生まれました。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗など、わかりやすい教えで民衆や武士に広まりました。
建築では、東大寺南大門に代表される「大仏様(だいぶつよう)」や「禅宗様」といった力強い様式が特徴的です。
文学では、『平家物語』『吾妻鏡』など、武士の活躍を描いた軍記物語が生まれました。
室町文化
室町時代の文化は、武家と公家の文化が融合した洗練されたものでした。
北山文化(義満の時代)の代表は、金閣寺(鹿苑寺金閣)です。公家風の寝殿造と武家風の書院造、禅宗様を組み合わせた独特の建築様式が特徴です。
東山文化(義政の時代)の代表は、銀閣寺(慈照寺銀閣)です。「わび・さび」を重んじる簡素で落ち着いた美意識が生まれ、現代の日本文化の原型となりました。
また、能・狂言、茶道、華道、水墨画など、現代にも続く日本の伝統文化の多くがこの時代に成立しています。
鎌倉幕府と室町幕府の違い 一覧表
これまでの内容を一覧表にまとめました。
| 項目 | 鎌倉幕府 | 室町幕府 |
|---|---|---|
| 創設者 | 源頼朝 | 足利尊氏 |
| 成立年 | 1185年(または1192年) | 1336年(将軍就任は1338年) |
| 滅亡年 | 1333年 | 1573年 |
| 存続期間 | 約150年 | 約240年 |
| 本拠地 | 鎌倉(神奈川県) | 京都 |
| 将軍補佐役 | 執権(北条氏が独占) | 管領(三管領家が交代) |
| 将軍の権力 | 弱い(北条氏が実権) | 時代により変動(義満期は強い) |
| 朝廷との関係 | 対立・監視 | 協力・共存 |
| 支配体制 | 御恩と奉公(直接的主従関係) | 守護大名との連合政権 |
| 地方機関 | 六波羅探題(京都) | 鎌倉府・九州探題など |
| 経済基盤 | 関東御領など(比較的安定) | 御料所・日明貿易など(脆弱) |
| 滅亡原因 | 元寇後の恩賞不足 | 守護大名の台頭・応仁の乱 |
| 代表的な文化 | 素朴で力強い武家文化 | 武家と公家の融合文化 |
鎌倉幕府と室町幕府の共通点
違いばかりに注目してきましたが、共通点もあります。
武士が中心の政権だった
どちらも、朝廷ではなく武士が実権を握った政権でした。約700年続く「武家政治」の中で、この2つの幕府はその土台を築いたといえます。
封建制度を採用していた
将軍を頂点として、その下に家臣(鎌倉では御家人、室町では守護大名)を置き、土地を与える代わりに軍事的な奉仕を求めるしくみは共通しています。
基本的な組織構造は似ている
室町幕府は鎌倉幕府の統治機構を参考にして作られました。そのため、政所・問注所・侍所といった基本的な役所の名前は同じです。また、守護・地頭の制度も室町幕府に引き継がれています。
法律を整備した
鎌倉幕府は1232年に「御成敗式目(貞永式目)」を制定しました。これは武士のための初めての法律で、室町時代にも引き続き使われました。室町幕府もこれを基本としつつ、新たな法令(建武式目など)を加えて統治を行いました。
まとめ
鎌倉幕府と室町幕府の違いを振り返ってみましょう。
鎌倉幕府の特徴
- 源頼朝が鎌倉に開いた日本初の本格的武家政権
- 朝廷とは距離を置き、対立・監視の関係
- 「御恩と奉公」による将軍と御家人の直接的な主従関係
- 北条氏が執権として実権を握った
- 元寇後の恩賞不足で御家人の不満が高まり滅亡
室町幕府の特徴
- 足利尊氏が京都に開いた武家政権
- 朝廷と協力・共存し、権威を利用
- 守護大名との連合政権という性格
- 将軍権力は時代によって変動(義満期が最盛期)
- 守護大名の台頭と応仁の乱で弱体化し滅亡
一見似ているように見える2つの幕府ですが、その中身は大きく異なっていました。
鎌倉幕府が作り上げた武家政治のしくみは、室町幕府に引き継がれ、さらに江戸幕府へと発展していきます。
約700年続いた武家政治の歴史を理解する上で、この2つの幕府の違いと共通点を知ることは、とても重要なポイントです。


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