ジャンヌ・ダルク──神の声を聞いた少女は、なぜフランスを救えたのか

神話・歴史・伝承

「神の声が聞こえる」──そう主張する17歳の農村の少女に、あなたなら軍隊を任せられますか?

15世紀のフランスで、まさにそれが起きました。読み書きもできない田舎の娘が、敗北寸前の祖国を救い、王を戴冠させ、そしてわずか19歳で火刑台に消えていったのです。

ジャンヌ・ダルクは、フランスの国民的英雄であり、カトリック教会の聖人です。「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン)」とも呼ばれ、百年戦争の流れを一変させた奇跡の少女として、今なお世界中で語り継がれています。

この記事では、神の啓示を受けて戦場に立った少女ジャンヌ・ダルクの生涯を、その誕生から悲劇的な最期、そして死後の名誉回復まで詳しくご紹介します。


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ジャンヌ・ダルクとは?

基本情報

ジャンヌ・ダルク(フランス語:Jeanne d’Arc)は、15世紀のフランス王国で活躍した軍人です。

項目内容
生没年1412年頃〜1431年5月30日
出身地フランス東部ドンレミ村
別名オルレアンの乙女、ラ・ピュセル
身分農民の娘
死因異端の罪で火刑
列聖1920年5月16日

百年戦争でイングランドに敗北寸前だったフランスを救い、王太子シャルル(後のシャルル7世)を正式なフランス国王として戴冠させた功績で知られています。

時代背景──百年戦争とは

ジャンヌが生まれた1412年頃、フランスは約75年も続く戦争の真っただ中にありました。

百年戦争(1337年〜1453年)は、フランス王位の継承権をめぐってイングランドとフランスが争った、ヨーロッパ史上最も長い戦争の一つです。

当時のフランスの状況は絶望的でした。

  • 1415年:イングランド王ヘンリー5世がアジャンクールの戦いで圧勝
  • 1420年:トロワ条約により、フランス王位継承権がイングランド王家へ
  • 1422年:フランス国王シャルル6世が死去、正統な後継者シャルルは戴冠できず
  • 1428年:ロワール川の要衝オルレアンがイングランド軍に包囲される

さらに国内は、親イングランドの「ブルゴーニュ派」と、王太子を支持する「アルマニャック派」に分裂していました。フランスは内外から崩壊寸前だったのです。


出生と家族──ドンレミ村の信心深い少女

生まれ育った環境

ジャンヌは1412年頃、フランス東部のドンレミ村で生まれました。

現在のロレーヌ地方に位置するこの小さな村は、神聖ローマ帝国との国境に近い場所でした。

現在は彼女の別名にちなんで「ドンレミ=ラ=ピュセル」と改名されています。

家族構成

ジャンヌの家族は以下の通りです。

  • :ジャック・ダルク(1380年〜1440年)
  • :イザベル・ロメ(1377年〜1458年)
  • 兄弟姉妹:ジャックマン、ジャン、ピエール、カトリーヌ(ジャンヌは4番目の子)

両親は比較的裕福な農家を営んでおり、父ジャックは村の徴税官も務めていました。母イザベルは特に信仰心が篤く、幼いジャンヌによく祈祷文を教えていたといいます。

少女時代のジャンヌ

当時の農村の娘として、ジャンヌは読み書きを学ぶ機会がありませんでした。彼女が身につけたのは、糸紡ぎや裁縫といった家事の技術です。

しかし、ジャンヌは並外れて信仰心の強い少女でした。
幼なじみたちによると、彼女は「信心深すぎる」と言われるほど、毎日決まった時間に祈りを捧げ、頻繁に村の教会を訪れていたそうです。

この深い信仰心が、やがて彼女の運命を大きく変えることになります。


神の声──天からの啓示

13歳で聞いた最初の「声」

1425年頃、13歳のジャンヌに転機が訪れました。

ある夏の昼下がり、父親の庭にいたジャンヌは、初めて「声」を聞きます。後の裁判でジャンヌ自身がこう証言しています。

「13歳の時、神の声が私の道を告げました。最初は非常に恐ろしかったのです。夏の真昼で、お父さんの庭でのことでした。声は右手の、教会の方から聞こえてきて、いつも光が伴っていました。非常に強い光です」

この声は、大天使ミカエル(聖ミシェル)のものだとジャンヌは確信しました。

やがて聖カトリーヌと聖マルグリットも加わり、繰り返し彼女のもとに現れるようになったのです。

神からの使命

声は次第に具体的な使命を告げるようになりました。

  • 「フランスへ行け」
  • 「オルレアンを救え」
  • 「王太子シャルルをランスで戴冠させよ」

当時のフランスには「ロレーヌの乙女がフランスを救う」という古い言い伝えがありました。ジャンヌは自分こそがその乙女だと確信し、4年間、声に従う準備を整えていきます。

「神の声」をどう解釈するか

ジャンヌが聞いた「声」については、さまざまな解釈があります。

宗教的解釈として、カトリック教徒の中には、これを神からの真の啓示だったと考える人々がいます。
1920年にジャンヌが聖人に列せられた際、この「声」は彼女が神に選ばれた証拠とされました。

一方、医学的解釈として、一部の研究者は側頭葉てんかんの症状ではないかと指摘しています。
てんかんの発作では幻聴や幻視、強い高揚感を伴うことがあり、ジャンヌの体験と一致する部分があるというのです。

イェール大学の心理学者ラルフ・ホフマンは、こうした神秘体験が必ずしも精神疾患を意味するものではないと指摘しています。
信仰心の篤い人が聞く「声」は、狂気ではなく「インスパイアド・ヴォイス(霊感による声)」として理解できるというのが、彼の見解です。

いずれにせよ、この「声」がジャンヌを突き動かし、歴史を変える原動力となったことは間違いありません。


使命への旅立ち──ヴォークルールからシノンへ

最初の挑戦と拒絶

1428年5月、17歳になったジャンヌは、ついに行動を起こしました。

彼女が向かったのは、近くの要塞都市ヴォークルールです。そこで守備隊長のロベール・ド・ボードリクールに面会を求め、王太子シャルルのもとへ送り届けてほしいと願い出ました。

当然ながら、ボードリクールは最初、農村の少女の話を一笑に付しました。「頬を張って父親のもとへ送り返せ」と言ったとも伝えられています。

二度目の訪問と成功

しかし、ジャンヌは諦めませんでした。

1429年1月、彼女は再びヴォークルールを訪れます。今度は彼女の敬虔さと確信に満ちた態度が、次第に人々の心を動かしていきました。

特に印象的だったのは、ジャンヌが「鰊の戦い」と呼ばれる戦闘でフランス軍が敗北することを予言し、それが的中したことです。この出来事で彼女の評判は急速に高まり、ボードリクールもついに折れました。

11日間の危険な旅

1429年2月、ジャンヌはシノンへの旅に出発しました。

この旅には大きなリスクがありました。目的地までの約450kmの道のりの大半は、敵であるブルゴーニュ派やイングランド軍の支配地域を通過しなければならなかったからです。

ジャンヌは護衛の兵士6人とともに、以下のような準備を整えて出発しました。

  • 男装:安全のため髪を短く切り、男性の服を着用
  • 夜間移動:敵の目を避けるため主に夜に移動
  • 11日間の行程:敵地を抜けて無事シノンに到着

この危険な旅を無事に成し遂げたこと自体が、ジャンヌの言葉に説得力を与えることになりました。


シャルル王太子との出会い

謁見の試練

1429年2月末、ジャンヌはシノン城に到着し、王太子シャルルとの謁見を許されました。

しかし、シャルルは彼女を試そうとしました。自分は質素な服を着て廷臣たちの中に紛れ込み、別の貴族を玉座に座らせたのです。

ところがジャンヌは、群衆の中から一目で本物のシャルルを見分け、まっすぐに彼のもとへ歩み寄りました。
この出来事は多くの人々を驚かせ、ジャンヌの神秘的な力を印象づけることになったのです。

二人きりの会話

その後、シャルルとジャンヌは二人きりで会話を交わしました。

その内容は今も謎に包まれていますが、ジャンヌが「神の使者しか知り得ない情報」をシャルルに伝えたとされています。

一説には、シャルルが密かに抱いていた「自分は本当に王の子なのか」という疑念を、ジャンヌが見抜いて払拭したのだとも言われています。

いずれにせよ、この会話の後、シャルルはジャンヌを信じる決意を固めました。

処女性の審査と神学者による検証

とはいえ、シャルルは慎重でした。彼はジャンヌを軍に加える前に、二つの審査を行いました。

  1. 処女性の検査:ベッドフォード公爵夫人の監督のもと、ジャンヌが処女であることが確認されました。当時、処女であることは神聖さの証とされていたのです。
  2. 神学者による審問:ポワティエで神学者たちがジャンヌを審問し、彼女の主張に異端的な要素がないかを調べました。結果、ジャンヌは「善良で謙虚、敬虔な娘」と認められたのです。

こうしてジャンヌは、フランス軍に加わる許可を得ました。


オルレアン解放──奇跡の勝利

オルレアンの危機

1429年当時、オルレアンはフランスにとって最後の砦でした。

この都市はロワール川の要衝に位置し、ここが陥落すればフランス南部への道が開かれ、王太子シャルルの領地は完全に孤立してしまいます。イングランド軍は1428年10月からオルレアンを包囲しており、市民たちは飢餓と絶望に苦しんでいました。

白い甲冑の少女

シャルルはジャンヌに軍を与え、オルレアン救援に向かわせることを決定しました。

17歳のジャンヌは、特別に作られた白い甲冑を身にまとい、白い軍旗を掲げて出陣しました。彼女は自ら剣を振るうことはほとんどなく、その代わりに軍旗を持って兵士たちを鼓舞したといいます。

後にジャンヌはこう語っています。「私は誰も傷つけたくなかったのです。だから武器ではなく、旗を持って戦いました」

電撃的な勝利

ジャンヌがオルレアンに到着したのは1429年4月29日のことでした。

彼女の登場は、フランス軍の士気を劇的に高めました。「神が私たちとともにいる」という確信が兵士たちに広がり、それまでの敗北続きが嘘のように、攻勢に転じたのです。

戦闘の経過は以下の通りです。

  • 5月4日:サン・ルー砦を攻略(ジャンヌの旗のもと、兵士たちが奮起)
  • 5月6日:サン・ジャン・ル・ブラン砦を占領
  • 5月7日:最重要拠点トゥーレル砦への総攻撃

トゥーレル砦の戦いで、ジャンヌは肩を矢で貫かれる重傷を負いました。しかし彼女は戦場を離れず、傷の手当てを受けた後、再び前線に戻って兵士たちを励ましたのです。この姿に奮い立ったフランス軍は、ついに砦を陥落させました。

イングランド軍の撤退

5月8日、イングランド軍はオルレアンから撤退しました。

約7ヶ月にわたる包囲が、わずか9日間で解かれたのです。この劇的な勝利は「オルレアンの奇跡」と呼ばれ、ジャンヌは「オルレアンの乙女」として一躍フランス中に名を轟かせることになりました。


シャルル7世の戴冠──使命の達成

ランスへの道

オルレアン解放後、ジャンヌの次の目標は、シャルルをランスで戴冠させることでした。

なぜランスが重要だったのでしょうか。ランス大聖堂は、496年のクローヴィス1世以来、歴代フランス王の戴冠式が行われてきた聖地です。ここで戴冠しなければ、シャルルは正統なフランス王とは認められないのでした。

しかし、ランスはパリよりもさらに北にあり、敵の支配地域を通過しなければたどり着けません。多くの廷臣たちは危険すぎると反対しましたが、ジャンヌは強く進軍を主張しました。

ロワール作戦の勝利

1429年6月、フランス軍はロワール川流域の敵拠点を次々と攻略していきました。

  • 6月11日:ジャルジョー占領
  • 6月15日:ムン=シュル=ロワール占領
  • 6月17日:ボージャンシー占領
  • 6月18日:パテーの戦いでイングランド軍に大勝利

特にパテーの戦いは、百年戦争の転換点となった重要な戦闘でした。イングランド軍の名将タルボットが捕虜となり、「イングランド軍は無敵ではない」という事実が証明されたのです。

戴冠式

1429年7月17日、ランス大聖堂でシャルル7世の戴冠式が挙行されました。

ジャンヌは戴冠式に出席し、王のすぐ傍らに立つという栄誉を与えられました。農民の娘が王の隣に立つなど、通常では考えられないことです。それほどまでに、シャルルはジャンヌに感謝していたのでした。

オルレアン解放からわずか2ヶ月余り。ジャンヌは神から与えられた二つの使命を、見事に果たしたのです。


暗転──捕縛への道

パリ攻略の失敗

戴冠式の後、ジャンヌはパリ奪還を目指しました。

しかし、シャルル7世は慎重でした。彼は軍事行動よりも外交による和平を模索し、ブルゴーニュ派との交渉を優先したのです。ジャンヌは焦りを感じながらも、王の決定に従わざるを得ませんでした。

1429年9月8日、ついにパリ攻撃が開始されましたが、ジャンヌは太ももを矢で射抜かれる重傷を負い、攻撃は失敗に終わりました。シャルルは撤退を命じ、軍は解散されたのです。

孤立していくジャンヌ

戴冠式以後、シャルルとジャンヌの関係は微妙に変化していきました。

王はジャンヌの家族に貴族の称号を与え、彼女への感謝を示しました。しかし同時に、ジャンヌの人気と影響力を警戒する廷臣たちの声も強まっていたのです。

1430年に入ると、ジャンヌは小規模な部隊を率いて各地を転戦しましたが、以前のような大きな勝利を収めることはできませんでした。

コンピエーニュでの捕縛

1430年5月23日、運命の日が訪れました。

ブルゴーニュ軍に包囲されたコンピエーニュを救援するため、ジャンヌは少数の兵を率いて出撃しました。しかし、敵の増援によって退路を断たれ、味方の城門が閉じられてしまったのです。

ジャンヌは最後まで仲間を守ろうと戦いましたが、落馬して捕らえられました。彼女を捕縛したのは、ブルゴーニュ公フィリップ3世の配下、ジャン・ド・リュクサンブールでした。


異端裁判──政治に翻弄された少女

イングランドへの売却

捕縛されたジャンヌは、ブルゴーニュ派からイングランド側へ売り渡されました。

その金額は1万フラン。シャルル7世は身代金を払ってジャンヌを救出しようとはしませんでした。かつて自分を王にしてくれた恩人を、彼は見捨てたのです。

裁判の目的

イングランド側がジャンヌに異端裁判を行った理由は明確でした。

彼らの狙いは、ジャンヌを「悪魔に唆された魔女」として断罪することで、シャルル7世の戴冠式の正統性を否定することにあったのです。

もしジャンヌが神ではなく悪魔に導かれていたなら、彼女が戴冠させた王もまた正統ではない、というわけです。

裁判の経過

1431年1月9日、ルーアンで裁判が始まりました。

裁判長を務めたのは、親イングランド派のピエール・コーションというボーヴェ司教です。彼は野心家として知られ、この裁判を成功させることで出世を狙っていたとも言われています。

裁判は約4ヶ月にわたり、ジャンヌは70もの罪状で告発されました。主な告発内容は以下の通りです。

  • 異端:教会を介さず直接神と交信したと主張した
  • 男装:女性が男性の服を着ることは神の法に反する
  • 魔術:超自然的な力を行使した疑い
  • 自殺未遂:塔から飛び降りた行為(ジャンヌは脱出を試みたと主張)

ジャンヌの応答

読み書きもできない19歳の少女が、パリ大学の神学者たちを相手に、ジャンヌは驚くほど巧みな受け答えを見せました。

例えば「神の恩寵を受けていると思うか」という質問に対し、ジャンヌはこう答えています。「もし受けていないなら、神が授けてくださいますように。もし受けているなら、神がそのまま保ってくださいますように」

この答えは絶妙でした。「はい」と答えれば傲慢、「いいえ」と答えれば自分の使命を否定することになるからです。

神学者たちは、彼女の知恵に舌を巻いたと伝えられています。


火刑──19歳の最期

一度は撤回、そして再び

1431年5月24日、ジャンヌは公開の場で罪を認める宣誓書に署名しました。

これにより死刑は免れ、終身禁固刑に減刑されました。

しかし、ジャンヌには女性の服を着続けるという条件が課せられました。

ところが5月28日、牢獄を訪れた裁判官たちは、ジャンヌが再び男装していることを発見します。後の証言によれば、看守がジャンヌの女性の服を盗み、男性の服しか残さなかったとも言われています。

また、このとき「声」について問われたジャンヌは、「再び聖人たちの声を聞いた」と答えました。これが決定的でした。一度撤回した罪を繰り返したことで、ジャンヌは「再犯の異端者」として死刑が確定したのです。

火刑の執行

1431年5月30日、ルーアンのヴィユ・マルシェ広場で刑が執行されました。

ジャンヌは高い柱に縛り付けられ、群衆の目の前で火をかけられました。彼女は最期まで十字架を見つめ、「イエス」の名を叫びながら息を引き取ったと伝えられています。

処刑に立ち会った人々の多くは、ジャンヌの魂の救いを疑わなかったといいます。ある目撃者は「私たちは聖女を焼いてしまった」と嘆いたと記録されています。

ジャンヌ・ダルク、享年19歳。歴史の表舞台に立ってからわずか2年余りの、あまりにも短い生涯でした。


名誉回復と列聖

復権裁判

ジャンヌの死から22年後の1453年、百年戦争はフランスの勝利で終結しました。

シャルル7世はイングランド軍をほぼフランスから追い出すことに成功し、ようやくジャンヌの名誉回復に乗り出しました。

1455年〜1456年、教皇カリクストゥス3世の命により、復権裁判が行われたのです。

裁判では多くの証人が呼ばれ、1431年の裁判が不正であったことが明らかにされました。

  • 裁判手続きの違法性
  • 証拠の捏造や改ざん
  • 被告人の権利の無視

1456年7月7日、ジャンヌの有罪判決は正式に取り消され、彼女の名誉は回復されました。

聖女への道

復権後も、ジャンヌへの敬愛は途絶えることがありませんでした。

特に19世紀以降、フランスでジャンヌ・ダルクへの関心が高まりました。1803年にはナポレオン・ボナパルトが彼女を称え、国民的英雄として公式に認めています。

そして1920年5月16日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世により、ジャンヌ・ダルクはカトリック教会の聖人に列せられました。

現在、ジャンヌの祝日は命日の5月30日とされ、フランスの守護聖人の一人として崇敬されています。


現代文化への影響

ジャンヌ・ダルクを描いた作品

ジャンヌ・ダルクは、世界中で最も多く描かれた歴史上の人物の一人です。死後600年近く経った今も、彼女を題材にした作品は増え続けています。

映画

  • 『裁かるゝジャンヌ』(1928年)──カール・テオドア・ドライヤー監督の無声映画の傑作
  • 『ジャンヌ・ダーク』(1948年)──イングリッド・バーグマン主演
  • 『ジャンヌ・ダルク』(1999年)──リュック・ベッソン監督、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演

ゲーム

  • 『JEANNE D’ARC』(2006年)──レベルファイブ開発のPSP用シミュレーションRPG
  • 『Fate/Grand Order』他Fateシリーズ──ジャンヌ・ダルクがサーヴァントとして登場

日本の漫画・アニメ

  • 『神風怪盗ジャンヌ』(種村有菜)
  • 『魔法少女たると☆マギカ』
  • ドリフターズ』(DRIFTERS)

フランスにおける象徴

フランスでは、ジャンヌ・ダルクは単なる歴史上の人物を超えた存在です。

パリをはじめとする多くの教会には、必ずといっていいほどジャンヌ・ダルクの像が置かれています。彼女はフランスの国民的統合の象徴として、時代を超えて人々の心に生き続けているのです。

オルレアンでは毎年5月に「ジャンヌ・ダルク祭」が開催され、彼女の功績を称えています。この祭りは1429年の解放から続く伝統行事で、今日まで途切れることなく受け継がれてきました。


ジャンヌ・ダルクの年表

出来事
1412年頃フランス東部ドンレミ村に生まれる
1425年頃13歳で初めて「神の声」を聞く
1428年5月ヴォークルールで守備隊長に面会を求めるが拒否される
1429年1月再度ヴォークルールを訪問、シノン行きの許可を得る
1429年2月11日間の旅を経てシノン城に到着、王太子シャルルに謁見
1429年4月オルレアン救援軍に参加
1429年5月8日オルレアン解放
1429年6月18日パテーの戦いで勝利
1429年7月17日ランス大聖堂でシャルル7世の戴冠式
1429年9月8日パリ攻略に失敗、負傷
1430年5月23日コンピエーニュでブルゴーニュ軍に捕縛される
1431年1月9日ルーアンで異端裁判が開始
1431年5月30日火刑により処刑(享年19歳)
1456年7月7日復権裁判により無罪が宣言される
1920年5月16日ローマ教皇により聖人に列せられる

まとめ

ジャンヌ・ダルクは、15世紀のフランスで「神の声」に導かれて立ち上がり、祖国を救った奇跡の少女です。

ジャンヌの功績

  • 7ヶ月間包囲されていたオルレアンをわずか9日間で解放
  • 王太子シャルルを正統なフランス国王として戴冠させた
  • 百年戦争の流れを逆転させ、フランス勝利への道を開いた

ジャンヌの悲劇

  • 政治的な思惑による不当な裁判で異端とされた
  • かつて救った王シャルル7世に見捨てられた
  • わずか19歳で火刑に処された

読み書きもできない農村の少女が、敗北寸前の国を救い、王を戴冠させ、そして若くして命を落としました。その短くも激烈な生涯は、信念の力、勇気、そして人間の残酷さを私たちに教えてくれます。

ジャンヌ・ダルクの物語は、600年近く経った今も色あせることなく、世界中の人々の心を打ち続けています。彼女の人生は、時代や国境を超えて、「信じること」の力強さを証明しているのです。

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