愛する人を失ったとき、あなたならどうしますか?
日本神話の神イザナギは、最愛の妻イザナミを取り戻すため、死者の国である黄泉の国へと足を踏み入れました。しかし、そこで待っていたのは、想像を絶する恐ろしい光景だったのです。
この記事では、『古事記』『日本書紀』に記された日本神話最大の別れの物語「イザナミと黄泉の国」について、その経緯や意味を分かりやすくご紹介します。
概要

イザナミと黄泉の国の物語は、『古事記』や『日本書紀』に記された日本神話の重要なエピソードです。
イザナギとイザナミという二柱の神は、日本列島や多くの神々を生み出した創造神でした。しかし、火の神を産んだことでイザナミは命を落とし、黄泉の国(死者の世界)へ行ってしまいます。
妻を慕うイザナギは黄泉の国を訪れますが、変わり果てたイザナミの姿を見て恐怖に駆られ逃走。最終的に、現世と黄泉の国の境目である黄泉比良坂で巨大な岩を置いて道を塞ぎ、二人は永遠の別れを迎えます。
この神話は、生と死の境界、禁忌を破ることの恐ろしさ、そして避けられない別れを象徴する物語として、古代から語り継がれてきました。
イザナギとイザナミ:国を生んだ神々
物語の主人公であるイザナギ(伊邪那岐命)とイザナミ(伊邪那美命)は、日本の国土と神々を生み出した夫婦神です。
国産み・神産みの偉業
二柱の神が成し遂げたこと:
- 日本列島の創造:淡路島、隠岐島などの島々を生み出した
- 自然神の誕生:海の神、風の神、山の神、木の神、船の神など多数の神々を産んだ
- 世界の構築:海に風が起こり、山に木が育ち、川に船が行き交う世界を作り上げた
つまり、イザナギとイザナミは日本という国そのものを形作った、まさに創造神だったわけですね。
悲劇の始まり:火の神の誕生
幸せな国造りは、ある出来事によって突然終わりを迎えます。
イザナミが火の神カグツチ(軻遇突智)を産んだとき、その炎によって女陰に大やけどを負ってしまったんです。
イザナミの最期
火傷による苦しみの中でも、イザナミは神々を生み続けました:
- 尿から水や穀物の神
- 糞から土の神
- 吐瀉物から鉱山の神
しかし、ついに力尽きて亡くなってしまいます。『古事記』によれば、その亡骸は出雲と伯耆の境にある比婆山に葬られたとされています。
怒りと悲しみに狂ったイザナギは、妻の死の原因となったカグツチを剣で斬り殺しました。
黄泉の国への訪問

最愛の妻を失ったイザナギは、どうしてもイザナミに会いたいと思い、死者の世界である黄泉の国へ向かいます。
黄泉の国の入口
イザナギは黄泉比良坂(よもつひらさか)という、現世と黄泉の国を結ぶ坂を通って、死者の世界へ足を踏み入れました。
黄泉の国の戸口でイザナミと再会したイザナギは、妻に一緒に帰ろうと呼びかけます。
イザナミの返答
しかし、イザナミの答えは意外なものでした。
「私はもう黄泉戸喫(よもつへぐい)を食べてしまいました。黄泉の国の食べ物を口にした者は、もう現世には戻れないのです」
それでも、夫が遠くから来てくれたことを嬉しく思ったイザナミは、黄泉の神と相談してみると言います。
そして、こう告げました。
「それまで、決して私を見ないでください」
禁忌を破る:見てはいけないものを見た時
イザナギは約束通り待っていましたが、あまりにも長く待たされたため、不安と焦りから禁忌を破ってしまいます。
髪飾りに火を灯して
イザナギは髪に刺していた湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の歯を一本折り、火を灯して中を覗き込みました。
そこで目にしたものは…
恐怖の光景
イザナミの身体は腐敗が進み、全身にウジ虫がわき、膿にまみれた恐ろしい姿になっていたんです。
さらに、その身体からは八雷神(やくさのいかづちがみ)という八柱の雷の神が生じていました。
- 頭には大雷
- 胸には火雷
- 腹には黒雷
- 陰部には拆雷(さくいかづち)
- 左手には若雷
- 右手には土雷
- 左足には鳴雷
- 右足には伏雷
この凄まじい光景を見たイザナギは、恐怖のあまり逃げ出してしまいました。
黄泉の国からの逃走劇
約束を破られ、醜い姿を見られたイザナミは激怒します。
「私に恥をかかせた!」
イザナミは、イザナギを追わせるために恐ろしい存在たちを次々と送り込みました。
第一の追手:予母都志許売
まず追いかけてきたのは、予母都志許売(よもつしこめ)という黄泉の国の醜女たちでした。
イザナギは追跡を振り切るために、持っていたものを次々と投げました:
- 黒御蔓(くろみかずら、髪飾り)を投げる → 山葡萄が生えて、醜女たちはそれを食べている間に足止めされる
- 湯津津間櫛を投げる → 筍(たけのこ)が生えて、再び足止めされる
第二の追手:千五百の黄泉軍
予母都志許売を振り切ったイザナギでしたが、今度は千五百もの黄泉の軍勢が追いかけてきました。
イザナギが黄泉比良坂の麓まで辿り着いたとき、そこにあった桃の実を三つ投げつけると、黄泉軍は退散していきました。
桃の不思議な力
なぜ桃の実で追い払えたのでしょうか?
実は、中国の道教では桃は魔除けや不老不死の効能がある神聖な果物とされていたんです。日本に桃が伝わった8世紀初頭、この中国思想も一緒に取り入れられたと考えられています。
イザナギは桃に「葦原中国(地上の世界)にいる人々が苦しんでいるときは助けるように」と告げて、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という名を与えました。
最後の追手:イザナミ自身
ついに、イザナミ自身がイザナギを追いかけてきました。
永遠の別れ:千引の岩
黄泉比良坂で、イザナギは最後の手段に出ます。
千引の岩(ちびきのいわ)という巨大な岩を引いて、黄泉比良坂の道を塞いでしまったのです。
最後の会話
岩を挟んで、二人は最後の言葉を交わします。
イザナミ:「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら、私は1日に1000人の人間を殺すでしょう」
イザナギ:「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて、1日に1500の子どもを産ませよう」
この応酬によって、人間の世界に死が訪れた一方で、それを上回る命の誕生も約束されたわけです。
こうして、イザナギとイザナミは永遠の別れを迎えました。
この後、イザナミは黄泉の国の主宰神となり、黄泉津大神(よもつおおかみ)、道敷大神(ちしきのおおかみ)と呼ばれるようになります。
黄泉の国とは?
では、イザナギが訪れた黄泉の国とは、どんな場所なのでしょうか?
黄泉の意味
「黄泉」(よみ)という言葉は、もともと中国の古典『春秋左氏伝』や『史記』などに見られる地下世界を意味する漢語から来ています。
日本では「ヨミ」または「ヨモ」と読まれていました。『万葉集』にも「黄泉」や「下つ道」(したつみち)という表記で登場します。
黄泉の国の特徴
『古事記』の記述から分かる黄泉の国の特徴:
- 暗い場所:イザナギが火を灯さなければ何も見えなかった
- 腐敗と死の世界:死体が朽ちていく様子が描かれる
- 地下にあるとされる:「下津国」(したつくに)とも呼ばれた
- 地獄ではない:罪を償う場所ではなく、死んだ者が等しく行く場所
- 一度食事をすると戻れない:黄泉戸喫を食べると現世に帰れなくなる
地下?それとも水平方向?
実は、黄泉の国がどこにあるのかについては、研究者の間でも意見が分かれているんです。
地下世界説
- 本居宣長の『古事記伝』以来の伝統的解釈
- 「下津国」という呼び名から
- 死者を土中に埋める土葬のイメージ
水平方向説
- 松村武雄や神野志隆光などの学説
- 「四方(よも)つ国」という意味
- 坂を通って行く描写から
当時の日本では風葬(遺体を地上に安置する)も行われていたため、必ずしも地下とは限らないという指摘もあります。
黄泉比良坂:この世とあの世の境界
黄泉比良坂(よもつひらさか)は、現世と黄泉の国を結ぶ境界の坂です。
伝承地
『古事記』には「出雲国之伊賦夜坂也」と記されており、実在の場所として島根県松江市東出雲町揖屋に伝承地があります。
現地には:
- 黄泉比良坂の石碑(1940年建立)
- 「千引きの磐座」と呼ばれる大きな岩
- イザナミを祀る揖夜神社
静かな木立の中に大岩が並び、神秘的な雰囲気を醸し出しているそうです。
出雲国風土記の記述
『出雲国風土記』には、出雲郡の宇賀郷に黄泉の坂・黄泉の穴と呼ばれる洞窟の記載があります。
「夢の中でこの磯の窟のあたりに至る者は必ず死ぬ」
この洞窟は、現在の島根県出雲市猪目町にある猪目洞窟に比定されています。1948年の発掘調査では、弥生時代から古墳時代にかけての人骨や副葬品が発見されました。
伝承の意味と影響
この神話には、どんな意味が込められているのでしょうか?
生と死の境界
イザナミと黄泉の国の物語は、生と死の絶対的な境界を示しています。
どんなに愛する人でも、一度死んでしまえば取り戻すことはできない。黄泉比良坂を塞いだ千引の岩は、その境界の象徴なんです。
禁忌を破ることの恐ろしさ
「見てはいけない」という約束を破ったことで、イザナギは妻を永遠に失いました。
このタブーを破る物語は、世界中の神話に共通するテーマです。例えば、ギリシャ神話のオルペウスとエウリュディケの物語も、死んだ妻を取り戻そうとした夫が「振り返ってはいけない」という約束を破って失敗する、という非常によく似た構造を持っています。
死と再生の思想
興味深いことに、黄泉の国は単なる死の世界ではありません。
イザナミの腐敗した身体から八雷神が生まれたように、また、イザナギが黄泉の国から戻って禊をした際に天照大神(太陽の女神)が誕生したように、死から新たな神々が生まれるという再生の側面もあるんです。
これは、世界の古代神話によく見られる「死が豊かな再生を生む」という思想を反映しています。
風葬との関連
神話に描かれるイザナミの腐敗した姿は、当時行われていた風葬(遺体を地上に安置して自然に還す葬送方法)で朽ちていく死体の様子を反映していると考えられています。
古代の人々にとって、黄泉の国は抽象的な概念ではなく、実際に目にする「腐敗した死体が置かれている場所」という具体的なイメージだったのかもしれません。
まとめ
イザナミと黄泉の国の神話は、日本人の死生観を象徴する重要な物語です。
重要なポイント
- イザナギとイザナミは日本列島と神々を生み出した創造神
- イザナミは火の神を産んで死亡し、黄泉の国へ
- イザナギは妻を取り戻すため黄泉の国を訪問
- 禁忌を破ってイザナミの変わり果てた姿を見てしまう
- 予母都志許売、黄泉軍、イザナミ自身が追跡
- 黄泉比良坂で千引の岩を置いて永遠の別れ
- 「1日1000人殺す」「1日1500人産ませる」の応酬で生と死の循環が生まれる
- 黄泉の国は死者が等しく行く暗い世界
- 出雲の地に伝承地が残る
- 禁忌を破ることの恐ろしさと、死と再生の思想を象徴
愛する人との別れは避けられないものです。しかし、この神話は同時に、死を超えて新たな命が生まれ続けることも教えてくれています。イザナギとイザナミの物語は、古代から現代まで、日本人の心に深く刻まれ続けているのです。


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