【欠史八代の謎】懿徳天皇とは?系譜・伝承・名前の由来をやさしく解説

神話・歴史・伝承

日本の第4代天皇である懿徳天皇(いとくてんのう)をご存知でしょうか?

『日本書紀』や『古事記』に名前は残っているものの、具体的な事績がほとんど記録されていない不思議な天皇なんです。

このような天皇は「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれ、実在したのかどうかも議論が続いています。

この記事では、謎に包まれた懿徳天皇の系譜や伝承、そして名前に隠された意味について分かりやすくご紹介します。


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概要

懿徳天皇は、日本の第4代天皇とされる人物です。

『日本書紀』での正式な名前は大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)、『古事記』では大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと)と記されています。

「懿徳」という名前は漢風諡号(かんぷうしごう)といって、8世紀後半に淡海三船(おうみのみふね)という学者が中国風につけた名前なんですね。

懿徳天皇の基本情報をまとめると、以下のようになります。

懿徳天皇の基本データ

  • 代数:第4代天皇
  • 在位期間:懿徳天皇元年2月4日〜34年9月8日
  • 宮(皇居):軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)
  • 陵墓:畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)
  • 所在地:奈良県橿原市西池尻町

ただし、『日本書紀』『古事記』のどちらにも、この天皇が何をしたのかという事績(じせき)がまったく記されていません

記録されているのは系譜と即位・崩御の情報だけ。このため、第2代から第9代までの天皇とともに「欠史八代」の一人として数えられているんです。


系譜

懿徳天皇の家系図を見ていくと、神話時代の神々とのつながりが見えてきます。

両親

懿徳天皇の父は、第3代安寧天皇(あんねいてんのう)です。

母については『日本書紀』と『古事記』で名前が異なります。

  • 『日本書紀』:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)
  • 『古事記』:阿久斗比売(あくとひめ)

興味深いのは、母の出自なんです。『日本書紀』によれば、母は鴨王(かものきみ)の娘とされています。この鴨王は、なんと事代主神(ことしろぬしのかみ)の孫にあたる人物。

事代主神といえば、出雲神話に登場する国譲りで有名な神様ですよね。つまり懿徳天皇は、天皇家と出雲系の神々の血を引く存在だったというわけです。

兄弟

懿徳天皇には同母の兄弟がいました。

  • 兄:息石耳命(おきそみみのみこと)
  • 弟:磯城津彦命(しきつひこのみこと)

皇后と皇子

皇后は天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)です。

この方は兄・息石耳命の娘、つまり懿徳天皇から見ると姪(めい)にあたります。古代では近親婚が珍しくなかったことがうかがえますね。

ただし、皇后については文献によって異説もあります。

皇后に関する異説

  • 『日本書紀』一書:泉媛(猪手の娘)
  • 『日本書紀』一書:飯日媛(磯城県主太真稚彦の娘)
  • 『古事記』:賦登麻和訶比売命(師木県主の祖の娘)

皇子としては、後に第5代天皇となる観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)、つまり孝昭天皇が生まれています。


伝承

事績の記録がない懿徳天皇ですが、各地には興味深い伝承が残っています。

宮と陵墓

懿徳天皇が政(まつりごと)を行った宮は、『日本書紀』では軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)、『古事記』では軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)と記されています。

名前は違いますが、どちらも「曲がりくねった丘」を指しているようです。

現在の奈良県橿原市大軽町周辺がその伝承地とされ、白橿町には「軽曲峡宮跡伝承地」の碑が建てられています。

陵墓は畝傍山南繊沙渓上陵と呼ばれ、橿原市西池尻町の通称「マナゴ山」に治定されています。

各地の神社に残る伝承

懿徳天皇の時代に始まったとされる祭りや神社の創建伝承が、日本各地に残っているんです。

籠神社(このじんじゃ)の葵大祭

丹後国一宮である籠神社(京都府宮津市)では、毎年4月24日に葵大祭が行われます。この祭りは懿徳天皇4年(紀元前472年)に始まったと伝えられ、当初は「藤祭」と呼ばれていたそうです。

野坂神社の創建伝承

越前国の式内社・野坂神社には、懿徳天皇23年に伊予国から神様を勧請したという伝承が残されています。

佐久神社の伝承

甲斐国(現在の山梨県)の佐久神社には、甲斐国の大開祖とされる向山土木毘古王が懿徳天皇4年に薨去したという社伝があります。

素戔嗚尊との出会い

中世の文献『古今和歌集序聞書三流抄』には、とても興味深い逸話が記されています。

なんと、懿徳天皇が出雲に行幸して素戔嗚尊(すさのおのみこと)と出会ったというんです。

母方の祖先が事代主神につながることを考えると、出雲との縁を示す伝承として注目されますね。

名前に隠された意味

懿徳天皇の和風諡号「おおやまとひこすきとも」には、興味深い解釈があります。

研究者の中には、こう考える人もいるんです。

  • 「おおやまとひこ」は後世につけられた美称
  • 「すきとも」は「すきつみ」が変化したもの
  • 「み」は神名の末尾につく「み」と同じ意味

つまり、懿徳天皇の原像は「鋤(すき)の神」だったのではないか、という説です。

名前に「耜(すき)」や「鉏(すき)」という農具を表す文字が使われていることから、農業と深い関わりを持つ天皇だった可能性も指摘されています。


まとめ

懿徳天皇は、記録が少ないながらも神話と歴史をつなぐ重要な存在です。

押さえておきたいポイント

  • 日本の第4代天皇で「欠史八代」の一人
  • 母方を通じて出雲系の神・事代主神の血を引く
  • 『日本書紀』『古事記』には系譜のみで事績の記録がない
  • 各地の神社に創建や祭りの起源伝承が残る
  • 名前から「鋤の神」「農業の神」だったとする説がある
  • 出雲で素戔嗚尊と出会ったという中世の伝承も存在する

欠史八代の天皇たちは、実在性について今も議論が続いています。

しかし、各地に残る伝承や名前に込められた意味を探っていくと、古代日本の信仰や文化の一端が見えてくるのではないでしょうか。

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