北条時行とは?「逃げ上手の若君」のモデルとなった悲運の英雄の生涯

神話・歴史・伝承

「逃げることは、負けではない」——もしそう信じて、20年間戦い続けた武将がいたとしたら、あなたはどう思いますか?

鎌倉幕府が滅亡したとき、わずか4歳だった少年がいました。一族870人が自害する地獄絵図の中から奇跡的に脱出し、その後20年にわたって足利尊氏に抵抗し続けた人物。それが北条時行です。

彼は生涯で三度も鎌倉を奪還するという、日本史上でも類を見ない偉業を成し遂げました。しかし、勝者の歴史の中で長らく忘れ去られた存在でもあります。

この記事では、漫画『逃げ上手の若君』で一躍有名になった北条時行の波乱万丈の生涯を、史実に基づいて詳しくご紹介します。


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北条時行とは?——概要

北条時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。

「ときつら」と読む説もあり、正確な読み方は現在でも確定していません。
通称は相模次郎と呼ばれていました。

基本情報

項目内容
生年元徳元年(1329年)頃(諸説あり)
没年正平8年/文和2年(1353年)5月20日
北条高時(第14代執権、最後の得宗)
新殿(太平記では「二位殿」とも)
通称相模次郎
幼名亀寿丸、勝長寿丸など(諸説あり)

「中先代」という異名

時行には「中先代(なかせんだい)」という特別な呼び名があります。

これはどういう意味でしょうか?

当時の人々は、北条氏の治世を「先代」、足利氏の治世を「当御代(とうごだい)」と呼んでいました。
時行はその中間で一時的に鎌倉を支配したことから「中先代」と呼ばれるようになったのです。

たった20日間の支配とはいえ、武家政権の首都・鎌倉を実力で奪い取った功績が認められ、北条氏の祖や足利尊氏と同格の存在として扱われたわけですね。

これは時行の存在感の大きさを物語っています。


系譜と出生——得宗家の御曹司として

北条得宗家とは

時行が生まれた「得宗家」とは、北条氏の中でも特別な家系でした。

鎌倉幕府の初代執権・北条時政の子である二代執権・北条義時の直系子孫のみを指す呼称です。

義時から始まり、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時と続く9代の当主たちは、鎌倉幕府の実質的な支配者として君臨してきました。

時行はこの最後の得宗・北条高時の次男として生まれています。つまり、北条氏の中でも選りすぐりのエリート中のエリートだったのです。

生年をめぐる謎

時行の正確な生年は不明です。

ただし、いくつかの手がかりがあります。

元徳元年(1329年)説
金沢貞顕という人物が書いた手紙に、元徳元年12月22日付で「太守禅閤(北条高時)に今度御出生の若御前がいる」という記述があります。
これが時行を指しているなら、この年の生まれということになります。

この説に従えば、鎌倉幕府滅亡時の時行は数え年で5歳(満4歳)という幼さだったことになります。

兄・邦時の悲劇

時行には兄の北条邦時がいました。邦時は正中2年(1325年)生まれとされています。

鎌倉幕府滅亡の際、邦時も鎌倉からの脱出を試みました。
しかし、家臣の五大院宗繁に裏切られ、新田方に捕らえられて処刑されてしまいます。

この裏切りの記憶は、幼い時行の心に深く刻まれたことでしょう。


鎌倉幕府の滅亡——地獄からの脱出

東勝寺の悲劇

元弘3年/正慶2年(1333年)5月22日。

この日、新田義貞率いる討幕軍が鎌倉を攻略しました。迎え撃った第16代執権・赤橋守時は敗れて自刃。そして、父・北条高時を始め、金沢貞顕ら北条一族、長崎円喜・高資父子ら家臣たち、総勢870人が東勝寺で自害したと伝えられています。

まさに地獄絵図そのものでした。

諏訪氏による救出

この阿鼻叫喚の中、幼い時行は奇跡的に脱出に成功します。

救ったのは、北条得宗家の被官(家臣)であった諏訪盛高(諏訪頼重と同一人物とする説もある)でした。母の計らいもあったとされています。

時行は信濃国(現在の長野県)へと逃れ、諏訪大社の大祝(おおほうり)を代々務めてきた諏訪氏の庇護を受けることになりました。諏訪氏は北条氏の守護国だった信濃において、代々得宗家に仕えてきた忠臣だったのです。


中先代の乱——10歳の少年が起こした反乱

建武の新政と武士たちの不満

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は「建武の新政」を開始します。

しかし、この新政はうまくいきませんでした。

主な問題点は以下の通りです。

  • 恩賞の不公平:倒幕に命を懸けた武士よりも、天皇と親しい公家が優遇された
  • 政治の混乱:朝令暮改の政策で行政が大混乱
  • 武士軽視:公家中心の政治体制に武士たちが反発

各地で反乱が頻発し、その半数以上が北条氏の残党によるものでした。武士たちは「これなら北条のほうがマシだった」と不満を募らせていたのです。

西園寺公宗の陰謀

建武2年(1335年)6月、大きな事件が発覚します。

かつて関東申次(朝廷と幕府の連絡役)を務めた公家・西園寺公宗が、北条高時の弟・北条泰家(時行の叔父)を匿い、後醍醐天皇の暗殺を企てていたのです。

公宗は処刑されましたが、泰家は逃亡に成功。各地の北条残党に挙兵を呼びかけました。この呼びかけは、信濃に潜伏していた時行のもとにも届きます。

中先代の乱の勃発

建武2年(1335年)7月14日。

時行は諏訪頼重、滋野氏、仁科氏ら諏訪神党に擁立され、ついに挙兵しました。

このとき、時行はまだ10歳にも満たない幼年でした。

しかし、反乱軍には建武政権に不満を持つ武士たちが次々と合流。三浦時継、蘆名盛員、那波宗政ら東国武士も加わり、軍勢は5万騎にまで膨れ上がったと伝えられています。

鎌倉への進撃

時行軍はまず、信濃国守護の小笠原貞宗を撃破します。

そして上野国(群馬県)へ攻め入ると、足利尊氏の弟・足利直義が派遣した征伐軍を次々と撃破していきました。

主な戦果は以下の通りです。

  • 女影原の戦い(埼玉県日高市):建武政権軍を撃破
  • 小手指原の戦い(埼玉県所沢市):同じく勝利
  • 府中の戦い(東京都府中市):渋川義季、岩松経家、小山秀朝ら有力武将を敗死させる
  • 井手の沢の戦い(東京都町田市):直義自ら率いる軍も撃破

ついに直義は鎌倉から逃亡。7月25日、時行は鎌倉に入城し、武家の旧都の奪還に成功したのです。

挙兵からわずか1ヶ月という電撃戦でした。

護良親王の殺害

このとき、一つの悲劇が起こります。

鎌倉に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子・護良親王が、逃亡する足利直義の命令によって殺害されたのです。

直義は、時行が護良親王を旗頭として利用することを恐れたと考えられています。

足利尊氏の出陣

時行の鎌倉占領を知った足利尊氏は、後醍醐天皇に討伐の許可と「征夷大将軍」の地位を要求します。

なぜ征夷大将軍を求めたのでしょうか?

日本史研究者の呉座勇一氏によれば、「尊氏は北条時行を恐れていた」といいます。鎌倉幕府再興という大義名分を掲げる時行に対抗するため、征夷大将軍という権威が必要だったのではないかという説です。

しかし、後醍醐天皇はこの要求を拒否。尊氏は勅許を得ないまま出陣することになりました(後に追って「征東将軍」の号が与えられます)。

わずか20日で終わった鎌倉支配

8月2日、尊氏が出陣。弟の直義と合流し、時行軍を追撃します。

各地で激戦が繰り広げられました。

  • 橋本の戦い(静岡県湖西市)
  • 小夜の中山の戦い:名越高邦戦死
  • 清見関の戦い:諏訪金刺頼秀戦死
  • 箱根・相模川の戦い:今川頼国・頼周兄弟戦死

尊氏軍の猛攻に加え、台風によって鎌倉の大仏殿が倒壊し、時行軍の兵500余人が犠牲になるという災厄も重なりました。

8月19日、辻堂で敗れた諏訪頼重らは鎌倉の勝長寿院で自害。

このとき、自害した43人は顔の皮を剥いで死んだとされています。
これは時行の身代わりとなり、彼を逃がすための策だったと考えられています。

こうして、時行の鎌倉支配はわずか20日余りで終わりを迎えました。

この短さから、「廿日先代(はつかせんだい)の乱」という別名もあります。


南朝への帰順——敵の敵は味方

なぜ後醍醐天皇のもとへ?

鎌倉を追われた時行は、その後も潜伏を続けました。

そして延元2年/建武4年(1337年)、意外な選択をします。かつて父を滅ぼした仇敵とも言える後醍醐天皇の南朝に帰順したのです。

なぜでしょうか?

『太平記』によれば、時行は鎌倉幕府滅亡の原因は父・高時にも非があったと認めており、後醍醐天皇を恨んではいなかったようです。

一方で、北条氏の恩を受けて出世した足利氏が北条を裏切り、さらには味方だった後醍醐天皇まで裏切って室町幕府を開いたことには、激しい怒りを感じていました。

日本史研究者の家永遵嗣氏は別の解釈を提示しています。もともと時行は持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動していたが、上皇が足利尊氏と結んだことを「裏切り」と捉え、南朝と結ぶ道を選んだのではないかという説です。

いずれにせよ、「敵の敵は味方」という論理で、時行は足利尊氏打倒のために南朝方となったのです。

北畠顕家との共闘

南朝に帰順した時行は、奥州の名将・北畠顕家の軍に合流します。

延元3年/暦応元年(1338年)、顕家の大遠征に参加。美濃国の青野原(現在の岐阜県大垣市周辺)で足利方を破るなど、各地で戦功を挙げました。

この遠征の際、時行は伊豆で5千の騎兵を率いて挙兵し、箱根・足柄を越えて進軍したと伝えられています。

二度目の鎌倉奪還

顕家軍と新田義興(新田義貞の子)らと連携した時行は、鎌倉を守っていた足利義詮(尊氏の子)を追い落とし、斯波家長を鎌倉杉本城で敗死させます。

こうして時行は、二度目の鎌倉奪還に成功しました。

しかし、遠征軍は和泉国(大阪府)の石津の戦いで敗北。北畠顕家は戦死してしまいます。

時行は再び逃げ延びました。


最後の戦い——三度目の鎌倉奪還と処刑

観応の擾乱という好機

正平7年/文和元年(1352年)、足利氏内部で大きな内紛が起こります。観応の擾乱と呼ばれる、尊氏と弟・直義の対立です。

時行はこの混乱に乗じて、新田義宗・義興兄弟とともに挙兵。そして、三度目の鎌倉奪還を果たしました。

生涯で三度も鎌倉を奪い返した人物は、時行をおいて他にいません。

龍口での処刑

しかし、この三度目の鎌倉支配も長くは続きませんでした。

足利方の反撃により鎌倉を追われた時行は、相模国(神奈川県)で捕らえられます。

正平8年/文和2年(1353年)5月20日、鎌倉郊外の龍口(現在の神奈川県藤沢市片瀬)で処刑されました。享年25歳前後と推定されています。

この日は、鎌倉幕府・北条得宗家の滅亡と父・高時の死からちょうど20年を迎える2日前でした。

共に処刑されたのは、長崎氏・工藤氏など北条得宗家の被官の子孫たちでした。

時行が20年もの間、諦めることなく戦い続けられたのは、こうした忠臣たちの存在も大きかったのです。


中先代の乱の歴史的意義

南北朝時代の引き金

時行が起こした中先代の乱は、日本史に大きな転換点をもたらしました。

乱の鎮圧後、足利尊氏は鎌倉に留まり、後醍醐天皇の許可なく部下に恩賞を与え始めます。

これが建武政権との決定的な対立を生み、やがて室町幕府の成立南北朝時代へとつながっていくのです。

つまり、もし中先代の乱がなければ——。

尊氏は京都に留まり、後醍醐天皇と対立することもなく、日本は武家の時代から天皇と貴族の時代に移行していたかもしれないのです。

日本史研究者の鈴木由美氏は、この乱の意義をこう指摘しています。

「中先代」という呼び名自体が、北条氏の祖や尊氏と同質の存在として時行が評価されていた証拠だと。
わずか20日間とはいえ、武家政権の首都・鎌倉を実力で征服したことが、それほど重要な出来事だったのです。

足利尊氏が恐れた存在

呉座勇一氏の研究によれば、足利尊氏は北条時行を本気で恐れていたといいます。

尊氏が中先代の乱の鎮圧に際して征夷大将軍の地位を求めたのも、鎌倉幕府再興という大義名分を掲げる時行に対抗するためだったのではないかと考えられています。

実際、時行の執念深い抵抗は尊氏にとって脅威だったはずです。何度倒しても立ち上がり、三度も鎌倉を奪われたのですから。


「逃げ上手」という評価

なぜ「逃げ上手」なのか

「負けても負けても逃げ延びて、都合三度も鎌倉を奪還した」

これが北条時行の最大の特徴です。

当時の鎌倉武士は、合戦に敗れると一族郎党が潔く自害するのが当然でした。

しかし時行は、諏訪頼重らが身代わりとなって自害する中を逃げ延び、何度でも再起を図りました。

勇猛果敢に戦って散る武将は数多くいます。しかし、何度も逃げ延びて、その度に巻き返した武将はほとんどいません。

この「逃げて生き延びる」という選択こそが、時行を日本史上でも稀有な存在にしているのです。

諏訪氏との絆

時行を支えた諏訪氏の存在も見逃せません。

諏訪大社の祭神・タケミナカタノカミ(建御名方神)は、国譲りの神話でアマテラス側に負けても逃げ続け、最終的に諏訪の地で抵抗を続けた神です。

「どんなに劣勢でも容易には屈しない」という諏訪神の気骨は、時行にも通じるものがあったのかもしれません。


時行の生存説と子孫

生存説

通説では1353年に処刑されたとされる時行ですが、生存説も伝わっています。

この説によれば、時行は龍口から逃亡し、伊勢国(三重県)に渡って「伊勢次郎」と名を改めて暮らしたといいます。
子の行氏をもうけ、時盛、行長、氏盛へと系譜をつなげていったとされています。

興味深いことに、この「氏盛」が戦国時代の北条早雲(伊勢宗瑞)であるという説もあります。

ただし、北条早雲の出自については諸説あり、この系譜が事実かどうかは確認できていません。

確認できる子孫

より確実な系譜としては、時行の次男・時満の子孫が挙げられます。

時満の子・北条時任は愛知郡横江村に逃れ、その孫・時永が横井氏を称して赤目城を築城しました。

横井氏はその後、織田信長や徳川家康に仕え、江戸時代には尾張藩主の重臣として明治時代まで続いたとされています。

幕末の思想家・横井小楠も、時行の末裔を称した人物の一人です。


現代文化への影響

漫画『逃げ上手の若君』

2021年より『週刊少年ジャンプ』で連載が始まった松井優征の漫画『逃げ上手の若君』は、北条時行を主人公とした作品です。

2024年7月からはTVアニメも放映され、SNSで大きな話題となりました。

この作品によって、長らく歴史の影に隠れていた時行が一躍有名人となり、中先代の乱に関する学術書も注目を集めるようになっています。

歌舞伎での時行

実は、江戸時代の歌舞伎でも北条時行は題材となっていました。

東洲斎写楽が描いた「三代目市川高麗蔵の廻国の修行者西方の弥陀次郎実は相模次郎時行」という作品が、ベルギー王立美術歴史博物館に所蔵されています。

時行は忘れられた存在というより、「知る人ぞ知る」人物として、各時代で語り継がれてきたと言えるでしょう。

歴史書の再評価

2021年に出版された鈴木由美氏の『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』(中公新書)は、『逃げ上手の若君』の連載開始と同時期に刊行され、相乗効果で注目を集めました。

この本では、中先代の乱を単なる反乱として片付けるのではなく、その歴史的意義を詳細に分析しています。


まとめ

北条時行は、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の遺児として生まれ、幕府滅亡からわずか2年後に中先代の乱を起こした人物です。

重要なポイント

  • 鎌倉幕府滅亡時はわずか4〜5歳。一族870人が自害する中、奇跡的に脱出
  • 諏訪氏に匿われ、信濃で挙兵の機会をうかがう
  • 建武2年(1335年)、10歳以下で中先代の乱を起こし、鎌倉を奪還
  • 足利尊氏に敗れるも逃げ延び、南朝に帰順
  • 北畠顕家や新田義興らと共闘し、生涯で三度の鎌倉奪還を達成
  • 正平8年(1353年)、鎌倉幕府滅亡からちょうど20年目に処刑される
  • 中先代の乱は室町幕府成立と南北朝時代の引き金となった

「逃げる」ことの意味

時行の生涯は、私たちに一つの問いを投げかけています。

「逃げることは、本当に負けなのか?」

当時の武士の価値観では、敗北すれば潔く死ぬことが美徳とされていました。しかし時行は、何度敗れても逃げ延び、再起を図り続けました。

結果として、彼は三度も鎌倉を奪還するという、他の誰も成し遂げられなかった偉業を達成したのです。

歴史に「勝者」として名を残したのは足利尊氏でした。しかし、その尊氏を20年間にわたって恐れさせ、日本史の転換点を作り出したのは、「逃げ上手」の若君・北条時行だったのです。


参考文献

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