【付けひげの女王】古代エジプト最強の女性ファラオ「ハトシェプスト」とは?

神話・歴史・伝承

古代エジプトで、女性がファラオ(王)になることは、ほとんど不可能でした。

でも、そんな常識を覆して、男性たちと肩を並べて国を治めた女性がいたんです。

その名はハトシェプスト。彼女は付けひげをつけて男装し、20年以上もエジプトを統治しました。

この記事では、古代エジプト史上最も成功した女性統治者「ハトシェプスト」の生涯と功績について、詳しくご紹介します。

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概要

ハトシェプストは、古代エジプト第18王朝のファラオです。

紀元前1479年頃から紀元前1458年頃まで、約20年以上にわたってエジプトを統治しました。

彼女の名前は「最も高貴なる女性」という意味を持っています。

注目すべき点

  • エジプト史上2番目の女性ファラオ(確認されているもの)
  • 当初は幼い継子トトメス3世の摂政として統治を開始
  • 後に自らファラオを名乗り、共同統治者となった
  • 戦争より平和外交を重視した統治を行った

女性がファラオになるというのは、当時のエジプトでは非常に異例なこと。それでも彼女は神官団を味方につけ、自分の統治の正当性を確立したんです。

偉業・功績

ハトシェプストの治世は、建築事業と交易で特に輝かしい成果を残しました。

建築プロジェクト

彼女は古代エジプトで最も熱心な建築者の一人でした。

主な建造物

  • デル・エル・バハリの葬祭殿:彼女の最高傑作。断崖に建てられた美しい神殿で、今も観光名所として有名
  • カルナック神殿のオベリスク:神殿の入口に建てた2本のオベリスクは、当時世界で最も高いものだった
  • 赤い礼拝堂:カルナック神殿内に建てた聖船を安置するための建造物
  • パケト神殿:ベニ・ハサンに建てた岩窟神殿

これらの建造物は、単なる権力の誇示ではありません。宗教的な正当性を示し、自分がファラオにふさわしい存在だと国民に示すためのものでした。

プント遠征

ハトシェプストの治世で最も有名なのが、プントの地への交易遠征です。

プントは東アフリカにあったとされる謎の国で、貴重な資源が豊富にあった場所。この遠征で持ち帰ったものは:

  • 没薬(もつやく)の生木31本
  • 乳香(にゅうこう)
  • 黒檀(こくたん)
  • 貴重な宝石

面白いのは、彼女が持ち帰った乳香を黒く焦がして、アイライン用の化粧品として使ったこと。これは史上初の記録なんです。

軍事活動

平和外交を重視したと言われますが、実は軍事遠征も行っています。

  • ヌビアへの遠征
  • ビブロス(地中海東岸)への遠征
  • シナイ半島への遠征

時には自ら軍の指揮を取ったとも言われ、その際も男性ファラオと同じ装束を身につけていたそうです。

系譜

ハトシェプストの家系を見ると、彼女がなぜファラオになれたのかが分かります。

家族構成

父親:トトメス1世(在位:紀元前1504-1492年)

  • 第18王朝のファラオ
  • 正室イアフメスとの間にハトシェプストをもうける

母親:イアフメス

  • トトメス1世の正室(正妻)
  • 王族の血筋を持つ重要な立場

:トトメス2世(在位:紀元前1492-1479年)

  • ハトシェプストの異母兄弟
  • 妾の子だったため、正室の娘であるハトシェプストと結婚して地位を高める必要があった

:ネフェルウラー

  • トトメス2世との間に生まれた
  • 王太子(女性)として育てられた

継子:トトメス3世(在位:紀元前1479-1425年)

  • トトメス2世と妾の間に生まれた息子
  • ハトシェプストの死後、単独で統治して多くの功績を残した

権力の道のり

ハトシェプストがファラオになった経緯は、かなりドラマチックです。

  1. 父の死後:異母兄弟のトトメス2世と結婚
  2. 夫の早世:トトメス2世が世継ぎの王子をもうけないまま死去
  3. 摂政就任:幼いトトメス3世(妾の子)の摂政に任命される
  4. ファラオ宣言:摂政の地位を利用して権力基盤を固め、自らファラオを名乗る

正室の娘であった彼女にとって、妾の子が後継者に指名されたのは屈辱的だったでしょう。でも彼女は黙って引き下がらず、権力を掴み取ったんです。

姿・見た目

ハトシェプストの見た目で最も特徴的なのは、男装です。

公式な姿

ファラオとして公の場に立つ時、彼女は以下の装いをしていました:

  • カト頭巾:ファラオ特有の頭飾り
  • ウラエウス:額につける蛇の装飾(王権の象徴)
  • 付けひげ:あごにつける伝統的な儀式用のひげ
  • シェンドゥト:男性ファラオが着る腰布
  • 裸の上半身:または男性的な装束

彫像の表現

彼女の像は、時期によって表現が異なります。

初期:女性的な特徴を残しつつ、王の装束を身につけた姿

後期:完全に男性化した姿で、筋肉質な体つきで描かれることも

面白いのは、碑文では女性形の言葉が使われているのに、視覚的には男性として描かれていること。つまり「彼女は王(男性)である」という複雑な表現なんです。

なぜ男装したのか?

理由については諸説あります:

  • 伝統への固執:ファラオの姿には決まった様式があり、それに従った
  • 権威の象徴:男性的な姿でないと王としての権威を示せなかった
  • 神話的な正当性:自分を神の子として示すための演出

どの理由が正しいかは分かりませんが、この独特なスタイルは後世に強い印象を残しました。

特徴

ハトシェプストには、他の統治者とは違う独特の特徴がありました。

政治手腕

彼女の政治センスは非常に優れていました。

権力基盤の構築

  • アモン神官団を味方につける
  • 神の権威を利用して統治の正当性を確立
  • 有能な側近セネンムト(娘の養育係)を重用

統治スタイル

  • 戦争より平和外交を優先
  • 交易による経済発展を重視
  • 大規模建築事業で国力を誇示

神話的演出

彼女は自分の出生について、壮大な神話を作り上げました。

デル・エル・バハリの葬祭殿には、こんな物語が刻まれています:

  1. 創造神アモンがトトメス1世の姿に化けて、母イアフメスのもとを訪れた
  2. ハトシェプストはアモン神の子として誕生した
  3. 誕生には、出産の神ベスや豊穣の女神タウエレトが立ち会った

つまり「私は人間の王女ではなく、神の娘である」と主張したんですね。

性格

記録から推測される彼女の性格:

  • 野心的:摂政から一歩踏み出してファラオになった
  • 戦略的:神官団や有力者を味方につける政治センス
  • 文化的:建築や芸術を重視
  • 実務的:交易による実利を追求

伝承

ハトシェプストにまつわる興味深い伝説や逸話があります。

神託の物語

アモン神殿の神託(しんたく:神のお告げ)が、彼女をファラオとして認めたという話が残っています。

神殿の碑文にはこう刻まれています:

「我が愛する娘、我が寵愛の者、上下エジプトの王マアトカラー(ハトシェプスト)よ、ようこそ。汝こそがファラオであり、両国の地を治めるのだ」

これは彼女が作った神話かもしれませんが、当時の人々はこれを信じたんです。

セネンムトとの関係

彼女の最も信頼した側近セネンムトについては、様々な憶測があります。

  • 娘ネフェルウラーの養育係だった
  • 建築事業の総責任者として活躍
  • ハトシェプストの治世の終わり頃、突然歴史から姿を消す

一部の研究者は、二人の関係が単なる君主と臣下以上のものだったのではないかと考えています。ただし、確実な証拠はありません。

謎の失踪

ハトシェプストは在位20年後、突然歴史から姿を消します。

可能性のあるシナリオ

  • 自然死してトトメス3世が単独統治を開始した
  • トトメス3世によって権力の座から追われた
  • 娘ネフェルウラーとセネンムトも同時期に消えていることから、何らかの政変があった

真実は分かりませんが、彼女の娘と側近も姿を消していることを考えると、平和的な権力移譲ではなかった可能性が高いでしょう。

記録の抹消

彼女の死後、不思議なことが起こります。

抹消の実態

  • 多くの建造物から彼女の名前が削り取られた
  • カルトゥーシュ(王名を囲む楕円形の枠)が破壊された
  • 彫像が破壊され、地中に埋められた
  • 王名表から名前が省かれた

誰が、なぜ?

長い間、トトメス3世が恨みから消したと考えられていましたが、最近の研究では別の説も:

  • 次のファラオ、アメンホテプ2世が自分の地位を固めるために消した
  • 「女性ファラオ」という前例を消したかった保守派の仕業
  • トトメス3世との仲は良好で、単に王位継承の系図を整理しただけ

モーセの育ての親?

旧約聖書の「出エジプト記」に登場する、モーセをナイル川で拾って育てた王女は、ハトシェプストではないかという説もあります。

ただし、これは時代的に矛盾があり、伝説の域を出ません。

出典・起源

ハトシェプストについて私たちが知っていることは、様々な史料から来ています。

古代の記録

マネトの王名表(紀元前3世紀)

  • エジプトの歴史家マネトが残した記録
  • 女王「アメンシス」として21年9ヶ月統治したと記載
  • 後にこれがハトシェプストと同定された

ヨセフスの著作

  • ユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスが、マネトの記録を引用
  • 女性統治者として言及

現代の発見

19世紀の解読

フランスの学者ジャン=フランソワ・シャンポリオン(ヒエログリフ解読者)が、デル・エル・バハリ神殿の碑文を読んだとき、大いに混乱しました。

「二人の男性王が描かれているのに、碑文は女性形で書かれている。これは一体どういうことだ?」

この謎が「ハトシェプスト問題」と呼ばれる学術的議論の始まりでした。

20世紀の考古学的発見

  • 1903年:ハワード・カーターが王家の谷のKV60墓を発見
  • 1990年代:ハトシェプストのミイラ候補が注目される
  • 2007年:エジプト政府がKV60から発見された女性のミイラをハトシェプストと特定

ミイラの特定

決め手となったのは、歯でした。

  1. ハトシェプストの名前が刻まれたカノプス壺(内臓を保存する壺)から臼歯が発見される
  2. KV60の身元不明女性ミイラは臼歯が1本欠けていた
  3. この歯がぴったり合致した

ただし、2011年の再検証で、この同定には疑問も出ています。

現代の評価

最初の偉大な女性

アメリカの考古学者ジェームズ・ヘンリー・ブレステッドは、彼女をこう評しました:

「ハトシェプストは、歴史上初めて記録された偉大な女性である」

ジェンダーの壁を越えて

彼女の業績は、女性が男性支配社会でいかに権力を握り、維持したかの研究対象になっています。

  • 男性の象徴を使うことで権威を確立
  • 神話的正当性を作り出す政治手腕
  • 実績で統治の正当性を証明

まとめ

ハトシェプストは、古代エジプトで最も成功した女性統治者でした。

重要なポイント

  • 第18王朝のファラオとして約20年統治(紀元前1479-1458年頃)
  • 摂政から自らファラオを名乗り、共同統治者となった
  • 男装して付けひげをつけ、男性ファラオの装束を身につけた
  • プント遠征など交易を重視し、平和的に国を繁栄させた
  • デル・エル・バハリ葬祭殿など壮大な建築事業を推進
  • 死後、多くの記録が抹消されたが、近年再評価が進んでいる
  • 2007年にミイラが特定されたと発表された

彼女の物語は、権力、性別、正統性についての興味深い問いを投げかけます。女性であることと王であることをどう両立させたのか、なぜ記録を抹消されたのか、そして本当は何を成し遂げたかったのか。

3500年の時を経ても、ハトシェプストは私たちに多くのことを語りかけているんです。

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