【傾国の美女との悲恋】唐の玄宗皇帝とは?楊貴妃伝説と日本に残る伝承を解説!

神話・歴史・伝承

「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝」——天にあっては願わくば比翼の鳥となり、地にあっては願わくば連理の枝とならん。

これは中国の詩人・白居易が詠んだ『長恨歌』の一節です。

唐の全盛期を築いた名君・玄宗皇帝と、世界三大美人の一人に数えられる楊貴妃。二人の悲恋は千年以上の時を超えて語り継がれ、日本にまで不思議な伝説を残しています。

この記事では、唐の玄宗皇帝の生涯と楊貴妃との物語、そして日本に伝わる興味深い伝承について詳しくご紹介します。


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概要

玄宗(げんそう) は、中国・唐王朝の第6代皇帝です。

712年から756年まで約44年間にわたって在位し、これは唐王朝で最も長い治世でした。本名は李隆基(りりゅうき)といいます。

玄宗の治世は大きく二つの時代に分けられます。

前半は 「開元の治」 と呼ばれる善政の時代。経済も文化も大いに栄え、唐王朝の絶頂期を迎えました。

しかし後半は、絶世の美女・楊貴妃への溺愛から政治を顧みなくなり、最終的には 安史の乱 という大反乱を招いてしまいます。

名君から暗君へ——その劇的な転落と悲恋の物語が、後世の人々の心を捉えて離さないのです。


玄宗の生涯

若き日の活躍

玄宗・李隆基は685年、洛陽で生まれました。

当時は祖母の 武則天 が中国史上唯一の女帝として君臨していた時代。幼い李隆基は複雑な宮廷の権力争いの中で育ちます。

成長した李隆基は、聡明で行動力にあふれた青年でした。710年、わずか25歳のときにクーデターを起こし、専横を極めていた韋后(いこう)一派を倒します。この功績により、父・睿宗(えいそう)から皇太子に立てられました。

712年には父から譲位を受けて即位。さらに翌年、政治に介入しようとする叔母・太平公主を排除し、ついに実権を掌握したのです。

開元の治——唐の黄金時代

即位した玄宗は、精力的に政治改革に取り組みました。

開元の治の主な成果

  • 姚崇・宋璟といった有能な宰相を登用
  • 辺境防衛のための節度使制度を整備
  • 税制改革による財政の安定化
  • 仏教僧侶の資格審査を厳格化

この時期の唐は経済的にも文化的にも大いに栄えました。詩人の杜甫は『憶昔』という詩の中で「小さな町にも万戸の民家があり、米は脂のように白く光り、倉庫は穀物で満ち溢れていた」と当時の繁栄を詠んでいます。

まさに唐王朝の黄金時代でした。


楊貴妃との出会い

息子の妻を奪う

平和な時代が続く中、玄宗は次第に政治への意欲を失い始めます。

737年、最愛の側室・武恵妃が亡くなると、玄宗は深い悲しみに沈みました。後宮には三千人もの美女がいたといいますが、心を満たす存在は見つかりません。

そんなとき、玄宗の目に留まったのが 楊玉環(ようぎょくかん) という女性でした。

問題は、彼女が玄宗の第18子・寿王李瑁の妃だったこと。つまり自分の息子の妻です。

玄宗は740年、楊玉環を女道士(道教の尼僧のような存在)にするよう命じ、「太真」という道号を与えました。表向きは出家ですが、実際には息子から妻を奪うための方便だったのです。

貴妃への寵愛

745年、楊玉環は正式に 貴妃 に冊立されました。これは皇后に次ぐ最高位の称号です。

楊貴妃の美しさについて、白居易は『長恨歌』でこう詠んでいます。

回眸一笑百媚生、六宮粉黛無顏色」——振り返って微笑めば百の媚態が生まれ、後宮の美女たちは皆色を失った。

楊貴妃は単に美しいだけではありませんでした。音楽や舞踊にも優れた才能を持ち、特に琵琶の演奏と「霓裳羽衣の曲」という舞は見事だったといいます。

玄宗自身も音楽を愛し、多くの楽曲を作曲した芸術家肌の皇帝でした。二人は芸術を通じても深く結ばれていたのでしょう。

楊一族の繁栄

楊貴妃の寵愛は、彼女の一族にも及びました。

三人の姉は韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人に封じられ、毎月10万銭もの化粧代を与えられます。又従兄の楊国忠は宰相にまで上り詰めました。

楊氏一族の権勢は凄まじく、宮廷の女性たちですら楊家の姉妹に席を譲ったといいます。

当時、長安ではこんな歌が流行しました。

男を生んでも喜ぶな、女を生んでも悲しむな

楊貴妃のおかげで女性でも出世できる時代になった——そんな皮肉を込めた歌でした。


安史の乱と馬嵬驛の悲劇

安禄山の反乱

755年、辺境の将軍・安禄山が反乱を起こしました。

安禄山は玄宗と楊貴妃に可愛がられ、楊貴妃の養子にまでなった人物です。しかし宰相・楊国忠との権力争いから、ついに謀反に踏み切ったのです。

反乱軍はまたたく間に洛陽を陥落させ、翌756年には都・長安に迫りました。

玄宗は楊貴妃や楊国忠、そして皇太子・李亨らとともに蜀(現在の四川省)への逃避行を始めます。

馬嵬驛の悲劇

756年7月15日、一行は馬嵬驛(ばかいえき)という宿場に到着しました。

ここで護衛の兵士たちが暴動を起こします。兵士たちは反乱の原因は楊国忠にあると考えており、その怒りが爆発したのです。

楊国忠は斬り殺され、楊貴妃の姉たちも命を落としました。

そして兵士たちは玄宗に、楊貴妃の処刑を要求します。

貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない

玄宗は必死に楊貴妃をかばいました。しかし兵士たちは引きません。側近の高力士から「このままでは陛下の身も危ない」と説得され、玄宗はついに楊貴妃に死を命じることを決意しました。

楊貴妃は最後に仏を拝むことを許され、その後、白い絹で首を絞められて亡くなったといいます。享年38歳でした。


玄宗と楊貴妃をめぐる伝説

長恨歌——永遠の愛の物語

楊貴妃の死から約50年後、詩人・白居易は『長恨歌』という長編の詩を詠みました。

この詩には、不思議な後日談が語られています。

楊貴妃の死後、玄宗は悲しみのあまり眠れぬ夜を過ごしていました。そこで道士に命じて、楊貴妃の魂を探させます。

道士は天上界も地下世界も探し回り、ついに海の彼方にある蓬莱山で仙女となった楊貴妃を見つけ出しました。

楊貴妃は涙を流しながら、玄宗への伝言を託します。

天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝となりたい

比翼の鳥とは、一羽では飛べず二羽揃って初めて飛べる伝説の鳥。連理の枝とは、二本の木の枝が絡み合って一つになったもの。どちらも永遠の愛の象徴です。

天長地久有時盡、此恨綿綿無絕期」——天地は永遠に続くように見えても終わりがある。しかしこの恨み(思い)は、いつまでも絶えることがないだろう。

日本に残る楊貴妃伝説

興味深いことに、楊貴妃にまつわる伝説は日本にも残っています。

熱田神宮と楊貴妃

愛知県の熱田神宮には、「楊貴妃の墓の石」と呼ばれる石が伝わっています。

この伝説によると、楊貴妃は熱田神宮の主祭神・熱田大神の化身だったというのです。熱田大神が楊貴妃に姿を変えて玄宗のもとに現れ、唐が日本へ出兵することを防いだのだとか。

安史の乱で亡くなった楊貴妃は、本来の姿である熱田大神に戻ったため、日本にも墓があるのだと説明されています。

山口県・二尊院の楊貴妃墓

山口県長門市の二尊院には、楊貴妃の墓と伝えられる 五輪塔 があります。

こちらの伝説では、楊貴妃は馬嵬驛で実際には殺されず、密かに日本へ逃れてきたとされています。身代わりとなった侍女が処刑され、本人は遣唐使の阿倍仲麻呂らに護られて海を渡ったというのです。

日本に到着した楊貴妃は女帝・孝謙天皇に謁見し、和歌山に住まわされた後、京都で68歳まで生きたといいます。

歴史的な裏付けはありませんが、こうした物語が日本で広く愛されてきたことは確かです。

芸能の神としての玄宗

玄宗皇帝は、芸能との関わりでも伝説的な存在です。

玄宗は宮中に 梨園 という音楽・舞踊の教習所を設け、自ら楽人や女官を指導しました。これが「梨園」が演劇界を指す言葉となった由来です。

台湾や中国の一部地域では、玄宗は 西秦王爺 という芸能の神として信仰されています。演劇や音楽に関わる人々が、芸の上達を祈願して祀るのです。

音楽を愛し、多くの楽曲を作曲した皇帝が、死後に芸能の守護神となった——これもまた、玄宗にまつわる興味深い伝承といえるでしょう。


まとめ

玄宗皇帝は、唐王朝の最盛期と衰退の始まりを体現した皇帝です。

重要なポイント

  • 唐王朝の第6代皇帝で、44年間という最長の治世を誇る
  • 治世前半の「開元の治」は唐の黄金時代として名高い
  • 息子の妻・楊貴妃を寵愛し、政治を顧みなくなった
  • 安史の乱で都を追われ、楊貴妃に死を命じる悲劇を迎える
  • 白居易の『長恨歌』により、二人の悲恋は永遠の愛の物語として語り継がれる
  • 日本にも楊貴妃が逃れてきたという伝説が残る
  • 芸能の神・西秦王爺として信仰される

名君と暗君、絶頂と没落、永遠の愛と悲劇的な別れ。玄宗と楊貴妃の物語は、人間のあらゆる感情を映し出す鏡のようです。

千年以上の時を超えて語り継がれるこの物語は、今もなお私たちの心に響き続けているのです。

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