中国の歴史に名を刻む英雄といえば、三国志の関羽を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
しかし、関羽と並んで中国の人々から絶大な人気を誇る武将がいます。
それが、南宋時代に活躍した岳飛(がくひ)です。
農民の家に生まれながら、異民族の金(きん)軍を相手に連戦連勝を重ね、「山を動かすは易く、岳家軍を動かすは難し」と敵に言わしめた伝説の名将。
しかし彼は、味方の陰謀によって無実の罪で処刑されるという悲劇的な最期を遂げました。
この記事では、中国史上最も愛される悲劇の英雄「岳飛」について、その偉業から伝説まで詳しくご紹介します。
概要

岳飛(がくひ、1103年〜1142年)は、中国・南宋時代に活躍した伝説的な武将です。
字(あざな)は鵬挙(ほうきょ)といい、現在の河南省安陽市湯陰県の出身でした。
12世紀、北方から侵攻してきた女真族(じょしんぞく)の国「金」に対して、幾度となく勝利を収めた救国の英雄として知られています。
しかし、和平を進めたい宰相・秦檜(しんかい)の陰謀により、「莫須有(あったかもしれない)」という曖昧な罪で処刑されてしまいました。
死後に名誉は回復され、鄂王(がくおう)という称号を贈られています。現在では関羽と並んで中国を代表する民族英雄として、多くの人々から尊敬を集めているんです。
偉業・功績
岳飛の功績は、とにかく圧倒的な軍事的才能にありました。
金軍への連戦連勝
当時、金は北宋を滅ぼし、中国の北半分を支配していました。南に逃れた宋(南宋)は存亡の危機にあったんです。
この絶望的な状況で、岳飛は自ら組織した岳家軍(がくかぐん)を率いて金軍に立ち向かいました。
岳飛の主な戦功
- 金軍の南下を何度も撃退
- 1134年には襄陽府など6つの地域を奪還
- 1140年の北伐では6戦6勝を記録
- 開封(旧都)目前まで進軍
特に1140年の戦いでは、金の総帥・兀朮(ウジュ)率いる大軍を次々と破り、かつての首都・開封のすぐ近くまで迫りました。
敵からも称えられた軍の統率力
岳家軍の規律は当時としては異例なほど厳格でした。
岳家軍の特徴
- 「凍死不拆屋、餓死不擄掠」(凍え死んでも民家を壊さず、飢え死んでも略奪しない)
- 農民出身の岳飛は民衆の苦しみを知っており、略奪を一切許さなかった
- この規律正しさが民衆からの絶大な支持につながった
敵である金の女真族でさえ、「撼山易、撼岳家軍難」(山を動かすのは簡単だが、岳家軍を動かすのは難しい)と認めるほどでした。
系譜
岳飛の家系と子孫について見ていきましょう。
両親と生い立ち
岳飛は農民の家に生まれました。父・岳和は乡里の困っている人を助けるような人格者でしたが、岳飛が幼い頃に亡くなっています。
母・姚氏は女手一つで岳飛を育て上げました。この母子の絆は後に有名な伝説を生むことになります。
妻と子供たち
岳飛の家族構成
妻
- 劉氏(最初の妻、戦乱の中で離別)
- 李娃(後妻、岳飛の死後も生き延びた)
息子
- 岳雲(がくうん):長男、父と共に処刑された
- 岳雷(がくらい):次男
- 岳霖(がくりん):三男
- 岳震(がくしん):四男
- 岳霆(がくてい):五男
娘
- 岳安娘
長男の岳雲は12歳から父と共に戦場に立ち、「贏官人(えいかんじん)」と呼ばれる勇将に成長しました。しかし23歳の若さで、父と共に冤罪で処刑されてしまいます。
著名な子孫
岳飛の子孫からは後世にも優れた人物が輩出されています。
孫の岳珂(がくか)は詩人・歴史家として知られ、祖父の伝記『鄂国金佗稡編』を編纂しました。また、清代には子孫の岳鍾琪(がくしょうき)が名将として活躍しています。
姿・見た目
岳飛の実際の姿については、同時代の絵画から知ることができます。
実際の肖像画
南宋の画家・劉松年(りゅうしょうねん)が描いた『中興四将図』に岳飛の姿が残されています。
肖像画から分かる岳飛の特徴
- 学者のような風貌を持つ
- 後世のイメージよりやや小柄でふくよかな体型
- 武将というより文人のような穏やかな印象
現在、杭州の岳王廟にある岳飛像は背が高くすらりとした姿ですが、実際はもう少し親しみやすい外見だったようです。
背中の刺青
岳飛の体で最も有名なのが、背中に彫られた「尽忠報国」(じんちゅうほうこく)の4文字です。
「忠義を尽くして国に報いる」という意味のこの刺青は、岳飛の生涯を象徴するものとして語り継がれています。
特徴

岳飛には、名将たるにふさわしい様々な特徴がありました。
文武両道の才能
岳飛は単なる武人ではありませんでした。
岳飛の能力
- 武芸:弓は左右両手で射ることができ、300斤(約180kg)の強弓を引けた
- 学問:『左氏春秋』や孫子・呉子の兵法書を熟読
- 書道:書の名手としても知られ、作品が今も残っている
- 詩文:『満江紅』などの詩詞を残した
清廉潔白な人柄
岳飛は出世しても贅沢をせず、質素な生活を続けました。
岳飛の人格
- 給料や褒美は部下に分け与えた
- 「文官が金を愛さず、武官が死を恐れなければ、天下は太平になる」という名言を残した
- 酒好きだったが、皇帝に諫められてからは禁酒を守った
兵法の極意
岳飛は兵法についてこう語っています。
「陣而後戦、兵法之常。運用之妙、存乎一心」
(陣を構えてから戦うのは兵法の常道。しかし、その運用の妙は心一つにある)
つまり、教科書通りの戦い方だけでなく、状況に応じた柔軟な判断が大切だと説いたんですね。
伝承

岳飛にまつわる伝説は数多く残されています。
岳母刺字(がくぼしじ)
最も有名な伝説が、母・姚氏が岳飛の背中に刺青を彫ったという話です。
伝説のあらすじ
ある時、盗賊の首領が岳飛を自分の軍に引き入れようとしました。岳飛はこれを断りましたが、母は息子の将来を心配します。
「私が死んだ後、お前を誘惑する者が現れるかもしれない」
そう言って母は、岳飛の背中に「尽忠報国」の4文字を針で刺し、墨を入れたのです。
この伝説は後世に作られたものですが、岳飛の忠義と孝行を象徴する物語として広く愛されています。
莫須有(ばくしゅう)の冤罪
岳飛の死に関わる有名な言葉が「莫須有」です。
事件の経緯
1141年、岳飛は宰相・秦檜によって謀反の罪で投獄されました。しかし、いくら拷問しても罪を認めさせることができません。
岳飛の同僚・韓世忠が秦檜に詰め寄りました。
「岳飛の謀反に証拠はあるのか?」
秦檜は答えました。
「莫須有(あったかもしれない)」
韓世忠は激怒して言いました。
「『莫須有』の3文字で天下が納得するというのか!」
この「莫須有」は、現代中国語でも「でっち上げの罪」を意味する言葉として使われています。
秦檜夫婦の像
杭州の西湖のほとりには岳王廟が建てられ、岳飛の墓があります。
その墓の前には、後ろ手に縛られてひざまずく秦檜夫婦の像が置かれているんです。かつては参拝者がこの像に唾を吐きかける風習があったほど、秦檜への恨みは深いものでした。
(現在この行為は禁止されています)
出典・起源
岳飛の物語は、様々な文献や作品を通じて伝えられてきました。
歴史書での記録
岳飛に関する主な史料
- 『鄂国金佗稡編』:孫の岳珂が編纂した伝記。岳飛の死から60年後に書かれた
- 『宋史』岳飛伝:元代に編纂された正史。1346年成立
- 『建炎以来朝野雑記』:南宋の歴史家・李心伝による記録
『宋史』は岳飛の冤罪を明確に認め、「高宗は自ら中原を棄て、故に忍んで岳飛を殺した。嗚呼、冤なるかな」と結んでいます。
文学作品での展開
岳飛の物語は多くの文学作品で語られてきました。
岳飛を扱った主な作品
- 『大宋中興通俗演義岳王伝』:明代の小説
- 『説岳全伝』:清代の代表的な岳飛小説
- 『岳飛伝』(北方謙三):現代日本の歴史小説
- 『精忠岳飛』:2013年の中国テレビドラマ
特に清代の『説岳全伝』は、岳母刺字などの伝説を含む完成度の高い物語として、広く読まれてきました。
神格化
岳飛は死後、次第に神格化されていきます。
- 1170年:鄂州に忠烈廟が建立
- 1178年:「武穆」の諡号を贈られる
- 1204年:「鄂王」に追封
- 明代:「靖魔大帝」として神に列せられる
- 現在:関羽と共に武廟に祀られている
岳飛は単なる歴史上の人物を超え、忠義と愛国心の象徴として崇められる存在となったのです。
まとめ
岳飛は、南宋時代に金の侵略から国を守った伝説的な武将です。
重要なポイント
- 農民出身ながら文武両道の才を発揮した名将
- 岳家軍を率いて金軍に連戦連勝を重ねた
- 厳格な軍律で民衆からの信頼を得た
- 宰相・秦檜の陰謀により「莫須有」の冤罪で処刑された
- 背中の「尽忠報国」の刺青は母への孝行と国への忠義を象徴
- 死後に名誉回復され、関羽と並ぶ民族英雄として崇められている
岳飛の物語は、単なる英雄譚ではありません。
才能と人徳を備えた人物が、政治の犠牲となって非業の死を遂げる——その悲劇性こそが、900年近く経った今も人々の心を打ち続けている理由なのかもしれませんね。


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