スマートフォンを充電するとき、電車に乗るとき、冷蔵庫を開けるとき。私たちは毎日、当たり前のように電気を使って暮らしています。
でも、この「電気」という不思議な力を人類が自由に使えるようになったのは、たった200年ほど前のこと。そして、その扉を開いた最大の功労者が、今回ご紹介するマイケル・ファラデーなんです。
驚くべきことに、ファラデーは正規の学校教育をほとんど受けていません。鍛冶屋の息子として貧しい家庭に生まれ、13歳から製本職人として働き始めた彼が、どうやって歴史に名を残す大科学者になったのでしょうか。
この記事では、電磁誘導の発見から「ロウソクの科学」まで、科学史上最も偉大な実験物理学者の一人と称されるマイケル・ファラデーの生涯と功績を詳しくご紹介します。
概要
マイケル・ファラデー(Michael Faraday、1791年9月22日 – 1867年8月25日)は、イギリスの物理学者・化学者です。
電磁気学と電気化学の分野で数々の偉大な発見をなし、現代文明の基盤となる電気技術の発展に決定的な貢献をしました。
ファラデーの主な業績は以下の通りです。
- 電磁誘導の法則の発見(1831年)
- 世界初の電動機(モーター)の発明(1821年)
- 発電機の原型の発明(1831年)
- ベンゼンの発見(1825年)
- ファラデーケージの発明(1836年)
- 電気分解の法則の発見(1833年)
物理学者アーネスト・ラザフォードは「ファラデーの発見の規模と範囲、そして科学と産業の発展に対する影響を考えると、史上最も偉大な科学的発見者の一人として彼に払うべき敬意に限りはない」と讃えています。
また、アルベルト・アインシュタインは自室の壁にアイザック・ニュートン、ジェームズ・クラーク・マクスウェルと並んでファラデーの肖像を飾っていたといいます。
生い立ちと少年時代
貧しい鍛冶屋の家に生まれて
マイケル・ファラデーは1791年9月22日、ロンドン近郊のニューイントン・バッツ(現在のサザーク区の一部)で生まれました。
父ジェームズ・ファラデーは鍛冶屋でしたが、体が弱く安定した収入を得ることができませんでした。母マーガレットは農家の娘で、穏やかで賢明な女性だったと伝えられています。4人兄弟の3番目として生まれたマイケルは、しばしば空腹を抱えて育ったほど貧しい環境にありました。
正規の教育を受ける余裕はなく、ファラデーが受けたのは日曜学校での読み書きと簡単な算数程度の教育だけでした。
製本職人の見習いとして
13歳になると、ファラデーは生計を助けるために書店で新聞配達の仕事を始めます。真面目な働きぶりが認められ、翌年には製本職人ジョージ・リーボーのもとで見習いとして働くことになりました。
ここでの経験が、ファラデーの人生を大きく変えることになります。リーボーは若きファラデーの知識欲を見抜き、製本する書物を自由に読むことを許可したのです。
製本される本を片端から読み漁ったファラデーは、特に科学の分野に心を惹かれていきます。中でも、ジェーン・マーセットの『化学の会話』と、ブリタニカ百科事典の「電気」の項目は、彼の運命を決定づけました。
ファラデーは本に書いてあることを読むだけでは満足できず、乏しい小遣いから薬品を買い集めて自分で実験を始めるようになります。また、物忘れが多かった彼は店主に言われたことを忘れないようメモを取る習慣を身につけ、これが後の膨大な実験記録につながりました。
ハンフリー・デービーとの出会い
運命の講演会
1812年、書店の顧客の一人であるウィリアム・ダンスから、王立研究所の著名な化学者ハンフリー・デービーの講演を聴講できるチケットを譲り受けます。
デービーはデービー灯(安全灯)の発明者として知られる当代随一の科学者でした。ファラデーは4回の講演に出席し、一言一句も漏らすまいと詳細なメモを取りました。
講演が終わった後、ファラデーは300ページにも及ぶ講演ノートを自ら製本し、デービー本人に送りつけます。自分の熱意を伝え、科学の世界で働きたいという願いを込めた手紙を添えて。
王立研究所への採用
この情熱はすぐには実を結びませんでしたが、1813年に転機が訪れます。デービーが実験中の事故で目を負傷し、秘書が必要になったのです。ファラデーのことを覚えていたデービーは彼を一時的に雇用しました。
そしてちょうどその頃、王立研究所の助手の一人が解雇され、後任を探す必要が生じます。デービーはファラデーを化学助手として推薦し、1813年3月、22歳のファラデーは王立研究所で働き始めました。
当時のイギリスは厳格な階級社会です。製本職人の見習いから王立研究所で働く道が開けたことは、まさに僥倖でした。もしデービーと出会っていなければ、その後の科学史は大きく変わっていたかもしれません。
ヨーロッパ旅行
1813年10月、デービーはヨーロッパ大陸への科学調査旅行に出発します。ファラデーは助手として同行し、フランス、イタリア、スイスなどを巡りました。
この旅行は科学的な見聞を広める絶好の機会でしたが、ファラデーにとっては辛い経験でもありました。デービーの妻は階級意識が強く、ファラデーを召使いのように扱ったのです。
しかし、この旅でファラデーは当時の一流科学者たちと出会い、最先端の研究に触れることができました。アンペール、ヴォルタ、ゲイ=リュサックといった錚々たる科学者との交流は、彼の視野を大きく広げたのです。
化学者としての躍進
王立研究所に戻ったファラデーは、デービーのもとで化学の研究に没頭します。
ベンゼンの発見(1825年)
1825年、ファラデーは照明用ガスの生産過程で生じる油状の残留物を調査していました。
当時、クジラ油や魚油を熱した炉に投入して得られるガスを圧縮し、容器に貯蔵して照明に使用する「携帯ガス」が普及していました。ファラデーはガスを圧縮した際に生じる液体に興味を持ち、分析を行いました。
その結果、新しい炭化水素化合物を単離することに成功します。ファラデーはこれを「bicarburet of hydrogen(水素の二炭化物)」と名付けましたが、これこそが現在ベンゼンと呼ばれる物質でした。
ベンゼンは後に有機化学の発展に極めて重要な役割を果たし、染料、爆薬、ゴム、フェノール、医薬品など無数の化学製品の原料となっています。王立研究所には今もファラデーが単離したベンゼンのサンプルが保存されているんです。
気体の液化
ファラデーは気体の液化にも取り組み、塩素、アンモニア、二酸化硫黄など複数の気体を初めて液化することに成功しました。この研究は気体が「極めて低い沸点を持つ液体の蒸気」であることを示し、分子の凝集についてより確かな理論的基盤を与えました。
塩素化合物の合成
1820年には、炭素と塩素からなる化合物(六塩化エタンC₂Cl₆と四塩化炭素CCl₄)を世界で初めて合成しています。これらはエチレン中の水素を塩素で置換することで得られたもので、最初の置換反応として化学史に記録されています。
バンセンバーナーの原型
ファラデーは現在も世界中の実験室で使われているバンセンバーナーの原型も発明しました。便利な熱源として科学実験に欠かせない道具となっています。
電磁気学の革命
電磁回転装置の発明(1821年)
1820年、デンマークの科学者ハンス・クリスティアン・エルステッドが画期的な発見をします。電流を流した導線の近くに置いた方位磁石の針が振れることを見出したのです。これは電気と磁気に関係があることを示す最初の証拠でした。
ファラデーはこの発見に強い関心を持ち、電気と磁気によって動力が得られないかと考えます。
1821年、ファラデーは「電磁回転装置」を製作しました。電流によって生じた磁場と永久磁石の磁場が相互作用することで、導線と磁石がくるくる回転する装置です。
これは世界初の電動機(モーター)でした。電気エネルギーを機械エネルギー(動力)に変換することに初めて成功したのです。
ただし、この発見を発表する際、ファラデーはデービーやウォラストンの先行研究に言及しませんでした。これが原因で王立協会内に軋轢が生じ、ファラデーは数年間電磁気の研究から離れることを余儀なくされます。
電磁誘導の発見(1831年)
デービーが1829年に死去すると、ファラデーは本格的に電磁気の研究を再開します。
「電気を流すと磁気が発生するなら、逆に磁気から電気を作れるのではないか?」
多くの科学者がこの問いに挑んでいました。フランスのアンペールも実験を行っていましたし、アメリカのジョセフ・ヘンリーも同様の研究を進めていました。
1831年8月29日、ファラデーはついに答えを見つけます。
鉄の環に2つのコイルを巻きつけ、一方のコイルに電流を流すと、もう一方のコイルに瞬間的に電流が流れることを発見したのです。これが電磁誘導と呼ばれる現象でした。
さらに実験を重ね、空心のコイルの中で磁石を動かしても電流が流れること、磁石を固定して導線の方を動かしても電流が流れることを確認します。つまり、磁場の変化によって電場が生じることを明らかにしたのです。
これが「ファラデーの電磁誘導の法則」として知られる発見です。後にジェームズ・クラーク・マクスウェルがこれを数学的に定式化し、4つの「マクスウェル方程式」の一つとなりました。
発電機の発明
電磁誘導を発見したファラデーは、継続的に電気を生み出す方法を模索しました。
試行錯誤の末、U字型磁石のN極とS極の間で銅の円盤を回転させる装置を製作します。円盤に磁気の影響を継続的に加えることで電流が流れ続けることを確認。
この「ファラデー・ディスク」こそが発電機(ダイナモ)の原型でした。動力から電力を生み出し、継続的に電気を供給できる装置の誕生です。
「生まれたての赤ちゃんは何の役に立つ?」
電磁誘導を発見したファラデーに、当時のイギリス大蔵大臣ウィリアム・グラッドストーン(後に首相)がこう尋ねたという有名なエピソードがあります。
「で、それは一体何の役に立つのかね?」
ファラデーはこう答えたとされています。
「生まれたての赤ちゃんが将来何になるか聞かれるのと同じことです」
別の説では「今はわかりませんが、いつかこれに税金をかけることができるでしょう」と答えたとも伝えられています。
実際、電磁誘導の発見から約50年後には発電機が実用化され、電気は現代文明を支えるエネルギーとなりました。現在、世界中で使われている電力に課せられる税金を考えれば、ファラデーの予言は見事に的中したと言えるでしょう。
その他の主要な発見・発明
ファラデーケージの発明(1836年)
1836年、ファラデーは静電気の研究において重要な発見をします。
4つのガラスの支柱の上に約12フィート(約3.6メートル)四方の木枠を置き、紙の壁と金属メッシュで覆った「籠」を作りました。そして自らその中に入り、外部から電気を帯電させたのです。
結果、籠の内部では電気的な影響を全く受けないことがわかりました。これは導体の外側に電荷が集まり、内部の電場が打ち消されるためです。
この「ファラデーケージ」は現在も様々な用途で使われています。
- 電子機器を落雷から保護する
- 電磁波を遮断して通信を妨害する
- MRIなどの医療機器の電磁シールド
- 航空機の落雷対策
面白いことに、ファラデーはこの実験を通じて「電気は流体ではなく力である」ことを証明したのです。
電気分解の法則(1833年)
1833年、ファラデーは電気分解に関する2つの重要な法則を発見しました。
第一法則:電気分解で析出する物質の量は、流れた電荷の量に比例する
第二法則:同じ電荷量で析出する物質の量は、その物質の化学当量に比例する
これらの法則は電気化学の基礎となり、後のバッテリー技術の発展に貢献しました。
また、この研究の中でファラデーは「陽極(anode)」「陰極(cathode)」「電極(electrode)」「イオン(ion)」といった用語を提案し、普及させました。これらの言葉は今も世界中で使われています。
ファラデー効果の発見(1845年)
1845年、ファラデーは磁場が光に影響を与えることを発見しました。
偏光した光が磁場中を通過すると、その偏光面が回転するという現象です。回転角は磁場の強さに比例します。
これは「ファラデー効果」または「磁気光学効果」と呼ばれ、電磁気と光が関連していることを示す最初の実験的証拠となりました。
ファラデーは1846年に「光自体が電磁気的な現象ではないか」という仮説を提唱しましたが、数学の知識が乏しかったため理論的に証明することはできませんでした。この仮説は後にマクスウェルによって数学的に証明され、電磁波の理論として完成することになります。
反磁性の発見(1845年)
同じ1845年、ファラデーは反磁性という現象も発見しています。
通常の物質(常磁性体)は磁場に引き寄せられますが、ある種の物質は逆に磁場を弱める方向に反応することを見出したのです。この性質を持つ物質を「反磁性体」と呼びます。
科学の普及活動
王立研究所クリスマス講演の創設
ファラデーの功績は科学的発見だけではありません。彼は科学の普及活動にも情熱を注ぎました。
1825年、ファラデーは王立研究所で「クリスマス講演(Christmas Lectures)」を創設します。当時、組織的な子ども向け科学教育はほとんど存在していませんでした。この講演は「若い聴衆(juvenile auditory)」を対象とした、画期的な取り組みだったのです。
ファラデー自身も19シリーズもの講演を行い、これは個人としては最多記録となっています。
彼の講演スタイルは革新的でした。
「彼は実験について語るのではなく、常に実験を見せた」と当時の記録にあります。
ファラデーの講演ノートは「まるで劇の台本のようだった」と言われています。左側のページには実験の手順が舞台の演出のように書かれ、右側には話す内容が記されていたそうです。
このクリスマス講演は現在も毎年開催され続けており、2025年には創設200周年を迎えます。BBCでテレビ放送されるなど、世界で最も長く続く科学番組の一つとなっています。
『ロウソクの科学』
ファラデーの講演の中で最も有名なのが『ロウソクの科学(The Chemical History of a Candle)』です。
1848年、1854年、1860-61年と複数回行われたこの講演シリーズは、6回の講義で構成されています。最後の1860-61年の講演は700人以上が聴講したと記録されています。
ファラデーは日常的な「ロウソク」を題材に、燃焼、毛細管現象、対流、酸素と二酸化炭素、水素、そして人間の呼吸との類似性まで、科学のあらゆる分野を解説しました。
「自然哲学の勉強に入るのに、ロウソクの物理的現象を考えることほど開かれた扉はありません」
という有名な言葉で講演は始まります。
1861年に書籍として出版されたこの講演録は、現在も19以上の言語に翻訳され、読み継がれています。ノーベル化学賞を受賞した吉野彰氏は、子ども時代にこの本を読んで科学への興味を持ったと語っています。また、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインもこの本を高く評価していました。
人物像と信仰
謙虚で誠実な人柄
ファラデーは科学的な才能だけでなく、その人柄でも知られていました。
師であるデービーとは対照的に、ファラデーは生涯を通じて親切で謙虚な人物であり、名誉や地位に興味を示しませんでした。
彼はナイト(騎士)の爵位を辞退し、王立協会の会長職も断りました。死後にはウェストミンスター寺院への埋葬(ニュートンと同じ栄誉)も提案されましたが、これも辞退し、より質素なハイゲート墓地に埋葬されることを選んでいます。
サンデマン派の信仰
ファラデーは敬虔なキリスト教徒で、「サンデマン派(グラス派)」という小さな宗派に属していました。これは1730年に創設されたスコットランド国教会の一派です。
1821年にサラ・バーナードと結婚(2人の間に子どもはいませんでした)した翌月、ファラデーはサンデマン派への信仰を公に告白しています。その後、教会の執事や長老としても奉仕しました。
伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記しています。彼は科学的探求と宗教的信念を両立させることができると考え、自然界の法則を理解することは創造主の理解を深めることにつながると信じていました。
心霊現象を科学で否定
19世紀後半のイギリスでは心霊主義が流行し、「テーブル・ターニング」と呼ばれる現象が話題になっていました。参加者がテーブルに手を置くと、霊の力でテーブルが動くというものです。
ファラデーはこれを科学的に検証し、テーブルの動きは参加者の無意識な手の動きによるものだと証明しました。しかし、このような努力にもかかわらず、心霊現象への関心は衰えることなく、現代に至っています。
晩年
1839年、ファラデーは神経衰弱(現代でいう慢性疲労症候群や燃え尽き症候群に近い状態)に陥りました。過度の研究活動による心身の消耗が原因と考えられています。
しばらくの療養を経て電磁気の研究に復帰し、1845年にはファラデー効果や反磁性を発見するなど、再び精力的に活動しました。
晩年は記憶力の低下に悩まされましたが、王立研究所のフラー教授職として死去するまでその職を務め続けました。
1858年、ヴィクトリア女王はファラデーにハンプトンコートの住居を無償で提供し、彼はそこで余生を過ごします。
1867年8月25日、マイケル・ファラデーは75歳で静かに息を引き取りました。妻サラも同じハイゲート墓地に埋葬され、今も二人の墓石を見ることができます。
現代への影響
科学と技術への貢献
ファラデーの発見は、現代文明の根幹を支えています。
電磁誘導の法則は、発電機、変圧器、電動機など、電気技術のすべての基盤となっています。火力発電所、水力発電所、原子力発電所、風力発電──どのような方法で発電しても、最終的には磁場の変化で電流を生み出すというファラデーの原理が使われているのです。
ベンゼンの発見は有機化学の発展に不可欠でした。プラスチック、医薬品、染料、合成繊維など、現代生活に欠かせない無数の製品がベンゼンを出発点として作られています。
ファラデーケージは電子機器の保護から航空機の安全対策まで、幅広く応用されています。
単位と定数に残る名前
ファラデーの名前は科学の基本単位にも残されています。
- ファラド(F):静電容量のSI単位
- ファラデー定数:1モルの電子の電荷に相当する物理定数
マクスウェルへの影響
ファラデーは優れた実験家でしたが、数学の知識は乏しく、自分の発見を数学的に定式化することができませんでした。
しかし、彼が考案した「電気力線」「磁力線」という概念は、後にジェームズ・クラーク・マクスウェルによって数学的理論に発展します。マクスウェルは「ファラデーは高水準の数学者にも匹敵する思考の持ち主であり、将来の数学者はファラデーの業績から様々な貴重な方法を引き出すことができるだろう」と述べています。
マクスウェルの方程式は電磁波の理論を完成させ、無線通信、レーダー、テレビ、Wi-Fiなど現代の通信技術の理論的基盤となりました。
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1791年 | 9月22日、ロンドン近郊のニューイントン・バッツで誕生 |
| 1804年 | 13歳で書店に就職、翌年から製本職人の見習いに |
| 1812年 | ハンフリー・デービーの講演を聴講 |
| 1813年 | 王立研究所の化学助手として採用 |
| 1813-15年 | デービーとともにヨーロッパ旅行 |
| 1820年 | 炭素と塩素の化合物を初めて合成 |
| 1821年 | 世界初の電動機を発明、サラ・バーナードと結婚 |
| 1823年 | 塩素の液化に成功 |
| 1824年 | 王立協会フェローに選出 |
| 1825年 | ベンゼンを発見、王立研究所実験室長に就任、クリスマス講演を創設 |
| 1831年 | 電磁誘導を発見、発電機の原型を発明 |
| 1832年 | 王立協会コプリー・メダル受賞 |
| 1833年 | 電気分解の法則を発見、フラー教授職に就任 |
| 1836年 | ファラデーケージを発明 |
| 1839年 | 神経衰弱により療養 |
| 1845年 | ファラデー効果と反磁性を発見 |
| 1858年 | ヴィクトリア女王よりハンプトンコートの住居を賜る |
| 1860-61年 | 最後のクリスマス講演『ロウソクの科学』 |
| 1867年 | 8月25日、75歳で死去 |
まとめ
マイケル・ファラデーは、正規の教育を受けることなく、独学で科学史上最も偉大な実験物理学者の一人となった人物です。
重要なポイント
- 1791年、ロンドンの貧しい鍛冶屋の家に生まれ、13歳から製本職人として働く
- 製本する書物を読んで科学に興味を持ち、ハンフリー・デービーの助手として王立研究所に採用される
- 1821年に世界初の電動機を発明
- 1825年にベンゼンを発見
- 1831年に電磁誘導を発見し、発電機の原型を発明
- 1833年に電気分解の法則を発見
- 1836年にファラデーケージを発明
- 1845年にファラデー効果と反磁性を発見
- 1825年に王立研究所クリスマス講演を創設し、科学教育に貢献
- 『ロウソクの科学』は現在も読み継がれる科学教育の古典
- 謙虚な人柄で知られ、爵位や名誉職を辞退
「自然は私たちの最も親切な友であり、最高の批評家である——もし私たちがその暗示を偏見なく受け入れるならば」
これはファラデー自身の言葉です。
彼は生涯を通じて、自然の声に謙虚に耳を傾け、膨大な実験を通じて真理を探究し続けました。その姿勢は現代の科学者たちにとっても模範となっています。
今日、私たちが当たり前のように使っている電気。その恩恵を受けるたびに、製本職人の見習いから身を起こし、人類の文明を変えた一人の科学者のことを思い出してみてください。


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