アレクサンドロス大王の死後、その広大な帝国をめぐって将軍たちが争った「ディアドコイ戦争(後継者戦争)」。
この血で血を洗う戦いの中で、ひときわ異彩を放つ人物がいました。
彼の名はエウメネス。マケドニア人ではなくギリシア人、しかも武人ではなく書記官出身という異色の経歴を持ちながら、歴戦の名将たちを相手に互角以上の戦いを繰り広げたんです。
この記事では、「祖国を追われた者」と呼ばれた知将エウメネスの生涯と功績について、分かりやすくご紹介します。
概要

エウメネスは、紀元前4世紀に活躍した古代ギリシアの人物です。
正式には「カルディアのエウメネス」と呼ばれ、マケドニア王フィリッポス2世とその息子アレクサンドロス大王に仕えました。もともとは王の側近として文書を管理する書記官という立場だったんですね。
しかし、アレクサンドロス大王が紀元前323年に急死すると、状況は一変します。
大王の遺した広大な帝国の支配権をめぐって、将軍たちによる「ディアドコイ戦争」が勃発。エウメネスは文官出身にもかかわらず軍を率いて参戦し、王家への忠誠を貫きながら戦い続けました。
最終的には味方の裏切りによって命を落としますが、その卓越した軍事的才能と知略は、敵味方を問わず高く評価されています。
偉業・功績
エウメネスの功績は、書記官という立場から一流の将軍へと成り上がったこと自体が挙げられます。
軍事面での活躍
ヘレスポントスの戦い(紀元前321年)
エウメネスの軍事的才能が最も輝いたのが、この戦いでしょう。
敵軍を率いていたのは、マケドニア人に絶大な人気を誇る名将クラテロス。エウメネスは兵力で劣っていましたが、優秀な騎兵を活かした戦術で見事に勝利を収めました。この戦いでクラテロスは戦死し、エウメネスは一躍その名を知られるようになります。
アンティゴノスとの死闘
その後、エウメネスは当時最強と言われた将軍アンティゴノスと何度も戦いました。
- パライタケネの戦い(紀元前316年):引き分けに終わったものの、戦術面ではエウメネスが優勢だったとされる
- ガビエネの戦い(紀元前316年):戦闘では勝利したが、味方の裏切りで敗北
特にガビエネの戦いでは、アンティゴノス軍の死者5000人以上に対し、エウメネス軍の死者はわずか300人ほど。戦術面では圧倒的な勝利でした。
外交・政治面での功績
エウメネスは軍事だけでなく、外交や政治でも手腕を発揮しています。
- 摂政ペルディッカスの信頼を得て帝国の統治評議会メンバーに昇格
- カッパドキア地方を平定し、太守として統治
- アルメニア地方の反乱を鎮圧
系譜・出生
エウメネスの出自については、はっきりとは分かっていない部分が多いんです。
出身地
エウメネスは、ケルソネソス半島(現在のトルコ領ゲリボル半島)にあった都市国家カルディアの出身でした。
ここで重要なのは、カルディアはマケドニア王国の領土ではなかったということ。つまりエウメネスは、マケドニア人ではなくギリシア人だったんですね。
家系と生い立ち
父親の名前はヒエロニュモスで、カルディアの有力市民だったとされています。
古代の伝記作家プルタルコスは、エウメネスのことを「祖国を追われた者」と記しました。何らかの事情でカルディアを離れ、マケドニアに身を寄せることになったようですが、その詳しい経緯は不明のままです。
一説によると、カルディアの僭主(せんしゅ:不正に権力を握った支配者)ヘカタイオスとの対立が原因で、故郷を追われたのではないかと考えられています。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | エウメネス(Eumenes) |
| 出身 | カルディア(現トルコ) |
| 生没年 | 紀元前362年?~紀元前316年 |
| 地位 | 書記官 → 騎兵指揮官 → カッパドキア太守 |
姿・見た目
残念ながら、エウメネスの容姿について詳しく記した資料はほとんど残っていません。
古代の記録から推測できること
プルタルコスの記述によると、エウメネスは「親しみやすい外見」をしていたとされています。
ノラの要塞に籠城していた際、狭い城内で兵士たちの士気を保つために、自ら兵士たちと交流していたエピソードがあります。その時に「友好的な見た目」が役立ったと記されているんです。
書記官としての印象
エウメネスは長年、書記官として王に仕えていました。そのため、武骨な武将たちとは異なる、知的で洗練された雰囲気を持っていたと考えられます。
実際、一部の将軍たちからは「ペンで王に仕えてきた男」と軽んじられることもあったようです。
特徴
エウメネスには、他の後継者たちとは一線を画す特徴がいくつかありました。
知略に優れた戦術家
エウメネスの最大の特徴は、その頭脳明晰さです。
正面からの力押しではなく、巧みな計略や心理戦を駆使して戦いました。
具体的なエピソード:
- 偽情報の活用:敵に偽の脱走兵を送り込み、夜襲を仕掛けると思わせて足止めする
- 火計:砂漠を通って奇襲をかけようとした敵に対し、山中で大量の火を焚いて大軍がいるように見せかけた
- 借金作戦:部下の将校たちから意図的に大金を借り、裏切りにくくさせた
王家への忠誠心
後継者戦争に参加した将軍たちの多くは、自分が王になることを目指していました。
しかしエウメネスは違いました。彼は一貫して、アレクサンドロス大王の血筋であるアルゲアス王家への忠誠を掲げ続けたんです。
会議の場にアレクサンドロス大王の玉座を置き、「御前会議」の形式をとることで、自分はあくまで王家の代理人であることを示しました。
弱点:よそ者であること
エウメネスの最大の弱点は、マケドニア人ではないことでした。
- 王家との血縁関係がない
- 貴族の生まれでもない
- そもそもマケドニア人ですらない
このため、どれだけ功績を挙げても、マケドニア人の部下たちから完全な信頼を得ることは難しかったのです。
伝承
エウメネスにまつわる逸話や伝説は、古代の歴史書にいくつも残されています。
「アレクサンドロスの夢」
エウメネスが兵士たちの忠誠を得るために用いた有名な逸話があります。
彼は「アレクサンドロス大王が夢に現れ、すべての戦いに共にいると告げた」と兵士たちに語りました。さらに、大王の玉座・王冠・王笏を置いた天幕を設け、重要な会議はすべてそこで行ったんです。
これにより、マケドニア人の兵士たちは「ギリシア人の外国人」ではなく「亡き大王の意志」に従っているのだと感じることができました。
最期の言葉
銀楯隊(ぎんじゅんたい:アレクサンドロス大王の精鋭親衛隊)に裏切られ、敵将アンティゴノスに引き渡される際、エウメネスは兵士たちに向かってこう語ったとされています。
「私は敵には勝ったが、味方に滅ぼされた」
そして、自分を殺すなら味方の手で殺してほしいと頼みましたが、兵士たちはこれを拒否しました。
アンティゴノスとの友情
敵として戦ったアンティゴノスでしたが、実はエウメネスとは古い友人でした。
エウメネスを捕らえた後、アンティゴノスは彼を自分の配下に加えようとしました。しかし、何度もエウメネスに痛い目に遭わされてきた部下たちが猛反対。最終的にエウメネスは処刑されることになりますが、アンティゴノスは盛大な葬儀を行い、遺骨を妻子のもとへ届けたと伝えられています。
出典・起源
エウメネスについて私たちが知っている情報は、古代の歴史家や伝記作家たちの著作に基づいています。
主要な史料
プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』
1世紀のギリシア人著述家プルタルコスは、エウメネスの伝記を執筆しました。この中でエウメネスは、ローマの反乱将軍セルトリウスと対比されています。どちらも祖国から追われ、異国で才能を発揮しながらも悲劇的な最期を迎えた人物として描かれているんです。
コルネリウス・ネポス『英雄伝』
紀元前1世紀のローマの伝記作家ネポスも、エウメネスの伝記を残しています。ネポスによれば、エウメネスの存命中は誰も王を名乗ろうとしなかったが、彼が死ぬと将軍たちは本性を現したといいます。
ディオドロス・シクルス『歴史叢書』
1世紀のギリシア人歴史家ディオドロスの著作にも、後継者戦争とエウメネスの活躍が詳しく記されています。
現代の創作
岩明均による漫画『ヒストリエ』は、エウメネスを主人公とした歴史漫画です。史実と創作を交えながら、彼の生涯が生き生きと描かれています。
まとめ
エウメネスは、逆境の中で知略を武器に戦い続けた古代ギリシアの知将です。
重要なポイント
- カルディア出身のギリシア人で、マケドニア王に書記官として仕えた
- アレクサンドロス大王の死後、後継者戦争に参戦して軍事的才能を発揮
- ヘレスポントスの戦いで名将クラテロスを破り、一躍その名を知られた
- 王家への忠誠を貫き、大王の玉座を用いた「御前会議」で求心力を維持
- 最強の将軍アンティゴノスと互角以上に戦ったが、銀楯隊の裏切りにより敗北
- 紀元前316年に処刑されたが、敵将アンティゴノスによって丁重に弔われた
- 漫画『ヒストリエ』の主人公として、現代でも人気を集めている
マケドニア人ではないという致命的なハンデを背負いながら、知略と忠誠心で後継者戦争を戦い抜いたエウメネス。彼の死は、アレクサンドロス大王の帝国が完全に分裂する転換点となりました。
「祖国を追われた者」は、最後まで新たな祖国のために戦い続けたのです。


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