古い図書館の奥深くに、鉄の表紙で閉じられた黒い本があったとしたら、あなたは開いてみたいと思いますか?
その本には、人間が知ってはならない秘密や、恐ろしい存在を呼び出す呪文が書かれているかもしれません。
クトゥルフ神話の世界には、そんな危険な魔道書がいくつも登場します。その中でも特に有名なのが「妖蛆の秘密」なんです。
この記事では、クトゥルフ神話を代表する禁断の書「妖蛆の秘密」について、その内容や著者、創作の背景まで詳しくご紹介します。
概要
妖蛆の秘密(ようしゅのひみつ)は、クトゥルフ神話作品に登場する架空の魔道書です。
原題はラテン語で「デ・ウェルミス・ミステリイス」(De Vermis Mysteriis)といい、英語では「Mysteries of the Worm」(虫の神秘)と訳されます。
この魔道書を創造したのは、アメリカの作家ロバート・ブロック。初めて登場したのは1935年5月、雑誌『ウィアード・テイルズ』に掲載された短編小説「納骨所の秘密」でした。
クトゥルフ神話の創始者H.P.ラヴクラフトが創った「ネクロノミコン」に相当する、ブロックが生み出した代表的な魔道書として知られています。
その後、ラヴクラフト自身の作品にも登場し、多くの作家たちがこの禁断の書を自分の作品に取り入れてきました。
書物の外見
妖蛆の秘密の初版本は、見るからに不気味で重厚な外観をしていたといいます。
初版本の特徴
- 表紙:鉄製の黒い表紙
- サイズ:分厚い大型本
- 版型:ゴシック体の二つ折判型
- 出版地:ドイツのケルン
- 出版年:1542年
鉄の表紙というのは、普通の本では考えられない重厚さですよね。まるで、中に書かれた危険な内容を封じ込めるかのようです。
初版本は出版後すぐに教会から発禁処分を受けました。その後、内容を大幅に削除した検閲済み版が出版されましたが、こちらは資料的価値が低いとされています。
1820年には、チャールズ・レゲットという人物が初版本を基にした英語版を翻訳・刊行したという設定もあります。
現在、初版本は世界に15部しか現存せず、そのうちの1部は架空の大学「ミスカトニック大学附属図書館」に所蔵されているんです。
内容・特徴
妖蛆の秘密には、一体どんな恐ろしい知識が書かれているのでしょうか。
記されている主な内容
この魔道書は16の章から構成されており、以下のような禁断の知識が含まれています。
- 古代エジプトの異端的な伝承:正史からは消された邪神たちの記録
- サラセン人の儀式:中東で伝わる魔術や召喚の方法
- 蛇神の伝説:父なるイグ、暗きハン、蛇の髪を持つバイアティスなど
- 使い魔の召喚方法:「星から訪れたもの」と呼ばれる生物を呼び出す呪文
- 遁丹の製法:幻覚をもたらす薬物の作り方
特に重要なのが「サラセン人の儀式」という章です。
ここには、古代エジプトの神々について詳しく書かれています。よく知られているセベク(鰐神)、ブバスティス(猫神)、アヌビスといった神々だけでなく、歴史から抹消された邪神たちについても記述があるんです。
登場する邪神たち
- ネフレン=カ:暗黒のファラオと呼ばれる、エジプト史から消された王
- ニャルラトホテプ:エジプト最古の神として描かれる混沌の化身
- アザトース:一部の設定では、その召喚方法まで記されている
恐ろしいことに、これらの存在を呼び出す具体的な呪文まで書かれているといいます。
実際、ブロックの短編「星から訪れたもの」では、この本から呪文を読み上げた登場人物が異次元の怪物を召喚してしまい、悲劇的な結末を迎えるんです。
著者プリンの伝説
妖蛆の秘密を書いたとされるのは、ルートヴィヒ・プリン(Ludwig Prinn)という謎多き人物です。
プリンの経歴
プリンはフランドル出身(現在のベルギー周辺)の錬金術師で、降霊術師、魔術師としても知られていました。
最も興味深いのは、彼が「第九回十字軍の唯一の生き残り」を自称していたことです。
第九回十字軍は1271年に行われた遠征で、この時プリンはシリアで捕虜となりました。そこで「シリアの魔術師や奇術師たち」から禁断の魔術を学んだといわれています。
さらに、エジプトのアレクサンドリアでも不思議な業を行ったという伝説が残っており、リビアの托鉢僧たちの間で語り継がれているそうです。
異端審問と処刑
長い年月を経て、プリンは「奇跡的な年齢」に達したと豪語していました。実際に400歳以上生きたという説もあるほどです。
晩年のプリンは、ブリュッセル近くの森にある前ローマ時代の墓の廃墟に隠遁生活を送っていました。
その周囲には常に「使い魔の群れ」や「恐ろしい召喚物」がうごめいており、森の暗い谷間にある古代の異教徒の祭壇には、新しい血痕が絶えなかったといいます。
1541年、ベルギー国内で魔女狩りの嵐が吹き荒れると、プリンもブリュッセルの異端審問所に引き出されました。
宗教裁判で有罪判決を受け、火刑が確定。しかし、彼は処刑される直前まで諦めませんでした。
牢獄の中で、プリンは自分が学んだすべての禁断の知識を1冊の本にまとめ上げたのです。それが「妖蛆の秘密」でした。
プリンの死後、1542年にこの書物はケルンで出版されることになります。
創作の背景
妖蛆の秘密が生まれた背景には、二人の偉大な作家の友情がありました。
ブロックとラヴクラフトの交流
1935年、当時まだ10代だったロバート・ブロックは、クトゥルフ神話の創始者H.P.ラヴクラフトと文通していました。
ブロックは短編小説「星から訪れたもの」を執筆中で、物語の中でラヴクラフトをモデルにした登場人物を登場させる予定でした。しかも、その人物を怪物に殺されるという役どころだったんです。
礼儀正しいブロックは、事前にラヴクラフトに許可を求める手紙を送りました。
すると、ラヴクラフトは快く承諾しただけでなく、ブロックが作中で使う魔道書のためにラテン語の呪文まで提供してくれたのです。
「Tibi, magnum Innominandum, signa stellarum nigrarum et bufoniformis Sadoquae sigillum」
(訳:汝、偉大なる名付けられざるもの、黒き星々のしるしと、蟾蜍の形をしたツァトゥグァの封印よ)
ラテン語の書名の誕生
さらに、ラヴクラフトはこの魔道書に相応しいラテン語の書名も考案しました。それが「De Vermis Mysteriis」です。
その後、ラヴクラフト自身もこの魔道書を気に入り、自作の「時間からの影」(1936年)や「闇をさまようもの」(1937年)に登場させました。
こうして、妖蛆の秘密はクトゥルフ神話の重要なアイテムとして定着していったんですね。
様々な作家による使用
妖蛆の秘密は、その後も多くの作家たちに愛用されています。
主な登場作品
- ヘンリー・カットナー:「狩りたてるもの」(1939年)
- ラムジー・キャンベル:「城の部屋」(1964年)
- スティーブン・キング:「呪われた村」(1967年)、「心霊電流」(2014年)
- ブライアン・ラムレイ:「地を穿つ魔」(1975年)、「妖蛆の王」(1983年)
日本の作家でも、朝松健の「ギガントマキア1945」(1998年)や松殿理央の「蛇蜜」(2002年)に登場しています。
日本語訳の秘密
「妖蛆の秘密」という日本語訳には、面白い歴史があります。
「妖蛆」という訳語の誕生
この独特な訳語を考案したのは、博物学者で作家の荒俣宏さんです。
1972年に刊行された創土社版『ラヴクラフト全集』第1巻に収録された「闇に這う者」で、荒俣さんが初めて「妖蛆の秘密」という訳語を使用しました。
それまでは「虫の神秘」などの訳語が使われていましたが、荒俣訳のインパクトの強さから、以後多くの翻訳者がこの訳語を採用するようになったんです。
「ようしゅ」という読み方の由来
実は「蛆」という漢字の音読みは本来「ソ」や「ショ」なので、素直に読めば「ようそのひみつ」となるはずです。
では、なぜ「ようしゅ」と読むようになったのでしょうか。
その答えは、別の作品にありました。
1976年刊行の『クトゥル・リトル神話集』に、C・A・スミスの作品「白蛆の襲来」が収録されていました。翻訳者の高木国寿さんは、これに「びゃくしゅのしゅうらい」というルビを振ったんです。
「白蛆(びゃくしゅ)」は実際に存在する雅語的な表現で、その禍々しい響きが神話作品にぴったりだったわけですね。
これを受けて、翻訳家の大瀧啓裕さんが1982年、青心社の『クトゥルーⅢ』収録の「ビリントンの森」で初めて「ようしゅのひみつ」というルビを使用しました。
以後、大瀧さんが手掛けた東京創元社の『ラヴクラフト全集』や青心社の『クトゥルー』シリーズを通じて、この読み方が広まっていったのです。
まとめ
妖蛆の秘密は、クトゥルフ神話を代表する禁断の魔道書です。
重要なポイント
- ロバート・ブロックが1935年に創造した架空の魔道書
- 著者は第九回十字軍の生き残りを自称する錬金術師プリン
- 1542年ケルンで出版され、すぐに発禁処分を受けた設定
- 古代エジプトの異端的な伝承や禁断の召喚術が記されている
- H.P.ラヴクラフトとの交流から生まれた作品
- 「妖蛆の秘密」は荒俣宏による訳語、「ようしゅ」は大瀧啓裕が考案した読み方
- 多くの作家が自作に取り入れ、神話世界を豊かにしている
現実世界には存在しない書物ですが、その設定の作り込みの深さと、作家たちによる共同作業によって、まるで本当に存在するかのような存在感を持つようになりました。
もしあなたが古書店で鉄の表紙の黒い本を見つけても、決して開いてはいけません。それは本当に妖蛆の秘密かもしれませんから。


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