伊達政宗とは?独眼竜と呼ばれた戦国最後の英雄の生涯

神話・歴史・文化

「あと20年早く生まれていれば、天下を取れた」——。
そんな惜しまれ方をする戦国武将がいます。

伊達政宗です。
右目を失った「独眼竜」の異名で知られ、東北を制した英雄。
仙台の街を築き、遠くヨーロッパにまで使節を送った野心家。

この記事では、伊達政宗の波乱に満ちた70年の生涯を追っていきます。

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伊達政宗とは?

伊達政宗は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
仙台藩の初代藩主として知られ、東北の発展に大きく貢献しました。

幼い頃に天然痘で右目を失いましたが、それを逆手にとって「独眼竜」の異名で恐れられました。
18歳で家督を継ぎ、わずか2年で東北の覇者に。

豊臣秀吉や徳川家康といった天下人と渡り合いながら、乱世を生き抜いた人物です。

伊達政宗の生涯

誕生と幼少期

1567年(永禄10年)9月5日。
伊達政宗は、現在の山形県米沢市にあった米沢城で生まれました。

父は伊達氏16代当主の伊達輝宗。
母は最上義守の娘・義姫。
まさに東北の名家に生まれたサラブレッドでした。

幼名は梵天丸。
5歳の頃、天然痘にかかって右目を失明します。

母・義姫は、右目を失った政宗を疎んじるようになり、次男の小次郎ばかりを可愛がったと伝えられています。
内気になった政宗を救ったのが、父が招いた禅僧・虎哉宗乙でした。

虎哉宗乙の教育を受けた政宗は、学問と武芸に秀で、やがて戦国の世を生き抜く力を身につけていきます。

家督相続と父の死

1577年、11歳で元服。
1584年、18歳で家督を相続し、伊達家第17代当主となりました。

ところが翌1585年、悲劇が起こります。
隣国の畠山義継が、父・輝宗を拉致したのです。

政宗は父を救おうと追跡しましたが、輝宗は「構わず撃て!」と叫びました。
政宗の命令で、伊達軍は敵もろとも父を射殺。

この冷酷な決断が、伊達政宗の名を東北中に知らしめることになります。

摺上原の戦いと東北制覇

1589年、政宗最大の戦いが訪れます。
摺上原の戦いです。

相手は東北の強豪・蘆名氏。
政宗は見事に勝利し、会津を手に入れました。

このとき政宗が支配した領地は110万石とも言われ、東北最大の勢力となります。
しかし、時代は天下統一へと向かっていました。

豊臣秀吉との対峙

ちょうどその頃、豊臣秀吉が全国統一を進めていました。
1590年、秀吉は小田原の北条氏を攻めるため、全国の大名に参陣を命じます。

政宗も呼ばれましたが、遅刻してしまいました。
秀吉は激怒。

政宗は死装束の白装束を着て、秀吉の前に現れます。
「いつでも首を差し出す覚悟です」

その度胸に秀吉は感心し、許しました。
ただし、領地の一部を没収され、秀吉の家臣となることを強いられます。

天下統一の夢は、ここで一度潰えました。

徳川家康との関係

秀吉の死後、政宗は徳川家康に接近します。
1600年の関ヶ原の戦いでは、東軍(徳川方)として戦いました。

家康は勝利し、江戸幕府を開きます。
政宗は仙台藩62万石を与えられ、藩主となりました。

1604年、政宗は仙台城を築き、城下町の整備を始めます。
新田開発や治水工事に力を入れ、仙台を大都市へと発展させました。

慶長遣欧使節

1613年、政宗は驚くべき計画を実行します。
家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣したのです。

目的は、スペインとの貿易、そしてローマ教皇への謁見。
一行は太平洋を横断し、メキシコを経由してスペイン、そしてローマへ。

支倉常長はローマ教皇パウロ5世に謁見し、ローマ市民権まで授与されました。
しかし、肝心の貿易交渉は成功せず。

日本では徳川幕府がキリスト教を禁止し始めていたため、使節は失意のうちに1620年に帰国しました。

晩年と死

1615年の大坂の陣を最後に、政宗の戦いの日々は終わりました。

その後は徳川幕府の重臣として、3代将軍・徳川家光に仕えます。
家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕っていました。

1634年頃から、政宗は食欲不振や嚥下困難に悩まされるようになります。
1636年4月、参勤交代で江戸に向かった政宗は、体調を崩します。

江戸に着いた頃には、もう食事もとれない状態でした。
家光が見舞いに訪れたとき、政宗は杖をついて休み休み歩く有様でした。

1636年6月27日(寛永13年5月24日)。
伊達政宗は、江戸の伊達家上屋敷で息を引き取りました。
享年70歳。

死因は食道がんまたは癌性腹膜炎と考えられています。

辞世の句

政宗は死に際して、こう詠みました。

「曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」

先の見えない戦国の世を、自分の信念だけを頼りに生きてきた。
そんな政宗らしい、堂々とした辞世の句です。

遺体は仙台に運ばれ、瑞鳳殿に埋葬されました。

伊達政宗の家系

伊達氏は鎌倉時代から続く名門です。
伊達家初代は、源頼朝から陸奥国伊達郡を与えられた伊達朝宗。

政宗の父は伊達輝宗、母は最上義守の娘・義姫。
母方の伯父が、あの最上義光です。

政宗は13歳で田村清顕の娘・愛姫を正室に迎えます。
愛姫との間には4人の子供が生まれました。

長男は伊達秀宗(宇和島藩初代藩主)。
次男は伊達忠宗(仙台藩2代藩主)。

伊達家は幕末まで続き、現在も子孫が残っています。

伊達政宗の姿

政宗の身長は159.4cmと言われています。
現代からすれば小柄ですが、当時の平均身長です。

最大の特徴は、右目を失った「隻眼」。
この見た目から「独眼竜」と呼ばれました。

戦場では、三日月の前立てがついた兜をかぶっていました。
この兜は非常に有名で、政宗の象徴となっています。

黒い鎧に金の装飾。
政宗の軍勢は派手な格好で知られ、「伊達者」という言葉の由来になったという説もあります(俗説ですが)。

伊達政宗の特徴

野心家

政宗の最大の特徴は、その果てしない野心です。

秀吉の天下が確立した後も、政宗は天下取りの夢を諦めませんでした。
一揆を煽動して領地を広げようとしたり、ヨーロッパに使節を送ったり。

徳川家康からは常に「あいつは危ない」と警戒されていました。
それでも政宗は、巧みな処世術で生き延びます。

文化人

政宗は武人であると同時に、優れた文化人でもありました。

茶道、和歌、書道、能楽——。
幅広い教養を持ち、当時の京都文化にも精通していました。

料理にも造詣が深く、政宗の名言には「食」に関するものが多く残っています。

「馳走とは旬の品をさりげなく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」

おもてなしの心を説いた、現代にも通じる言葉です。

情報戦の達人

政宗の真骨頂は、情報収集と分析能力でした。

スパイや忍者を使って情報を集め、冷静に情勢を判断。
どんな危機的状況でも、最善の選択をし続けました。

父の拉致事件でも、小田原遅参事件でも、政宗は生き残るための決断を下しています。

伊達政宗の名言

政宗は多くの名言を残しています。

「仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎればへつらいになる。知に過ぎれば嘘を吐く。信に過ぎれば損をする」

何事もバランスが大切だという教え。

「物事、小事より大事は発するものなり。油断するべからず」

小さなことを疎かにするなという戒め。

「この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし」

人生は旅。だから辛いことがあっても仕方ない。
そんな達観した人生観が表れています。

まとめ

伊達政宗は、戦国最後の英雄でした。

  • 1567年、米沢城に生まれる
  • 幼少期に天然痘で右目を失明
  • 18歳で家督を相続、2年で東北を制覇
  • 豊臣秀吉に臣従するも、野心を捨てず
  • 関ヶ原の戦いで徳川方につき、仙台藩主に
  • 1613年、ヨーロッパに使節を派遣
  • 1636年、70歳で死去

「もう少し早く生まれていれば」——そう惜しまれる才能。
しかし、遅れて生まれたからこそ、政宗は仙台という永続する遺産を残せました。

独眼竜・伊達政宗。
その生き様は、今も多くの人々を魅了し続けています。

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