あなたは修行中に、突然美しい人が現れて「そんな苦しい修行はやめて、楽しく暮らしましょう」と誘ってきたら、どうしますか?
仏教の世界では、このような誘惑こそが、天魔(てんま)という存在の仕業だと考えられてきました。
天魔は、人々が悟りを開くことを何よりも恐れ、あらゆる手段で修行を妨害しようとする恐ろしい魔王なんです。
この記事では、仏教における最大の障害とされる「天魔(第六天魔王)」について、その正体や特徴、お釈迦様との戦いの物語を分かりやすくご紹介します。
概要

天魔(てんま)は、仏道修行を妨げる悪魔の王として知られています。
正式には第六天魔王(だいろくてんまおう)、あるいはサンスクリット語で波旬(はじゅん)と呼ばれる存在です。
仏教の世界観では、この宇宙は「六道(ろくどう)」という6つの世界に分かれています。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、そして天道の6つですね。天魔が住むのは、この中で最も高い位置にある天道、さらにその中でも最上位の「他化自在天(たけじざいてん)」という場所なんです。
「他化自在天」という名前には、ちょっと不気味な意味が込められています。他人の楽しみや幸せを奪い取って、それを自分の楽しみに変えてしまう天界、という意味なんですね。
天魔の最大の目的は、人々が仏道修行によって悟りを開き、六道輪廻から解脱することを阻止することです。なぜなら、人々が悟りを開いて欲望から離れてしまうと、天魔自身の楽しみや権力が失われてしまうからなんです。
姿・見た目
天魔の姿は、実は一つに定まっていません。
最も恐ろしいのは、自在に姿を変えられるという点なんです。
様々な姿に化ける
天魔は目的に応じて、次のような姿に変身します。
- 大蛇の姿:巨大な蛇となって、修行者に襲いかかる
- 僧侶や聖者の姿:立派なお坊さんに化けて、間違った教えを説く
- 美しい女性の姿:魅惑的な魔女となって修行者を誘惑する
- 仏菩薩の姿:時には仏様そのものに化けることもある
お釈迦様を誘惑しようとした時には、天魔は自分の3人の娘を送り込みました。彼女たちの名前は、愛欲(あいよく)、楽欲(らくよく)、貪欲(とんよく)といい、それ�れ欲望を象徴する存在だったんですね。
魔軍を率いる王
天魔は一人で行動するだけでなく、無数の魔の軍勢を従えています。
毒を持つ虫や怪獣、恐ろしい武器を持った魔物たちを引き連れて、修行者を脅かすこともあります。
特徴
天魔には、他の悪魔とは違う独特の特徴があります。
仏道を妨げる使命
天魔の最大の特徴は、人々が悟りを開くことを阻止するという明確な使命を持っていることです。
単なるいたずら好きな妖怪ではなく、仏教そのものを滅ぼそうとする強い意志を持った存在なんですね。
巧妙な手口
天魔の妨害方法は実に巧妙です。
- 誘惑:快楽や富、名声で修行者の心を惑わす
- 脅迫:恐怖心を植え付けて修行を諦めさせる
- 偽装:正しい教えに見せかけた間違った教えを広める
- 疑心:「本当に悟りなんて開けるのだろうか」という疑いの心を生じさせる
『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経には、天魔がお釈迦様や僧侶、聖者のふりをして、矛盾する教えを説くという恐ろしい記述があります。つまり、正しい仏教と見分けがつかないような巧妙な偽物を作り出すんですね。
天界の支配者としての力
天魔は欲界六欲天(よくかいろくよくてん)の最高位に君臨する強大な力を持っています。
過去世で善行を積んだ功徳により天界の王となりましたが、その地位を守るために、人々の解脱を妨げるという皮肉な存在なんです。
伝承:お釈迦様との戦い

天魔の物語で最も有名なのが、お釈迦様(シッダールタ太子)が悟りを開こうとした時の妨害事件です。
魔女による誘惑
シッダールタ太子が菩提樹の下で深い瞑想に入り、まさに悟りを開こうとしていた時、天魔は大きな危機感を抱きました。
「このままでは、この人が悟りを開いて、多くの人々を導いてしまう。そうなれば私の王国は終わりだ」
そこで天魔は、まず3人の美しい娘たちを送り込みました。娘たちは艶やかな姿で太子の前に現れ、あらゆる魅惑的な仕草で誘惑しようとしました。
しかし、太子は深い瞑想の中にあり、まったく心を動かされません。それどころか、太子は娘たちにこう告げたんです。
「あなたたちの姿は美しいかもしれないが、心は醜い。まるで美しい琉璃(るり)の瓶に汚物を詰め込んだようなものだ」
すると、魔女たちは自分たちの本当の姿—骸骨や腐敗した肉体—を見てしまい、恥じて逃げ去ったと伝えられています。
魔軍による攻撃
誘惑に失敗した天魔は、今度は力づくで太子を屈服させようとしました。
無数の魔物、毒虫、怪獣を引き連れ、毒の矢や恐ろしい武器を手に、太子の座る場所を取り囲んだんです。
「今すぐ修行をやめて宮殿に戻れ!さもなければ、お前を粉々にしてやる!」
天魔は凄まじい脅しをかけましたが、太子は微動だにしませんでした。刀や矢が放たれても、太子の身体から発する清らかな光に触れると、すべて地面に落ちてしまいます。
そのとき、空から雷鳴のような音が響き、護法の神々が現れて魔軍を追い散らしました。
悟りの成就
こうして一夜の戦いを経て、シッダールタ太子はついに悟りを開き、釈迦牟尼仏(お釈迦様)となられたんです。
天魔の必死の妨害も、揺るぎない決意の前には無力だったわけですね。
その後:悪から善への転換
実は、天魔の物語にはもう一つ、あまり知られていない側面があります。
仏法の守護者となった天魔
複数の仏教経典には、天魔が最終的には仏法を守護する存在になったという記述があるんです。
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』では、お釈迦様が入滅(亡くなること)される直前に、天魔波旬が現れて改心する場面が描かれています。
天魔は、お釈迦様の力で地獄の門を開き、そこで苦しむ者たちに清らかな水を与え、苦しみを取り除きました。そして、仏陀の足元にひれ伏して、こう誓ったんです。
「私はこれからは、大乗仏教とその信者を守護します」
天魔は真言(しんごん)という呪文を捧げ、正しい教えを守る者を護ると約束しました。
地獄での償いと成仏
『大悲経(だいひきょう)』には、さらに興味深い記述があります。
天魔は、自分の寿命が尽きる時、五衰(ごすい)という5つの衰えの兆しが現れて、大きな恐怖を感じます。五衰とは、天人が死ぬ前に現れる次のような兆候のことです。
- 頭の飾りが萎んでくる
- 衣服が汚れてくる
- 脇の下から汗が出る
- 身体から悪臭がする
- 自分の居場所を楽しめなくなる
こうして天魔は死後、阿鼻地獄(あびじごく)という最も深い地獄に落ち、長い間苦しみを受けることになります。
しかし、この苦しみの中で深く懺悔(ざんげ)し、やがて天界に生まれ変わり、仏法に帰依して修行を積み、最終的には仏となると予言されているんです。
つまり、最大の悪魔であった天魔も、最終的には救済される可能性を持っているということなんですね。これは仏教の深い慈悲の教えを表しているといえます。
日本での天魔伝承

天魔の考え方は、日本の仏教にも大きな影響を与えました。
日蓮と天魔
鎌倉時代の僧侶・日蓮(にちれん)は、法華経(ほけきょう)の教えを広める中で、天魔について独自の解釈を示しました。
日蓮によれば、法華経を信じて修行する者には、必ず第六天魔王が障害をもたらすといいます。しかし、それは決して悪いことではないんです。
なぜなら、その障害に負けずに信心を貫くことで、過去世からの悪い業(カルマ)が軽くなり、さらに大きな功徳を積むことができるからです。これを「転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)」、つまり重い罰を軽く受けるという意味で説明しています。
さらに日蓮は、純粋に法華経を信じる者の前では、天魔もやがては味方になると説きました。日蓮が描いた法華経の曼荼羅(まんだら)には、実際に第六天魔王も描かれているんですね。
伊勢神宮と天魔の盟約
日本には、伊勢神宮の祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)と第六天魔王が約束を交わしたという興味深い伝説があります。
鎌倉時代の書物『沙石集(しゃせきしゅう)』によると、こんな話が伝えられています。
昔、日本がまだできる前、大海の底に仏教の真言が沈んでいました。天照大御神が鉾でそれを探り当てようとした時、第六天魔王が遠くからそれを見て、「このままでは日本に仏教が広まり、人々が悟りを開いてしまう」と心配して降りてきました。
そこで天照大御神は魔王と会見し、こう約束したんです。
「私は仏・法・僧の三宝の名を口にしません。身にも近づけません。どうか天上にお帰りください」
この約束により、魔王は天に戻りました。それ以来、伊勢神宮では表向きは仏教と距離を置くようにしているけれど、実は内心では仏法を深く守護している、というわけです。
この話は、日本における神仏習合(しんぶつしゅうごう)の複雑な歴史を物語る興味深い伝説なんですね。
織田信長と第六天魔王
戦国時代には、あの有名な織田信長が「第六天魔王」を名乗ったという伝説があります。
1572年、武田信玄が京都に向かう際に信長に送った手紙に対して、信長が「第六天魔王信長」と署名したというんですね。
これは、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたり、石山本願寺を包囲したりと、数多くの仏教勢力と敵対したことから、仏教界の人々が彼を「仏法を滅ぼそうとする魔王」として恐れたことに由来すると考えられています。
ただし、この話の史実性については議論があり、後世の創作である可能性も指摘されています。
まとめ
天魔(第六天魔王)は、仏道修行を妨げる最大の障害として恐れられてきた存在です。
重要なポイント
- 正式名称:第六天魔王、波旬(はじゅん)
- 住処:欲界の最高位である他化自在天(第六天)
- 目的:人々が悟りを開くことを阻止し、欲界の支配を守ること
- 手段:誘惑、脅迫、偽装など、あらゆる手段で修行を妨害
- 最大の戦い:お釈迦様が悟りを開く際に全力で妨害したが失敗
- 転換:最終的には仏法を守護する存在へと変わる
- 日本の伝承:日蓮の教えや伊勢神宮の伝説、織田信長との関連など
天魔は単なる悪役ではなく、仏教における「煩悩(ぼんのう)」や「執着」の象徴でもあります。
私たちが日々感じる誘惑や、修行を続けることの難しさ、そうした内面の葛藤を、天魔という存在に投影して表現したともいえるんですね。
そして最も重要なのは、どんなに強大な魔王であっても、揺るぎない信念と正しい修行によって乗り越えられる、という希望のメッセージが込められていることでしょう。


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