「女性だから」という理由で大学に入れない時代、それでも科学への情熱を捨てなかった女性がいました。
彼女の名はマリー・キュリー。ノーベル賞を2度も受賞し、「放射能」という言葉を生み出した伝説の科学者です。
華やかな栄光の裏には、貧困との戦い、愛する夫の突然の死、そして科学界からの差別という数々の困難がありました。それでも彼女は研究を続け、最後は自らの発見した放射線によって命を落とすことになります。
この記事では、科学史上最も偉大な女性科学者の一人「キュリー夫人」について、その波乱に満ちた生涯と偉業を詳しくご紹介します。
概要
マリー・キュリー(1867-1934)は、ポーランド出身の物理学者・化学者です。
本名はマリア・サロメア・スクウォドフスカ。結婚後はフランス語風に「マリ・キュリー」と名乗り、日本では「キュリー夫人」という呼び名で広く知られています。
彼女が成し遂げた「初めて」の数々は驚くべきものがあります。
キュリー夫人が打ち立てた記録
- 女性初のノーベル賞受賞者(1903年、物理学賞)
- 史上初の2度のノーベル賞受賞者(1903年物理学賞、1911年化学賞)
- 物理学賞と化学賞の両方を受賞した唯一の人物(2025年現在も)
- パリ大学(ソルボンヌ)初の女性教授(1906年)
- フランス医学アカデミー初の女性会員(1922年)
- 自らの功績でパンテオン(フランスの偉人廟)に埋葬された初の女性(1995年)
「放射能(radioactivity)」という言葉を考案したのも彼女です。この概念は、原子が分割不可能な最小単位であるという当時の常識を覆し、20世紀の物理学・化学の扉を開くことになりました。
幼少期と青春時代──抑圧された祖国で
ワルシャワでの誕生
1867年11月7日、マリア・スクウォドフスカは現在のポーランドの首都ワルシャワで生まれました。
当時のポーランドはロシア帝国の支配下にあり、独立国としては存在していませんでした。ポーランド語を話すことさえ制限され、学校ではロシア語での教育が強制されていた時代です。
マリアは5人きょうだいの末っ子として、教育者一家に生まれました。父ヴワディスワフは数学と物理学の教師、母ブロニスワヴァは女子寄宿学校の校長を務めていました。
しかし、一家の暮らしは決して楽ではありませんでした。両親はポーランド独立運動に関わっていたため、ロシア当局から目をつけられていたのです。父は「親ポーランド的な態度」を理由に教職を追われ、一家は次第に困窮していきました。
悲劇の連続
幼いマリアを、立て続けに悲劇が襲います。
10歳のとき、最も仲の良かった姉ゾフィアが腸チフスで亡くなりました。そのわずか2年後、母ブロニスワヴァが結核で世を去ります。42歳という若さでした。
母の死について、マリアは後年こう語っています。
「この喪失は私の子ども時代の最初の大きな悲しみであり、暗い穴に落ち込んだような気持ちでした」
それでも彼女は勉学を続け、1883年に女子高等学校を首席で卒業。金メダルを授与されましたが、その授与式でロシアの教育当局者と握手しなければならないことに、深い屈辱を感じたといいます。
秘密の大学「フライング・ユニバーシティ」
当時のポーランドでは、女性が大学に入学することは許されていませんでした。
1863年、ロシア帝国教育省は各大学に対し、女性の入学を明確に禁止する通達を出していたのです。これはポーランドに限らず、当時のヨーロッパではほぼ共通した状況でした。
しかし、マリアは学びを諦めませんでした。彼女が見つけたのは「フライング・ユニバーシティ(飛行大学)」と呼ばれる秘密の教育機関です。
この組織は1882年にワルシャワで始まり、個人宅を転々としながら授業を行っていました。当局の目を逃れるために場所を「飛び回る」ことから、この名前がついたのです。
フライング・ユニバーシティでは、ポーランド語での授業が行われ、ポーランドの歴史や文化も教えられました。マリアはここで科学への関心を深め、姉ブロニスワヴァ(愛称ブローニャ)とともに熱心に学びました。
約20年間で約5,000人がこの秘密大学で学んだとされ、マリアはその最も有名な卒業生となりました。
姉妹の約束
マリアと姉ブローニャは、ある約束を交わしました。
二人とも西ヨーロッパの大学で学びたいと願っていましたが、資金がありません。そこで、まずマリアが家庭教師として働いてブローニャのパリ留学を支援し、ブローニャが医師になったら今度はマリアの学費を助けるという取り決めをしたのです。
マリアは約6年間、田舎の裕福な家庭で住み込みの家庭教師を務めました。辛い仕事でしたが、彼女はその間も独学を続け、化学の実験にも取り組んでいました。
そしてついに1891年、24歳になったマリアは、約束通り姉の元へ向かいます。行き先は「光の都」パリでした。
パリ時代──運命の出会い
ソルボンヌ大学へ
1891年11月、マリアはパリのソルボンヌ大学(パリ大学)に入学しました。
フランスに来た彼女は、名前をフランス語風に「マリ」と改めます。貧しい屋根裏部屋に住み、食事もままならない極貧生活でしたが、学問への情熱は誰にも負けませんでした。
冬には暖房もなく、水が凍ることもあったといいます。食事は一杯のチョコレートとパンだけで済ませることも珍しくありませんでした。
それでも1893年、マリは物理学の学位を首席で取得。翌1894年には数学の学位も取得しました。わずか3年で2つの学位を手にしたのです。
ピエール・キュリーとの出会い
1894年の春、マリの人生を変える出会いが訪れます。
磁性の研究のための実験室を探していたマリは、ポーランド人物理学者ヨゼフ・コワルスキの紹介で、ピエール・キュリーという若い科学者に出会いました。
ピエールは当時35歳。パリ市立工業物理化学高等専門学校(ESPCI)の講師を務めており、すでに磁性に関する重要な法則「キュリーの法則」を発見していた気鋭の研究者でした。
二人は科学への情熱という共通点で強く惹かれ合いました。ピエールは後にこう語っています。
「彼女の天才性と献身、そして誠実さに魅了された。私たちの夢は同じだった──科学のために生きること」
結婚と共同研究の始まり
1895年7月26日、マリとピエールは結婚しました。
マリは「キュリー夫人」となりましたが、この呼び名は決して夫への従属を意味するものではありませんでした。実際、マリ自身が友人への手紙で「これが私の新しい名前です」と誇らしげに記しています。
結婚式は質素なもので、マリは贈り物としてもらった紺色のドレスを着用しました。このドレスは後に実験着として長年使われることになります。二人にとって、科学研究こそが人生の中心だったのです。
1897年には長女イレーヌが誕生。マリは育児と研究の両立という困難な道を歩み始めます。
世紀の発見──ポロニウムとラジウム
博士論文のテーマ選び
1896年、フランスの物理学者アンリ・ベクレルが驚くべき発見をしました。
ウラン鉱石が、何らかの「見えない光線」を自然に放出しているというのです。この現象は当時まだ解明されておらず、多くの科学者が首をかしげていました。
マリは博士論文のテーマとして、このベクレルの発見を選びました。なぜウラン鉱石は光線を出すのか?その謎を解き明かそうとしたのです。
これは大胆な選択でした。当時、この現象に真剣に取り組もうとする科学者はほとんどいなかったからです。
「放射能」の発見
マリはまず、ウラン以外にも同様の現象を起こす物質がないか調べました。
その結果、トリウムという元素も同じ性質を持つことを発見。彼女はこの現象に「放射能(radioactivity)」という名前をつけました。この言葉は彼女の発案によるものです。
さらに驚くべき発見がありました。ウラン鉱石(ピッチブレンド)から出る放射線の量が、純粋なウランから出る量よりもはるかに多いことに気づいたのです。
これは何を意味するのでしょうか?
マリは考えました。ウラン鉱石の中には、ウランよりもさらに強力な放射性物質が含まれているに違いない、と。
ボロボロの小屋での研究
ピエールはマリの研究に興味を持ち、自分の研究を中断して妻の研究に参加しました。
二人に与えられた研究室は、パリ大学の敷地内にある古い解剖小屋でした。ガラス張りの屋根は雨漏りし、冬は凍えるほど寒く、夏は蒸し風呂のような環境です。
この劣悪な環境で、夫妻は何トンものウラン鉱石を手作業で砕き、化学処理を繰り返しました。鉱石を溶かし、沈殿させ、濾過し、結晶化させる。この作業を何千回と繰り返すのです。
後にマリは当時をこう振り返っています。
「とても過酷な仕事でしたが、研究に没頭できてとても幸福でした」
2つの新元素の発見
1898年7月、ついに最初の成果が現れました。
夫妻はウラン鉱石から、ウランの400倍も強い放射能を持つ新しい元素を発見したのです。マリはこれを祖国ポーランドにちなんで「ポロニウム」と名づけました。
当時、ポーランドは地図上から消えた国でした。この命名には、いつか祖国が独立を取り戻してほしいというマリの願いが込められていました。
そして同年12月、さらに強力な放射性元素が発見されます。ラテン語で「光線」を意味する「radius」から、「ラジウム」と名づけられました。
純粋なラジウムの分離
新元素の発見を科学界に認めてもらうには、純粋な形で取り出す必要がありました。
これは途方もない作業でした。ラジウムはウラン鉱石の中にごく微量しか含まれていないからです。
キュリー夫妻は、オーストリア政府から提供されたウラン鉱石の残滓(ざんし)数トンを処理し続けました。鉱石を砕き、煮込み、濾過する作業を、来る日も来る日も繰り返したのです。
そして1902年、マリはついに0.1グラムの純粋な塩化ラジウムを分離することに成功しました。原子量は225と測定されました。
暗闘の中でラジウムは青白い光を放ちました。マリはこの美しい輝きに魅了され、こう語ったといいます。
「こんなに美しいものが有毒であるはずがない」
しかし、この言葉は後に悲劇的な皮肉となることになります。
ノーベル賞と栄光
1903年ノーベル物理学賞
1903年、キュリー夫妻とアンリ・ベクレルに対し、ノーベル物理学賞が授与されることが発表されました。
受賞理由は「放射能現象の研究における卓越した功績」。マリは女性として初めてノーベル賞を受賞することになりました。
しかし、この受賞には裏話があります。
当初、フランス科学アカデミーが提出した推薦状には、マリの名前が意図的に外されていました。女性蔑視の風潮があったのです。スウェーデン王立科学アカデミーの数学者ヨースタ・ミッタク=レフラーが強く推したことで、ようやくマリも受賞対象に加えられました。
授賞式当日、夫妻は健康上の理由でストックホルムには向かえませんでした。長年の放射線被曝が、すでに二人の体を蝕み始めていたのです。
科学界への貢献
キュリー夫妻は、ラジウムの精製方法の特許を取得しませんでした。
ピエールはこう語っています。
「科学の発見は人類全体のものであるべきだ。私たちがそこから利益を得るべきではない」
この決断により、世界中でラジウム研究が急速に進むことになりました。ラジウムはがん細胞を破壊する効果があることが発見され、放射線治療の道が開かれたのです。
一方で、キュリー夫妻自身は貧しいままでした。ノーベル賞の賞金でようやく庭付きの小さな家を手に入れることができた程度だったのです。
悲劇と再起
ピエールの突然の死
1906年4月19日、パリの雨の中、悲劇が起こりました。
ピエールは会議からの帰り道、雨に濡れた石畳で足を滑らせ、荷馬車の車輪に頭を轢かれて即死しました。46歳でした。
マリは最愛の夫を、そして最高の研究パートナーを失いました。
葬儀の後、マリは日記にこう記しています。
「私は棺に額をつけて語りかけました。あなたをずっと、心から愛していたと。すると、冷たい棺から何かが伝わってきたような気がしました。平安と、苦痛の中でも勇気をもって生きていくという直感のようなものが」
悲しみの中でも、マリは研究を続ける決意をしました。
パリ大学初の女性教授
ピエールの死後、パリ大学はマリに夫の後任として教授職を提供しました。
1906年11月5日、マリは講義室に立ちました。聴衆は立ち見が出るほどの大入り。多くの人々が、初の女性教授の講義を聞こうと詰めかけたのです。
マリはピエールが中断した講義の続きから話し始めました。夫の業績と自分の研究を明確に区別しながら、静かに、しかし毅然とした態度で講義を進めました。
1911年ノーベル化学賞
1910年、マリはついに純粋な金属ラジウムの分離に成功しました。アンドレ・ドビエルヌとの共同研究の成果でした。
翌1911年、マリは再びノーベル賞を受賞します。今度は化学賞でした。
受賞理由は「ラジウムおよびポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究」。彼女は史上初めて2度のノーベル賞を、しかも異なる分野で受賞した人物となりました。
しかし、この栄光の瞬間にも、マリは苦難に直面していました。
スキャンダルと差別
1911年、マリはピエールの元弟子であったポール・ランジュヴァンとの関係がスキャンダルとして報道されました。
ランジュヴァンは既婚者でした。彼の妻が二人の関係を暴露し、マスコミは大騒ぎになりました。外国人でユダヤ系(実際にはそうではありませんでしたが)の「家庭破壊者」として、マリは激しいバッシングを受けました。
マリの自宅には群衆が押し寄せ、投石する者までいました。彼女は娘たちを連れて逃げ出し、友人の家に匿われなければなりませんでした。
ノーベル委員会の委員長からは、授賞式への出席を見合わせてはどうかという示唆もありました。
しかし、マリは毅然として答えました。
「賞は私の科学的業績に対して与えられたものであり、私生活とは何の関係もありません」
彼女はストックホルムに向かい、堂々と記念講演を行いました。
第一次世界大戦と「プチ・キュリー」
戦場へ向かう科学者
1914年、第一次世界大戦が勃発しました。
マリはすぐに行動を起こします。負傷兵の治療にX線撮影が役立つことを知っていた彼女は、移動式X線装置を開発したのです。
普通乗用車にX線装置と発電機を搭載したこの車は、「プチ・キュリー(小さなキュリー)」と呼ばれました。マリ自身がこの車を運転して前線を回り、負傷兵のX線撮影を行いました。
最終的に約20台のプチ・キュリーが製造され、戦争中に約100万人の兵士がX線検査を受けたとされています。
17歳の娘とともに
マリは一人で戦場に向かったわけではありません。
長女イレーヌは当時17歳でしたが、母とともに前線近くの野戦病院でX線撮影の業務に携わりました。イレーヌは後に母と同じ道を歩み、ノーベル化学賞を受賞することになります。
マリ自身も放射線技師の訓練プログラムを立ち上げ、150人以上の女性を育成しました。
晩年と遺産
キュリー研究所の設立
1914年、パリにラジウム研究所(現在のキュリー研究所)が設立されました。
この研究所は、マリの指導のもとで放射線の医学応用を研究する世界的な拠点となりました。がん治療への放射線利用は、ここから大きく発展していきます。
1921年、マリはアメリカを訪問し、ハーディング大統領から1グラムのラジウムを贈呈されました。これはアメリカの女性たちによる募金で購入されたものでした。
1932年には、姉ブローニャとともにワルシャワにもラジウム研究所(現在のマリア・スクウォドフスカ=キュリー国立腫瘍学研究所)を設立しました。
放射線がもたらした代償
長年の放射線被曝は、確実にマリの体を蝕んでいました。
マリは研究中、放射性物質を素手で扱い、試験管をポケットに入れて持ち歩いていました。ラジウムが発する青白い光を夜間照明代わりにしていたという逸話も残っています。
当時は放射線の危険性が十分に理解されておらず、マリ自身も「こんなに美しいものが有害であるはずがない」と信じていました。
彼女の手は常に荒れて炎症を起こし、指先の感覚は失われていきました。慢性的な疲労感、視力の低下、耳鳴りなどの症状も現れていました。
最期の時
1934年7月4日、マリ・キュリーはフランス・サヴォワ地方のサンセルモ療養所で息を引き取りました。66歳でした。
死因は再生不良性貧血。骨髄が正常に機能しなくなる病気で、長年の放射線被曝が原因と考えられています。
マリの遺体は夫ピエールの隣に埋葬されました。1995年には、フランスの偉人廟パンテオンに改葬され、自らの功績によってパンテオンに埋葬された初の女性となりました。
今も放射線を発する遺品たち
マリ・キュリーの遺体は、放射線を帯びているため鉛で覆われた棺に納められています。
驚くべきことに、彼女の研究ノートや料理本、私物の多くは、今なお放射線を発し続けています。これらはパリのフランス国立図書館に保管されていますが、閲覧には防護服の着用と免責同意書への署名が必要です。
放射線の半減期は1,600年以上。マリの遺品が安全に触れるようになるのは、遠い未来のことなのです。
キュリー一家のノーベル賞
キュリー一家は、科学史上最も輝かしい家族の一つです。
| 受賞者 | 受賞年 | 賞の種類 | 受賞理由 |
|---|---|---|---|
| マリ・キュリー | 1903年 | 物理学賞 | 放射能現象の研究 |
| ピエール・キュリー | 1903年 | 物理学賞 | 放射能現象の研究 |
| マリ・キュリー | 1911年 | 化学賞 | ラジウム・ポロニウムの発見 |
| イレーヌ・ジョリオ=キュリー | 1935年 | 化学賞 | 人工放射能の発見 |
| フレデリック・ジョリオ=キュリー | 1935年 | 化学賞 | 人工放射能の発見 |
一家で合計5つのノーベル賞メダルを獲得しているのです。
長女イレーヌは母と同じく放射線研究に身を捧げ、夫フレデリックとともに人工放射性同位体の合成に成功しました。しかし、彼女もまた母と同様に放射線被曝による白血病で1956年に亡くなっています。
次女エーヴは一家で唯一科学の道に進まず、ジャーナリストとして活躍しました。母の伝記『キュリー夫人』(1937年)を執筆し、これは世界中で翻訳されてベストセラーとなりました。エーヴは102歳まで長生きし、2007年に亡くなりました。
マリ・キュリーの人物像
科学への情熱
マリ・キュリーは、何よりも科学を愛した人でした。
彼女はこう語っています。
「科学者とは、世界の秘密を解き明かそうとする情熱に駆り立てられた永遠の子どもなのです」
貧困も、差別も、悲しみも、彼女を研究から引き離すことはできませんでした。
質素な生活
ノーベル賞を2度受賞した科学者でありながら、マリは生涯質素な生活を送りました。
研究のためにポロニウムやラジウムを必要とする科学者には、無償で試料を提供しました。特許を取得して富を得る機会もありましたが、「科学は全人類のものである」という信念を貫きました。
祖国への愛
フランス国籍を取得してもなお、マリはポーランド人としてのアイデンティティを失いませんでした。
娘たちにはポーランド語を教え、定期的にポーランドを訪れました。発見した最初の元素に「ポロニウム」と名づけたのも、祖国への愛の表れでした。
1918年、第一次世界大戦後にポーランドが独立を回復したとき、マリは深い喜びを感じたといいます。
現代への影響
医学への貢献
マリ・キュリーの発見は、現代医学に計り知れない影響を与えました。
放射線治療は、今日でもがん治療の重要な柱の一つです。放射性同位元素を使った診断技術(PET検査など)も、彼女の研究なくしては生まれませんでした。
女性科学者への道
マリは、女性が科学の世界で活躍できることを身をもって証明しました。
彼女の存在は、世界中の女性科学者にとっての希望の光となりました。現在、多くの大学や研究機関、病院がマリ・キュリーの名を冠しています。
イギリスのマリー・キュリー慈善団体(Marie Curie)は、終末期ケアを提供する英国最大の慈善団体として活動を続けています。
原子科学の幕開け
マリの研究は、原子が分割不可能な最小単位ではないことを示しました。
この発見は、のちにアインシュタインの相対性理論、そして原子核物理学の発展へとつながっていきます。ラジウムから放出される莫大なエネルギーの源は、アインシュタインの有名な方程式 E=mc² によって説明されることになるのです。
ただし、この発見は人類に恩恵だけでなく、核兵器という負の遺産ももたらしました。ピエール・キュリーはノーベル賞受賞講演で、こう警告していました。
「ラジウムは犯罪に使われれば極めて危険なものであります。しかし私は、人類は新しい発見によって悪い面を克服し、より大きなものを生み出していく英知を持つと信じています」
まとめ
マリ・キュリーは、科学の歴史において最も偉大な人物の一人です。
彼女が成し遂げたこと
- 「放射能」という概念を発見し、命名した
- ポロニウムとラジウムという2つの新元素を発見した
- 女性として初めてノーベル賞を受賞した
- 史上初めて2度のノーベル賞を、異なる分野で受賞した
- パリ大学初の女性教授となった
- 第一次世界大戦中、移動式X線装置で多くの命を救った
- がん治療における放射線利用の道を開いた
女性が大学に入ることすら許されなかった時代に、マリは秘密の大学で学び、異国で2つの学位を取得し、世界を変える発見をしました。
貧困、差別、最愛の夫の死、スキャンダル。数々の困難が彼女を襲いましたが、科学への情熱は決して消えることがありませんでした。
最後は自らの発見した放射線によって命を落とすという悲劇的な結末でしたが、彼女の遺した業績は今日も多くの命を救い続けています。
マリ・キュリー自身の言葉で締めくくりましょう。
「人生において恐れるべきものは何もありません。ただ理解すべきものがあるだけです。今こそ、より多くを理解し、より少なく恐れる時なのです」


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