忠臣蔵の四十七士一覧|赤穂浪士47人の名前・読み方・役職・年齢まとめ

「忠臣蔵」といえば、日本人なら一度は耳にしたことがある物語ではないでしょうか。
毎年12月になるとテレビや舞台で取り上げられる、あの赤穂浪士たちの仇討ち事件です。

でも実際に「47人全員の名前を言えますか?」と聞かれると、なかなか答えられる人は少ないはず。
この記事では、忠臣蔵の四十七士全員の名前・読み方・役職・享年を一覧で紹介していきます。
事件のあらましや主要人物のエピソード、文化的な影響についても見ていきましょう。

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忠臣蔵(赤穂事件)とは

忠臣蔵のもとになった出来事は、正式には「赤穂事件(あこうじけん)」と呼ばれています。

元禄14年3月14日(1701年4月21日)、播磨赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城の松之大廊下で高家旗本の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかるという事件が起こりました。
浅野は吉良に重傷を負わせたものの討ち取ることはできず、殿中で刃物を抜いた罪により、その日のうちに切腹を命じられています。
さらに赤穂藩は改易(お取り潰し)となりました。

なぜ浅野が吉良に斬りかかったのか、その動機は実のところはっきりしていません。
吉良から侮辱を受けたという説、朝廷の使者を接待する作法の指導をめぐるトラブル説、赤穂の塩の製法を教えなかったことへの恨み説など、さまざまな説が語り継がれています。

この事件から約1年9か月後の元禄15年12月14日(1703年1月30日)、浅野の旧臣である大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)を筆頭とする47人が、江戸本所の吉良邸に討ち入りを決行しました。
浪士たちは見事に吉良の首を討ち取り、主君・浅野の墓がある泉岳寺にその首を供えたのです。

なお「忠臣蔵」という名称は、この事件そのものを指す言葉ではありません。
寛延元年(1748年)に初演された人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の通称であり、そこから派生した創作物の総称として広まったものです。

赤穂四十七士 全員の名前一覧

討ち入りの際、浪士たちは大石内蔵助が率いる「表門隊」と、その長男・大石主税が率いる「裏門隊」の二手に分かれて吉良邸に突入しました。
ここでは討入部署ごとに全47名を紹介します。

年齢はいずれも元禄16年(1703年)当時の数え年です。
知行高(給料にあたるもの)もあわせて記載しているので、当時の武士の身分や待遇の違いも感じ取れるのではないでしょうか。

表門隊(23名)

大石内蔵助が直接指揮を執った表門隊には、藩の重役クラスや古参の武士が多く配置されていました。

No.名前読み方役職知行高享年
1大石内蔵助良雄おおいし くらのすけ よしお家老(国家老)1500石45
2原惣右衛門元辰はら そうえもん もととき足軽頭300石56
3片岡源五右衛門高房かたおか げんごえもん たかふさ側用人・児小姓頭350石37
4堀部弥兵衛金丸ほりべ やへえ かなまる元江戸留守居前300石77
5吉田忠左衛門兼亮よしだ ちゅうざえもん かねすけ足軽頭・郡奉行200石+役料50石64
6近松勘六行重ちかまつ かんろく ゆきしげ馬廻250石34
7間瀬久太夫正明ませ きゅうだゆう まさあき大目付200石+役料50石63
8富森助右衛門正因とみのもり すけえもん まさより馬廻・使番200石34
9小野寺幸右衛門秀富おのでら こうえもん ひでとみ部屋住み28
10岡野金右衛門包秀おかの きんえもん かねひで部屋住み24
11奥田孫太夫重盛おくだ まごだゆう しげもり武具奉行150石57
12早水藤左衛門満尭はやみ とうざえもん みつたか馬廻150石40
13矢田五郎右衛門助武やだ ごろうえもん すけたけ馬廻150石29
14間十次郎光興はざま じゅうじろう みつおき部屋住み26
15村松喜兵衛秀直むらまつ きへえ ひでなお扶持奉行20石5人扶持62
16岡嶋八十右衛門常樹おかじま やそえもん つねしげ札座勘定奉行20石5人扶持38
17大高源五忠雄おおたか げんご ただお金奉行・膳番元方20石5人扶持32
18矢頭右衛門七教兼やとう えもしち のりかね部屋住み18
19勝田新左衛門武尭かつた しんざえもん たけたか札座横目15石3人扶持24
20武林唯七隆重たけばやし ただしち たかしげ中小姓15両3人扶持32
21貝賀弥左衛門友信かいが やざえもん とものぶ中小姓54
22神崎与五郎則休かんざき よごろう のりやす横目38
23横川勘平宗利よこかわ かんぺい むねとし勘定方37

裏門隊(24名)

裏門隊は大石主税が大将を務め、堀部安兵衛や吉田沢右衛門など、若手の実力者が多く配属されていました。
裏門隊は大きな木槌で門を打ち破って突入したと伝えられています。

No.名前読み方役職知行高享年
24大石主税良金おおいし ちから よしかね部屋住み16
25堀部安兵衛武庸ほりべ やすべえ たけつね馬廻200石34
26吉田沢右衛門兼貞よしだ さわえもん かねさだ蔵奉行29
27間瀬孫九郎正辰ませ まごくろう まさとき部屋住み23
28赤埴源蔵重賢あかばね げんぞう しげかた馬廻200石35
29潮田又之丞高教うしおだ またのじょう たかのり郡奉行・絵図奉行200石35
30不破数右衛門正種ふわ かずえもん まさたね元馬廻元100石34
31小野寺十内秀和おのでら じゅうない ひでかず京都留守居150石+役料70石61
32木村岡右衛門貞行きむら おかえもん さだゆき馬廻・絵図奉行150石46
33奥田貞右衛門行高おくだ さだえもん ゆきたか部屋住み26
34大石瀬左衛門信清おおいし せざえもん のぶきよ馬廻150石27
35礒貝十郎左衛門正久いそがい じゅうろうざえもん まさひさ物頭・側用人150石25
36間喜兵衛光延はざま きへえ みつのぶ勝手方吟味役100石69
37間新六郎光風はざま しんろくろう みつかぜ部屋住み24
38中村勘助正辰なかむら かんすけ まさとき書物役100石46
39千馬三郎兵衛光忠せんば さぶろべえ みつただ馬廻100石51
40菅谷半之丞政利すがや はんのじょう まさとし馬廻・郡代100石44
41村松三太夫高直むらまつ さんだゆう たかなお部屋住み27
42倉橋伝助武幸くらはし でんすけ たけゆき扶持奉行20石5人扶持34
43前原伊助宗房まえばら いすけ むねふさ金奉行10石3人扶持40
44杉野十平次次房すぎの じゅうへいじ つぎふさ札座横目8両3人扶持28
45茅野和助常成かやの わすけ つねなり横目37
46三村次郎左衛門包常みむら じろうざえもん かねつね酒奉行37
47寺坂吉右衛門信行てらさか きちえもん のぶゆき足軽※83で病没

「部屋住み」とは、まだ正式に家督を継いでいない子息のことを指します。
四十七士のなかには親子や兄弟で参加した者も多く、大石内蔵助と主税の親子をはじめ、吉田忠左衛門と沢右衛門、間瀬久太夫と孫九郎、間喜兵衛と十次郎・新六郎、奥田孫太夫と貞右衛門、小野寺十内と幸右衛門、村松喜兵衛と三太夫など、血縁関係を持つ組み合わせが複数含まれていました。

四十七士の主要人物

47人全員にそれぞれドラマがありますが、なかでも特に有名な人物を紹介しましょう。

大石内蔵助良雄 ― 討ち入りの総指揮者

赤穂藩の筆頭家老で、知行高1500石。
四十七士のリーダーとして討ち入りを計画・実行した人物です。

藩が取り潰しになった後、大石は京都の山科に隠棲しました。
この間、祇園で遊び歩いたという有名な逸話がありますが、これは吉良側の警戒を解くための偽装だったと一般には語られています。
ただし、実際にどこまでが偽装でどこまでが本当の遊興だったのかは、はっきり分かっていません。

討ち入りでは表門隊の大将として指揮を執り、見事に本懐を遂げました。

大石主税良金 ― 16歳の裏門隊大将

大石内蔵助の長男で、討ち入り時わずか16歳。
赤穂藩の改易後に元服し、裏門隊の大将という重責を担いました。
四十七士のなかで最も若い存在でした。

堀部安兵衛武庸 ― 江戸急進派の中心人物

もともと越後新発田の出身で、旧姓は中山。
18歳のころに起きた「高田馬場の決闘」で名を馳せ、堀部弥兵衛の養子となって赤穂藩に仕えました。
江戸にいた浪士たちの中心的存在として、一刻も早い討ち入りを主張し続けた「急進派」の筆頭格として知られています。

堀部弥兵衛金丸 ― 最年長77歳の義士

四十七士のなかで最も高齢だったのが堀部弥兵衛です。
享年77歳でありながら討ち入りに参加したその気概は、当時の人々にも深い感銘を与えました。
前述の堀部安兵衛は彼の養子にあたります。

吉田忠左衛門兼亮 ― 大石に次ぐナンバー2

足軽頭・郡奉行を務め、大石内蔵助に次ぐ立場として浪士たちをまとめました。
享年64歳。
実弟の貝賀弥左衛門、長男の吉田沢右衛門、甥の岡嶋八十右衛門も討ち入りに参加しており、一族で主君への忠義を貫いた人物です。

不破数右衛門正種 ― 途中から復帰した異色の義士

もともと赤穂藩に仕えていましたが、何らかの理由で一度藩を離れた後、改易前に帰参した経歴を持つ異色の人物です。
討ち入りでは裏門隊に属し、大いに活躍したと伝えられています。

矢頭右衛門七教兼 ― 18歳の最年少義士

最年少の18歳で討ち入りに参加しました。
父の矢頭長助はもともと赤穂藩士でしたが、討ち入り前に病死しています。
その父の遺志を継ぐ形で義盟に加わったとされています。

討ち入り後の運命

お預け先の四大名家

討ち入りを終えた浪士たちは泉岳寺で主君の墓前に吉良の首を供えた後、幕府に自首しました。
その後、寺坂吉右衛門を除く46名は、四つの大名家に分けてお預けとなっています。

元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府は46名全員に切腹を命じました。
討ち入りから約49日後のことです。

お預け先の大名家と浪士の待遇には、かなりの差があったと伝えられています。
特に手厚くもてなしたとされるのが、17名を預かった細川越中守綱利(肥後熊本藩)でした。
細川家では二汁五菜の食事や風呂、酒、煙草まで提供し、大石内蔵助とは直接面会して話を聞いたとされています。

一方、毛利甲斐守綱元(長門長府藩)や松平隠岐守定直(伊予松山藩)のお預け先では、やや厳しい扱いだったとも伝わっています。
このことから当時、次のような風刺の句が詠まれました。

「細川の 水の(水野の)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」

各大名家のお預け人数は以下のとおりです。

お預け先人数
細川越中守綱利肥後熊本藩17名
水野監物忠之三河岡崎藩9名
毛利甲斐守綱元長門長府藩10名
松平隠岐守定直伊予松山藩10名

唯一の生き残り ― 寺坂吉右衛門の謎

47人のうち、唯一切腹しなかったのが寺坂吉右衛門信行です。
寺坂は吉田忠左衛門の配下にあった足軽で、四十七士の中で唯一の足軽身分でした。

討ち入りには裏門隊として参加しましたが、吉良邸から泉岳寺へ引き揚げる途中で姿を消しています。
なぜ寺坂が一行から離れたのかは、古くから議論の的になってきました。

主な説として、大石内蔵助から事件の顛末を関係者に伝えるよう密命を受けていたとする「密命説」、足軽身分の者が加わっていると幕府への体裁が悪いため大石が逃がしたとする「身分配慮説」、そして単に逃亡したという「逃亡説」があります。

昭和11年(1936年)に発見された伊藤家の資料には、泉岳寺の門前で吉田忠左衛門の指示により一行と別れたと記されており、現在では「密命説」がもっとも有力とされています。

寺坂はその後、姫路藩の伊藤家や旗本の山内家に仕え、延享4年(1747年)に83歳で病没しました。
四十七士のただ一人の生き残りとして、天寿を全うした人物です。

忠臣蔵の文化的な影響

赤穂事件が起きた直後から、この事件を題材にした創作物が次々と生まれました。

元禄16年(1703年)、朱子学者の室鳩巣(むろきゅうそう)が赤穂事件に関する最初の史書『赤穂義人録(あこうぎじんろく)』を著しています。
この書物は浪士たちを「義人」として称え、寺坂吉右衛門を含めた「四十七士」という概念を初めて提唱したものとされています。

討ち入りから約45年後の寛延元年(1748年)には、竹田出雲・並木千柳・三好松洛の合作による人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が大阪の竹本座で初演されました。
この作品では大石内蔵助を「大星由良助(おおぼしゆらのすけ)」、浅野内匠頭を「塩冶判官(えんやはんがん)」、吉良上野介を「高師直(こうのもろなお)」と名前を変えて描いています。
「忠臣蔵」という呼び名が広まったのは、まさにこの作品がきっかけです。

『仮名手本忠臣蔵』は歌舞伎の「独参湯(どくじんとう)」、つまり万能薬とも呼ばれました。
客の入りが悪くなった芝居小屋でも、忠臣蔵を上演すれば必ず持ち直すと言われたほど、庶民から絶大な人気を誇ったのです。
江戸時代を通じてほぼ毎年のように上演が続けられたと伝えられています。

こうした人気は現代まで途切れることなく、映画、テレビドラマ、小説、漫画と、あらゆるメディアで忠臣蔵は繰り返し描かれてきました。

毎年12月14日には、東京・泉岳寺で「義士祭」が行われ、多くの参拝者が訪れます。
また兵庫県赤穂市では「赤穂義士祭」が開催されており、忠臣蔵ゆかりの地として今も多くの人々に親しまれています。

参考情報

この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。

公式・学術系サイト

百科事典・事典

参考サイト

補足

四十七士の年齢や役職名については、参照する史料や文献によって若干の差異が見られる場合があります。
本記事では『世界大百科事典』(JapanKnowledge収録)およびWikipedia「赤穂事件の人物一覧」を主な典拠とし、複数のソースで照合のうえ記載しています。

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