「酒池肉林」という言葉を聞いたことがありますか?
この言葉の由来となった人物こそ、古代中国・殷王朝の最後の王である紂王なんです。
3000年もの間、暴君の代名詞として語り継がれてきた彼ですが、近年の研究では意外な真実が明らかになってきました。本当に彼は史書に描かれたような残虐な王だったのでしょうか?
この記事では、謎多き殷王朝最後の王「紂王(帝辛)」について、伝承と史実の両面から詳しくご紹介します。
概要

紂王(ちゅうおう)は、殷王朝(別名:商王朝)の第30代にして最後の王です。
本名は帝辛(ていしん)といい、「紂王」というのは実は彼を滅ぼした周王朝がつけた悪い意味の名前なんですね。「紂」という字は馬の尻に当てる革ベルトを意味し、「不義で残酷」という悪い印象を込めて名付けられました。
在位期間は約30年で、紀元前1046年頃に周の武王によって滅ぼされました。
後世では夏王朝最後の王である桀王と並んで「夏桀殷紂」と呼ばれ、暴君の象徴として3000年近くにわたって語り継がれています。しかし、近年の考古学的研究により、この暴君像には疑問が投げかけられているんです。
史書に描かれた姿
では、史書には紂王がどんな人物として描かれているのでしょうか?
優れた才能の持ち主
『史記』によれば、紂王は若い頃、非常に優秀な王だったとされています。
紂王の能力
- 美貌と体力: 高身長で容姿端麗、素手で猛獣を倒すほどの怪力
- 知力: 頭の回転が速く、弁舌に優れていた
- 弁論術: どんな諫言も言い負かしてしまうほどの話術
つまり、容姿・武力・知力の三拍子揃った、本来なら名君になれる素質があったんですね。
しかし、その才能が逆に仇となりました。臣下が愚かに見えて諫言を聞かず、次第に「天王」を自称するほど増長していったとされています。
堕落した生活
紂王といえば、贅沢で残虐な生活が有名です。
堕落の象徴
- 愛妾の妲己(だっき)に溺れた
- 重税を課して天下の宝を集めた
- 賢臣を遠ざけ、佞臣を重用した
- 神への祭祀をおろそかにした
特に妲己の言うことは何でも聞き入れ、彼女のために数々の悪事を働いたとされています。
伝承・逸話
紂王にまつわる伝説は、どれも衝撃的なものばかりなんです。
酒池肉林
最も有名なのが「酒池肉林」の逸話でしょう。
紂王は鹿台という宮殿に巨大な池を作り、そこに酒を満たしました。さらに、肉を天井から吊るして林のように見立てたんです。その中で男女を裸で遊ばせ、飲めや歌えの大宴会を開いたとされています。
この話から、度を過ぎた享楽や贅沢を「酒池肉林」と呼ぶようになったんですね。
箕子の憂い
紂王の親戚に箕子(きし)という賢人がいました。
ある日、紂王が象牙の箸を作ったと聞いた箕子は、こう心配したんです。
「象牙の箸を使えば、陶器の器では満足できなくなる。次は玉の器を作るだろう。玉の器に粗末な料理では満足できず、山海の珍味を求めるようになる。このように贅沢は止まらなくなってしまう」
まさに的中した予言でした。誅殺を恐れた箕子は、狂人のふりをして奴隷となって難を逃れました。この話は後に「箕子の憂い」という故事成語になっています。
比干の死
もう一人の親戚、比干(ひかん)はさらに悲惨な結末を迎えます。
比干は炮烙(ほうらく)という残酷な刑罰をやめるよう諫言しました。炮烙とは、熱した銅柱を囚人に抱きつかせて焼き殺す刑罰なんです。
しかし紂王は聞き入れず、こう言いました。
「聖人の心臓には七つの穴があるという。それを見てみたい」
そして本当に比干の胸を切り裂き、心臓を抉り出して殺してしまったんです。
三公への仕打ち
当時、殷で最も重要な地位「三公」には、西伯昌(後の文王)、九侯、鄂侯という三人の実力者がいました。
九侯には美しい娘がおり、紂王は彼女を妾にしました。ところが、九侯と鄂侯に謀反の疑いがあると知ると、紂王は恐ろしい処罰を下します。
三公への処罰
- 九侯: 塩辛に加工された
- 鄂侯: 干し肉にされた
- 九侯の娘: 処刑された
- 西伯昌: 羑里という場所に幽閉された
西伯昌は後に、財宝と領地を献上することで釈放されました。
最期

西伯昌が亡くなり、息子の武王が立つと、ついに天下の諸侯たちが立ち上がります。
牧野の戦い
武王は文王の位牌を掲げて軍を起こしました。両軍は牧野という場所で激突します。
このとき殷軍は70万を超える大軍でしたが、その多くは奴隷で構成されていました。彼らには戦意がなく、むしろ武王が来るのを待ち望んでいたほどだったんです。
結果、殷軍はあっという間に大敗しました。
焼身自殺
首都の朝歌に撤退した紂王は、鹿台に上って焼身自殺を遂げました。
その死体は武王によって首を斬られ、白い旗に掲げられたといいます。こうして殷王朝は滅亡し、周王朝の時代が始まったんです。
近代の再評価
ここまで聞くと、紂王は本当にひどい暴君だと思いますよね?
ところが、近年の考古学的研究により、この暴君像には大きな疑問が投げかけられているんです。
孔子の弟子の疑問
実は、春秋戦国時代から既に疑問の声がありました。
孔子の弟子である子貢は『論語』の中でこう述べています。
「彼の悪行は言うほどではなかったが、悪をなしたために悪評全てが彼の責となったのだ」
つまり、悪い評判が次々と紂王に集められただけではないか、という指摘なんですね。
考古学的証拠
殷墟から出土した甲骨文(古代の文字が刻まれた骨)によれば、帝辛は以下のような王だったことが分かっています。
甲骨文が示す真実
- 祖先への祭祀を熱心に行っていた
- 東の人方(東夷)という部族を討ち、国勢を盛んにした
- 生贄の儀式を撤廃した可能性がある
特に興味深いのは、生贄の儀式についてです。甲骨文字によれば、紂王は「殺すより働かせたほうがいい」という考えから、人間を生贄にする儀式をやめたとされているんです。
これは残虐を好んだという伝承とは真逆の政治判断ですよね。
周による正当化
では、なぜこれほどまでに悪く描かれたのでしょうか?
答えは簡単です。紂王を倒した周王朝が、自分たちの統治を正当化するために暴君として描いたと考えられているんです。
実際、周の康王の時代の金文(青銅器に刻まれた文章)には、「殷が滅んだのは百官が酒にかまけて軍を失ったため」とあり、紂王一人に責任があるとは考えていなかったことが分かります。
物語の累積
さらに、時代が下るにつれて紂王の悪行は増えていったんです。
西周時代の文献では、紂王の罪状は6つだけでした。ところが、春秋戦国時代になると、各思想家が自分の主張を強調するために、紂王に新しい悪行を次々と追加していったんですね。
南宋の学者・羅泌も著書『路史』の中で、「紂王の罪状の多くは信頼できない」と述べています。
妲己の謎
もう一つ興味深いのは、妲己の存在です。
実は、殷墟から出土している甲骨文の中に、妲己に関する記録は一切見つかっていないんです。彼女は本当に存在したのか、それとも後世の創作なのか、今でも謎に包まれています。
まとめ

紂王(帝辛)は、3000年にわたって暴君の代名詞とされてきた殷王朝最後の王です。
重要なポイント
- 本名は帝辛で、「紂王」は周がつけた悪い意味の名前
- 容姿・武力・知力に優れた、本来は有能な王だった
- 「酒池肉林」「炮烙」など残虐な逸話で有名
- 周の武王による牧野の戦いで敗北し、焼身自殺
- 近年の考古学的研究により、暴君像は後世の創作という見方が強い
- 実際は祭祀改革や領土拡大を行った有能な王だった可能性
- 周による統治の正当化のために悪く描かれた
歴史は勝者によって書かれるといいますが、紂王はまさにその典型例かもしれません。真実の紂王像は、今も殷墟の地下に眠る遺物の中に隠されているのかもしれませんね。


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