長宗我部元親とは?四国を統一した土佐の戦国大名

神話・歴史・文化

「姫若子」と嘲笑された少年が、四国全土を支配する戦国大名になった——。
そんな劇的な人生を歩んだのが、長宗我部元親です。

土佐の小さな豪族に過ぎなかった長宗我部氏を戦国大名に押し上げ、四国のほぼ全域を制圧した元親。
その功績から「土佐の出来人」と称えられました。

でも、豊臣秀吉の四国征伐で夢は砕かれ、最愛の長男を失った悲劇の武将でもあるんです。

この記事では、長宗我部元親の波乱に満ちた生涯を、エピソードと共にわかりやすく解説します。

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長宗我部元親の概要

長宗我部元親は1539年(天文8年)に土佐国岡豊城で生まれました。
父は長宗我部国親、長宗我部氏第21代当主です。

元親が生まれた頃、長宗我部氏は土佐七雄と呼ばれる有力豪族の一つでしたが、その中では最も弱小の勢力でした。
祖父の代に一度は岡豊城を追われ、父・国親の代にようやく復帰したばかりだったんですね。

そんな状況で育った元親は、1560年の初陣で武名を上げ、父の死後に家督を継承。
わずか15年で土佐を統一し、さらに10年かけて四国のほぼ全域を手中に収めました。

しかし1585年、豊臣秀吉の四国征伐により降伏。
土佐一国のみの領有を許され、以後は豊臣政権の一大名として活動します。

1599年(慶長4年)5月19日、伏見の邸にて61歳で死去しました。

「姫若子」と呼ばれた少年時代

元親の幼少期は、武将らしからぬものでした。

色白で物静か、いつも屋敷の隅で本を読んでいる少年。
家臣たちは陰で「姫若子(ひめわこ)」——つまり「お姫様みたい」と嘲笑していたんです。

父・国親ですら、この息子を心配していました。
「こんな息子では長宗我部家の未来はない」と嘆いていたとか。

当時の武家社会では、15歳頃に初陣を迎えるのが普通でした。
でも元親は22歳になっても戦場に出ていません。

家臣たちは囁きました。
「槍の突き方も知らないうつけ者」
「あれで本当に当主が務まるのか」

誰もが元親に期待していなかったんです。

劇的な初陣——「鬼若子」への転身

ところが、運命は1560年5月に訪れます。

父・国親が宿敵の本山氏を攻めた「長浜の戦い」。
元親は22歳にして、ついに初陣を迎えました。

戦いの前夜、元親は若宮八幡宮の松林に陣を張り、静かに戦勝を祈願したと伝えられています。

そして翌朝——。

予想を裏切り、元親は自ら槍を持って敵陣に突撃。
獅子奮迅の活躍を見せたんです。

本山軍は2500の兵力を誇っていましたが、長宗我部軍はわずか1000。
兵力差は2倍以上あったにもかかわらず、元親の奮戦により長宗我部軍が勝利しました。

この一戦で元親の武名は一気に高まり、家臣たちは驚きと喜びに沸き返りました。
あだ名も「姫若子」から「鬼若子(おにわこ)」へ。

父・国親も臨終の際、「元親の振る舞いや武者遣いには、もはや何の問題もない」と褒め称えたといいます。

そう、この初陣の直後、国親は急死してしまうんです。
元親は23歳という若さで、長宗我部家の当主となりました。

土佐統一への道

父の遺言は明確でした。
「本山を駆逐することが一番の供養になると心得よ」

元親はこの言葉を胸に、本山氏との戦いを続けます。

永禄6年(1563年)、元親は巧みな外交戦略を展開。
吉良氏を服属させると、その娘を弟・親貞に娶らせ、吉良氏を長宗我部の一門にしてしまいました。

さらに本山氏の当主・貞茂は元親の甥でした。
元親は貞茂を服属させ、偏諱を与えて親茂と改名させ、これも長宗我部の一門に取り込んだんです。

婚姻関係や養子縁組を駆使した、見事な戦略ですね。

そして永禄11年(1568年)、ついに本山氏の本城を陥落させ、土佐中部を平定。

次の標的は土佐東部を治める土佐一条氏でした。

当時の一条氏は内乱で揺れており、当主の一条兼定は人望を失っていました。
元親はこの機会を逃しませんでした。

1573年、元親は一条氏の本拠地・中村に進軍。
一条兼定は豊後(大分県)へ逃亡します。

その後、大友氏の支援を得て兼定が攻め返してきましたが、元親は1575年の四万十川の戦いでこれを撃破。
ついに土佐統一を果たしたんです。

四国制覇への野望

土佐を手に入れた元親ですが、一つ問題がありました。

土佐は貧しい土地だったんです。
米の生産量が少なく、功績のあった家臣に十分な領地を与えられない。

元親はこの問題を解決するため、そして自らの野望のため、四国全土の制覇を目指します。

『土佐物語』によると、長宗我部氏は秦の始皇帝の末裔とされていました。
元親も「土佐一国の主で終わるのは父の本意ではない。せめて南海・西海の王となりたい」と語っていたそうです。

1579年、元親は北の伊予国への侵攻を開始。
伊予の河野氏は毛利氏の支援を受けていましたが、当時の毛利氏は織田信長と戦っており、伊予を助ける余裕がありませんでした。

1580年、元親は3万の兵を率いて伊予に侵攻。
河野通直を豊後へ追放し、伊予を制圧します。

さらに阿波、讃岐へと進軍。

1582年、元親は阿波の勝瑞城を攻め落とし、十河存保を破って阿波を平定。
1584年には讃岐の十河城を攻略し、讃岐も手中に収めました。

1585年——元親の四国統一が目前に迫っていたんです。

織田信長と豊臣秀吉

実は元親、織田信長とも交流がありました。

1579年頃、元親は信長と同盟を結ぼうと使者を送っています。
信長は表向きは応じましたが、内心では元親をあまり評価していませんでした。

信長は元親のことを「鳥なき島の蝙蝠(こうもり)」と評したと伝えられています。
つまり「強敵がいない島だから、コウモリ程度でも羽ばたけるんだ」という意味です。

実際、信長は息子の織田信孝を総大将に、四国征伐を計画していました。

しかし1582年6月、本能寺の変が起こります。
信長の死により、四国征伐は中止。

元親にとっては幸運でした——一時的には。

ところが、織田信長の後継者争いを制したのは豊臣秀吉。
秀吉は信長の遺志を継ぎ、四国征伐を決行することにしたんです。

豊臣秀吉の四国征伐

1585年、秀吉は圧倒的な兵力で四国に攻め込みました。

宇喜多秀家・黒田孝高が讃岐へ。
小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢が伊予へ。
羽柴秀長・秀次の軍勢が阿波へ。

総勢10万を超える大軍です。

対する長宗我部軍は、急速な拡大の代償として装備が不十分でした。
織田信長が「鳥なき島の蝙蝠」と評したのは、的を射ていたのかもしれません。

元親は阿波の白地城を本拠に抵抗しますが、わずか数ヶ月で各地の城が次々と陥落。

阿波戦線が崩壊すると、家臣の谷忠澄が降伏を進言しました。
元親はこれを受け入れ、1585年7月25日に降伏。

阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみの領有を許されました。

四国統一の夢は、わずか半年で潰えたんです。

元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓います。
以後、長宗我部元親は豊臣政権の一大名として生きることになりました。

戸次川の悲劇——長男の死

1586年、秀吉の九州征伐が始まります。

元親は嫡男の信親とともに従軍。
島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かいました。

12月、豊後の戸次川で島津軍と激突します。

このとき四国勢の総大将は仙石秀久でした。
元親や十河存保は慎重な作戦を主張しましたが、秀久は聞き入れず強引に攻撃を命令。

島津軍の巧みな戦術にはまり、四国勢は壊滅的な敗北を喫します。

この混戦の中、元親の愛する長男・信親が討死してしまったんです。

元親は信親の死を知って自害しようとしましたが、家臣たちに諌められ、伊予の日振島へ落ち延びました。

この出来事が、元親に与えた影響は計り知れません。
以後、元親は人が変わったように精彩を欠き、判断ミスが目立つようになります。

晩年——家督問題と内部粛清

土佐に帰った元親は、領内の検地を進め、「長宗我部元親百箇条」という分国法を制定しました。
また、本拠を岡豊城から浦戸城へ移転し、城下町の建設にも着手します。

1590年の小田原征伐では水軍を率いて参加。
1592年からは秀吉の朝鮮出兵にも従軍しました。

しかし、家督継承問題で元親は致命的なミスを犯します。

信親を失った元親には、次男・親和、三男・親忠、四男・盛親がいました。
通常なら次男が家督を継ぐべきですが、元親は四男の盛親を後継者に指名したんです。

これに反対する家臣たちを、元親は次々と粛清。
比江山親興、吉良親実らに死を命じるなど、強引に盛親への譲位を進めました。

この内部粛清は、後の長宗我部家滅亡の遠因となります。

1599年、秀吉の死により政情が不安定になる中、元親は病のために伏見の邸で死去。
享年61歳でした。

法号は雪蹊恕三大禅定門。
墓は高知県高知市に、位牌は雪蹊寺に祀られています。

一領具足——長宗我部軍の強さの秘密

長宗我部軍の強さの秘密は「一領具足(いちりょうぐそく)」という独特の軍制にありました。

一領具足とは、普段は農民として田畑を耕しながら、戦時には武士として戦う半農半武の兵士たちのこと。

彼らは田畑の脇に常に具足(鎧)や槍を置いて農作業をし、法螺貝の合図があればすぐに出陣できる態勢を整えていました。

『土佐物語』には「死生知らずの野武士なり」と記されています。
命知らずの荒々しさと、土地への愛着が彼らの戦闘力を支えていたんです。

この制度により、元親は限られた領地でも大軍を動員できました。
土佐という貧しい土地から四国統一に迫ったのは、この一領具足のおかげだったんですね。

まとめ

長宗我部元親の生涯をまとめると、こうなります。

  • 幼少期は「姫若子」と嘲笑されたが、22歳の初陣で「鬼若子」へ劇的に変化
  • 父の死後、23歳で家督を継承し、15年で土佐を統一
  • 四国のほぼ全域を制覇するも、豊臣秀吉の四国征伐で降伏
  • 戸次川の戦いで長男・信親を失い、以後判断力が低下
  • 家督問題で内部粛清を行い、長宗我部家滅亡の種を蒔いた
  • 1599年、61歳で伏見にて死去

「土佐の出来人」と称えられた元親。
小さな豪族から四国の覇者へと駆け上がった前半生は、まさに戦国の夢を体現していました。

しかし秀吉への降伏と長男の死が、その後の人生を暗転させます。
栄光と悲劇が交錯する、戦国時代らしい生涯でした。

元親の死後、後を継いだ四男・盛親は関ヶ原の戦いで西軍に味方。
戦後、土佐一国は没収され、長宗我部家は事実上滅亡しました。

大阪夏の陣で豊臣方として勇敢に戦った盛親は、大阪城落城後に捕らえられ、京の六条河原で斬首。
ここに長宗我部一族は完全に滅びたんです。

今も高知市長浜には、元親の初陣を記念する銅像が建っています。
毎年5月、命日に近い日曜日には「長宗我部まつり」が開催され、地元の人々や歴史ファンが元親の功績を偲んでいます。

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