「道教」と聞くと、老子や荘子を思い浮かべる人が多いかもしれません。
でも実は、老子や荘子が活躍した時代には「道教」という宗教はまだ存在していなかったんです。道家思想はあくまで哲学であり、教団も儀式もありませんでした。
そんな「思想」を「宗教」に変えた人物こそが、今回紹介する張道陵(ちょうどうりょう)です。
張道陵は東漢(後漢)時代の2世紀、四川省の山中で「天師道」という教団を創り上げ、道教という宗教の基礎を築きました。後世「祖天師」と呼ばれ、その子孫は現在に至るまで天師の地位を受け継いでいます。
この記事では、張道陵がどんな人物で、なぜ道教を創ったのか、その教えや教団の仕組みはどうなっていたのか、そして現代にどんな影響を残しているのかを詳しく解説していきます。
張道陵の基本プロフィール
まず、張道陵の基本情報を整理しておきましょう。
張道陵の本名は「張陵」(ちょうりょう)で、字(あざな)は「輔漢」(ほかん)。「道陵」という名は後世の尊称です。
生没年は、伝承によると34年2月22日に生まれ、156年10月10日に没したとされています(Wikipedia「張道陵」)。もしこの伝承どおりなら享年123歳ということになりますが、当然ながらこの数字は伝説的な要素が強く、実際の生没年については確証がありません。
出身は東漢の沛国豊県、現在の江蘇省徐州市豊県にあたる地域です。伝承では、前漢の建国の功臣として名高い張良(ちょうりょう)の八世の孫であるとも語られています。ただし、この系譜については正史で明確に裏付けられているわけではなく、後世の道教文献が権威づけのために付け加えた可能性もあります。
儒学のエリートから「仙道」の求道者へ
張道陵の前半生は、意外にもエリート官僚としてのキャリアから始まっています。
伝承によれば、張道陵は幼い頃から聡明で、7歳にして『老子道徳経』を読みこなしたとされています。太学(当時の最高学府)で学び、五経(儒教の基本経典)に広く通じた博学の士でした。
漢明帝の時代に推薦を受け、巴郡江州令(現在の重慶あたりの地方官)に任命されたという記録もあります。さらに漢章帝・漢和帝の時代には「太傅」や「冀県侯」といった要職への招聘が何度もあったものの、張道陵はすべて辞退したと伝えられています(百度百科「张道陵」)。
なぜ、エリートコースを捨てたのか?
伝承では、張道陵がこんな言葉を残したとされています。「自分はこれだけ学問を修めたのに、生死の問題を解決する術は何も得られていない」と。儒学の知識では「人はなぜ老い、死ぬのか」という根本的な問いに答えられないと感じ、不老長生の道を探す旅に出たのです。
こうして張道陵は官職を辞し、洛陽の北邙山(ほくぼうざん)に隠棲して仙道の修行を始めました。
龍虎山での丹薬修行と四川への移住
官を辞した張道陵は、弟子の王長(おうちょう)とともに各地の名山を巡る修行の旅に出ます。
まず向かったのが、現在の江西省鷹潭市にある雲錦山(うんきんざん)です。ここで張道陵は丹(不老不死の薬)の修練に取り組み、伝説では3年かけて「神丹」を完成させたとされています。その際に龍と虎が出現したことから、この山は後に龍虎山(りゅうこざん)と呼ばれるようになったと伝えられています(Wikipedia「龍虎山」)。
龍虎山は後に天師道の本拠地となる重要な聖地ですが、張道陵自身がここに定住したわけではありません。伝承によると、60歳頃に「蜀(四川地方)の民は純朴で教化しやすい」という話を聞き、四川の鶴鳴山(かくめいざん、現在の四川省成都市大邑県)に移り住んだとされています。
鶴鳴山は鶴の姿に似た山の形からその名がつけられたとも言われ、張道陵が道教教団を創設する舞台となる重要な場所です。
142年、太上老君の「啓示」と天師道の創立
張道陵の生涯で最も重要な出来事は、漢順帝の漢安元年、すなわち142年に起きたとされています。
道教の伝承によると、この年の正月十五日の夜半、太上老君(たいじょうろうくん)——神格化された老子——が鶴鳴山に降臨し、張道陵に「正一盟威の道」(せいいつめいいのみち)を授けたとされています。太上老君は張道陵に「天師」の称号を与え、雌雄の宝剣と都功印(ときょういん)を授け、邪悪を退け民を救うよう命じたというのです(台湾内政部宗教知識+「張道陵」、Britannica “Zhang Daoling”)。
もちろん、これは宗教的な伝承であり、歴史的な事実としてそのまま受け取ることはできません。正史である『三国志』や『後漢書』では、張道陵(張陵)について簡潔に触れるのみで、この啓示のエピソードは記載されていません。
ただし、142年前後に張道陵が四川の鶴鳴山を拠点として宗教教団を組織し始めたという点については、複数の史料がおおむね一致しています。なお、四川省で発見された173年の石碑は、天師道の存在を示す最も古い物的証拠の一つとされています(Wikipedia “Way of the Celestial Masters”)。
こうして張道陵は「天師道」(てんしどう)、別名「五斗米道」(ごとべいどう)を正式に立ち上げました。これが道教史上初の組織的な宗教教団の誕生です。
五斗米道の名前の由来と教団の仕組み
「五斗米道」というユニークな名前は、入信者が五斗の米(当時の容量で約9リットル前後とされる)を納めることを求められたことに由来しています。この米は教団の運営や慈善事業に使われたと考えられています。
ただし、この名称は外部からの呼び方であり、教団自身は「正一盟威道」(せいいつめいいどう)と名乗っていました。「正一」とは「正しきをもって邪を治し、一をもって万を統べる」という意味を含んでいるとされています。
二十四治(にじゅうしち)
張道陵が築いた教団組織の最大の特徴は、二十四治という教区制度です。
これは巴蜀(四川)地方を24の宗教行政区に分割し、それぞれに祭酒(さいしゅ)という管理者を置いたものです。二十四治は「上八治・中八治・下八治」に分かれ、天の二十四気(二十四節気)に対応するよう設計されていたと伝えられています(百度百科「二十四治」)。
最上位の三治は陽平治・鹿堂治・鶴鳴治で、中でも陽平治が首治(本部)とされ、天師自らが都功(長官)を務めました。
教団内部には明確な階級制度がありました。入信したばかりの一般信者は「鬼卒」(きそつ)、信仰が深まり『道徳経』の講義ができるようになった者は「祭酒」に昇格するという具合です。
病気治療と「三官手書」
五斗米道が民衆の支持を集めた大きな理由の一つが、病気治療の方法です。
この教団では「病気は罪の結果である」という独特の考え方を持っていました。病人は生まれてからこれまでに犯した罪をすべて書き出し、その告白文を三通作成します。一通は山の上に置いて天に捧げ、一通は地中に埋め、一通は水に沈める。これを「三官手書」(さんかんしゅしょ)と呼びました。天・地・水を司る三官(三人の神)に罪を告白し、二度と罪を犯さないと誓うことで、病が癒えるという仕組みです(中国語版Wikipedia「五斗米道」)。
現代の目から見れば、これは罪の告白による心理的な浄化作用が回復を助けたのかもしれません。ブリタニカ百科事典では、この信仰治療の方法こそが張道陵の教団を一般民衆にとって特に魅力的なものにした要因であると分析しています(Britannica “Zhang Daoling”)。
社会福祉的な活動
張道陵は病気治療だけでなく、民衆の生活向上にも力を注いだと伝えられています。
たとえば、民に塩の製法(塩水の井戸から塩を煮詰める方法)を教え、これは後に「陵井」(りょうせい)と呼ばれました。また、道路の修繕や公共事業にも力を入れ、信者に軽微な罪を犯した場合は「道路を百歩分だけ修繕する」ことで罪が許されるという制度もありました。
刑罰は用いず、「善道をもって人を治める」——つまり道徳的な教化によって社会秩序を保つという方針を貫いたとされています。
教えの核心:『老子想爾注』と「道」の信仰
張道陵の教団は、老子を教祖として崇め、『老子道徳経』(別名『老子五千文』)を最高の経典としていました。
そして、張道陵自身が(あるいはその孫の張魯が)著したとされるのが『老子想爾注』(ろうしそうじちゅう)です。これは『道徳経』に対する注釈書で、道教の初期教義を知るうえで極めて重要な文献です。原本はすでに失われていますが、敦煌で発見された6世紀の写本断片が現在も大英博物館に所蔵されています。
『想爾注』の思想は大きく三つの柱で構成されています。
一つ目は「道の戒律を守ること」。 「道」とは専一・真誠・清静自然であり、人々が道の戒律を守れば長寿と幸福が得られるという考えです。
二つ目は「長生の方法」。 精気を大切にし、無欲・無為・無名であることが長生の秘訣であるとされています。
三つ目は「帝王も道を行うべき」という思想。 道の実践は道士だけのものではなく、帝王も行うべきだとし、帝王が道を実践すれば太平の世が実現するという政治的なメッセージも含まれていました。
特に注目すべきは、張道陵が「道」と老子を一体のものとして捉えた点です。「道は一であり、一は散じて気となり、気が集まって太上老君となる」——つまり、老子は宇宙の根源である「道」そのものの化身だという思想です。これは老子を哲学者から宗教的な最高神へと昇格させる、道教独自の神学の出発点でもありました。
また、張道陵の教えの重要な特徴として、従来の動物の生け贄(血食)を否定したことが挙げられます。The Encyclopedia of Taoismによれば、天師道の教えの中心は、従来の共同体や国家の神々に捧げられていた血の犠牲を拒否し、新たに啓示された道教の超越的な神々と人間との間に新しい契約を結ぶことでした(Golden Elixir “Tianshi dao”)。
張道陵の「昇天」と三張の継承
伝承によると、張道陵は永寿二年(156年)九月九日に、四川の青城山(せいじょうざん)において弟子の王長・趙昇(ちょうしょう)とともに白昼昇天した(仙人になって天に昇った)とされています。享年123歳と伝えられていますが、これは文字どおりの事実というより、宗教的な伝説として理解すべきでしょう。
英語版Wikipediaによると、張道陵は死の当日に姿を消し、衣服だけを残したとも伝えられています(Wikipedia “Zhang Daoling”)。
張道陵の死後、教団は子の張衡(ちょうこう、「嗣師」と呼ばれる)に引き継がれ、さらにその子の張魯(ちょうろ、「系師」と呼ばれる)へと受け継がれました。この三代を総称して「三張」(さんちょう)と呼びます。
特に三代目の張魯は、教団を大きく発展させた実質的な組織者として重要な人物です。張魯は漢中(現在の陝西省南部から四川省にかけての地域)に、約30年間にわたって一種の政教一致の国家を築き上げました。道路沿いに無料の宿泊施設(義舎)を設置して旅行者に食事と宿を提供し、軽罪には刑罰ではなく道路工事の労働を課すなど、独自の社会福祉制度を実施していたとされています。
215年、魏の曹操が漢中に進攻すると、張魯は降伏しました。しかし曹操は張魯を厚遇し、爵位を与えました。天師道は魏の支配下でも信仰の継続が認められ、これが道教が中国全土に広がるきっかけとなったのです。
龍虎山:天師道の聖地
張魯が曹操に降伏した際、四代目の天師とされる張盛(ちょうせい)が教団の宝物(剣・印・経典)を持って江西省貴渓県の龍虎山に移ったと伝えられています。
龍虎山はかつて張道陵が丹薬を修練した場所であり、以後、天師の子孫が代々ここに住み続けることになります。龍虎山の天師府(天師の住居)は「北の孔子(曲阜の孔子廟)、南の張天師(龍虎山の天師府)」と並び称されるほどの文化的・宗教的権威を持つようになりました(AraChina「龍虎山」)。
龍虎山は2010年にユネスコ世界遺産(自然遺産)にも登録されており、現在は道教の聖地であると同時に、世界的な観光名所にもなっています。
歴代王朝からの封号
張道陵は後世の歴代王朝から数々の封号を贈られています。主なものを時系列で整理すると、唐の玄宗が748年に「太師」の号を贈り、宋の徽宗が1108年に「正一靖応真君」と冊封、元の成宗の時代には「正一冲玄神化静応顕佑真君」と加封されています。明の崇禎帝に至っては「六合無窮高明上帝」という破格の称号を贈りました。
正一派の信者たちの間では、張道陵は「祖天師」「泰玄上相」「大聖降魔護道天尊」といった尊称で呼ばれています。
また、道教の一部の宗派では、張道陵は葛玄(かつげん)、許遜(きょそん)、薩守堅(さしゅけん)とともに「四大天師」の一人に数えられています。
現代まで続く天師の系譜
張道陵の子孫は、天師の地位を世襲で受け継いできました。1949年に中華人民共和国が成立した際、第63代天師の張恩溥(ちょうおんぶ)は台湾に渡りました。龍虎山の天師府は中国大陸に残り、張氏の宗祠(一族の祭祀施設)として保存されています。
現在、天師の称号を主張する人物は台湾と中国大陸の双方に存在しています。台湾側では天師道の伝統が比較的よく保たれており、大陸側でも龍虎山は道教の重要な宗教施設として再整備が進んでいます。
道教全体の歴史の中で見ると、張道陵が創始した天師道の系統は正一道(せいいつどう)と呼ばれ、元代以降は金代に王重陽が興した全真道(ぜんしんどう)とともに道教の二大宗派の一つとして現在まで続いています。正一道は符籙(ふろく、お札や護符)を重視する特徴があり、在家での修行が認められ、肉食や婚姻も許されている点が、出家修行を重視する全真道との大きな違いです。
まとめ:張道陵はなぜ重要なのか
張道陵の功績を一言でまとめるなら、「道家の哲学を、組織的な宗教に変えた人物」ということになるでしょう。
老子が説いた「道」の哲学は、それ自体としては偉大な思想でしたが、教団も儀式も戒律もない知識人のための哲学に過ぎませんでした。張道陵はそこに教団組織(二十四治)、聖職者の階層制度(祭酒)、経典の体系(『道徳経』と『想爾注』)、神学(太上老君への信仰)、そして民衆のための治療と救済の実践を加えることで、道教を一般の人々が参加できる宗教へと変貌させたのです。
その教えは子から孫へ、さらに64代以上にわたって受け継がれ、約1900年もの間途絶えることなく続いてきました。これは世界の宗教史の中でも極めて珍しい長期の世襲制度であり、道教という宗教の生命力の強さを物語っています。


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