アンデスの夜空に輝く金星は、古代インカ帝国の人々にとって特別な存在でした。
彼らはこの星を「チャスカ」と呼び、夜明けと夕暮れを司る美しい女神として崇めました。
この記事では、インカ神話における金星の女神チャスカについて、その役割や特徴、文化的意義を詳しく解説します。
概要
チャスカ(Chasca)は、インカ神話における金星の女神です。
夜明けと夕暮れを司り、美の女神、花の創造者、そして乙女の保護者として信仰されました。
太陽神インティ(Inti)の侍従として、常に太陽に寄り添う存在とされています。
名前の意味と由来
ケチュア語の語源
チャスカという名前は、インカ帝国の公用語であったケチュア語に由来します。
正式な名称は「チャスカ・コイルル(Ch’aska Qoyllur)」で、以下の二つの語から成り立っています。
- Ch’aska(チャスカ): 「明けの明星」または「巻き毛・縮れた髪の人」
- Qoyllur(コイルル): 「星」
この名前は、金星が放つ輝かしい光が、黄金色の巻き毛のように見えることに由来していると言われています。
年代記作者による記述
16世紀から17世紀にかけて書かれた年代記には、チャスカの名前について以下のように記されています。
ガルシラソ・デ・ラ・ベガは『インカ皇統記』(1609年)の中で、こう述べています。
金星の星をチャスカと呼び、長く縮れた髪という意味である。太陽の侍従として、太陽に最も近く、時に前を、時に後ろを歩くと言われ、尊敬された。
チャスカの役割と特徴
夜明けと夕暮れの女神
チャスカは、一日の境界となる夜明けと夕暮れを司る女神です。
明けの明星として朝の訪れを告げ、宵の明星として夜の始まりを知らせる存在として信仰されました。
美と花の女神
チャスカは美の女神としても崇められ、特に野の花の創造者とされています。
太陽神インティと協力して、その光によって大地から芽を引き出し、花々を咲かせると信じられていました。
乙女の保護者
チャスカは乙女と若い女性の保護者として、純潔と美徳を守る役割を担っていました。
この点で、ローマ神話の美と愛の女神ヴィーナスと類似した性質を持つとされています。
天候の支配者
インカの人々は、チャスカが天候、特に雲や露を通じて人々に語りかけると信じていました。
彼女が髪を振ると地上に露が降り、それが作物の成長を助けると考えられていました。
金星の女神としての信仰
金星の二つの相
インカの人々は、金星が明けの明星と宵の明星として二つの異なる時間帯に現れることを理解していました。
一部の年代記作者によれば、この二つの状態は別々の神格として扱われることもありました。
- 明けの明星: チャスカ・コイルル(Chasca Coyllur) / アチャチ・ウルリ(Achachi Ururi)
- 宵の明星: チョケチンチャイ(Choquechinchay) / アパチ・ウルリ(Apachi Ururi)
しかし、ガルシラソ・デ・ラ・ベガの記述では、インカの人々がこの二つを同じ星(金星)と認識していたことが示唆されています。
金星については、夕暮れ時に見えたり、明け方に見えたりすることについて、太陽が最も美しい星に対し、太陽の近くを、時には前を、時には後ろを歩くよう命じたと言われていた。
農業との関連
金星の動きは、農業暦と密接に結びついていました。
チャスカの動きを観察することで、農民たちは種まきや収穫の最適な時期を判断したと考えられています。
年代記における記述
ガルシラソ・デ・ラ・ベガ『インカ皇統記』(1609年)
スペイン人征服者の子孫であり、インカ王族の血を引くガルシラソ・デ・ラ・ベガは、『インカ皇統記(Comentarios Reales de los Incas)』の中でチャスカについて記録しています。
彼の記述によれば、チャスカは太陽神殿の中で、月の間の隣に星々と共に祀られていました。
金星の間は銀で装飾され、天井には大小の星が散りばめられ、まるで星空を再現したかのようだったと伝えられています。
「Relación de las costumbres antiguas de los naturales del Pirú」
この年代記には、チャスカについてより詩的な記述があります。
夜明けの女神、乙女と王女の女神、野の花の創造者、曙と薄明と雲霞の支配者。彼女が髪を振ると地上に露を降らせる。それゆえチャスカと呼ばれる。
ブラス・バレラ神父の記録
ブラス・バレラ神父は、古代のキープ(インカの縄文字)から発見したという詩を記録しています。
この詩の中で、チャスカは月の女神ママ・キリャ(Mama Quilla)と共に、雨や雪、雹を降らせる存在として描かれています。
インカ神話におけるチャスカの位置づけ
太陽神インティとの関係
チャスカは、インカ帝国の最高神である太陽神インティと深い関わりを持っていました。
「太陽の侍従」として、常にインティに寄り添い、その光を補完する存在とされています。
一部の伝承では、チャスカはインティの配偶者とも言われますが、これについては年代記作者の間でも記述が異なります。
他の神々との関係
インカ神話には、以下のような主要な神々が存在します。
- ビラコチャ(Viracocha): 創造神
- インティ(Inti): 太陽神、最高神
- ママ・キリャ(Mama Quilla): 月の女神
- パチャママ(Pachamama): 大地母神
- イリャパ(Illapa): 雷神、天候の神
チャスカは、これらの神々の中で「美」「愛」「純潔」を象徴する女神として、特別な位置を占めていました。
インカ神話の記録の困難さ
インカ帝国には文字がなく、神話や伝承は口承で伝えられていました。
1532年から1533年にかけてスペイン人のフランシスコ・ピサロによってインカ帝国が征服されると、多くの伝承が失われました。
さらに、カトリック教会による従来の宗教への弾圧や、ヨーロッパから持ち込まれた病気による人口減少により、征服前の神話の詳細な記録は限られています。
現在残されているチャスカに関する情報も、スペイン人年代記作者の記録に依存しており、インカの人々自身がどのように理解していたかについては、完全には明らかになっていません。
まとめ
チャスカは、インカ神話において以下のような役割を担っていました。
- 金星の女神として、明けの明星・宵の明星を象徴
- 夜明けと夕暮れを司る境界の女神
- 美と花の女神として、自然の美しさを創造
- 乙女と若い女性の保護者
- 太陽神インティの侍従として、常に太陽に寄り添う存在
インカ帝国の滅亡により多くの伝承が失われましたが、スペイン人年代記作者の記録により、チャスカの姿は今日まで伝えられています。


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