「ブルータス、お前もか」――この有名な言葉を聞いたことはありますか?
これは、古代ローマの独裁者ユリウス・カエサルが暗殺される瞬間に発したとされる言葉です。そして、その剣を向けた人物こそが、今回ご紹介するマルクス・ユニウス・ブルトゥスなんです。
彼は、父のように慕っていた恩人カエサルを、なぜ殺さなければならなかったのでしょうか?
この記事では、古代ローマ最大の悲劇とも言える「カエサル暗殺」の中心人物、ブルトゥスの生涯と人物像について詳しくご紹介します。
概要

マルクス・ユニウス・ブルトゥスは、紀元前85年から紀元前42年まで生きた古代ローマの政治家です。
共和政ローマ末期に活躍した人物で、独裁官ユリウス・カエサルの暗殺に関わった中心人物として、歴史にその名を刻んでいます。
現代では「カエサル暗殺」を象徴する人物として記憶されており、16世紀末にシェイクスピアが著した戯曲『ジュリアス・シーザー』の主人公としても有名なんですね。
英語読みのブルータスという名前でも広く知られています。
ブルトゥスの立場
彼の人生は、二つの大きな矛盾に引き裂かれていました。
- 恩人への恩義:カエサルに育てられ、厚遇を受けた
- 共和政への忠誠:ローマの伝統的な政治体制を守りたい
この二つの板挟みが、後の悲劇を生むことになります。
偉業・功績
ブルトゥスの最大の「功績」と言えるのは、やはりカエサル暗殺への参加でしょう。ただし、これを功績と呼ぶべきかは、立場によって大きく変わります。
共和政の守護者として
ブルトゥスは、ローマの伝統的な政治制度である共和政を守るために行動しました。
共和政とは:王や独裁者ではなく、元老院や民会など複数の機関が協力して国を治める仕組みのこと
当時のカエサルは「終身独裁官」という、事実上の王のような権力を持っていました。これに危機感を抱いたブルトゥスは、共和政の敵を倒すという大義のもと、暗殺計画に加わったんです。
政治家としての実績
暗殺の前、ブルトゥスは立派な政治家としてのキャリアを築いていました。
- 紀元前58年:キプロス知事の補佐官
- 紀元前53年:財務官に当選
- 紀元前46年:ガリア総督に就任
- 紀元前45年:法務官に当選
特に注目すべきは、カエサル自身がブルトゥスを法務官に推挙したという点です。それほどカエサルはブルトゥスを信頼し、厚遇していたんですね。
系譜
ブルトゥスの家系は、ローマ史において非常に重要な意味を持っています。
伝説の祖先
彼の家系は、ルキウス・ユニウス・ブルトゥスという伝説的な執政官の末裔とされています。
この先祖は、紀元前509年にローマから王を追放し、共和政ローマを樹立したとされる英雄なんです。
つまり、ブルトゥスにとって「独裁者を倒して共和政を守る」ことは、まさに家系の使命だったわけですね。
複雑な家族関係
ブルトゥスの家族構成は、とても複雑でした。
父方
- 父:マルクス・ユニウス・ブルトゥス・マイヨル(大ブルトゥス)
- 父は若くして政治的な抗争で殺害された
母方
- 母:セルウィリア・カエピオニス
- 母方の叔父:小カトー(有名な政治家)
- 母はカエサルの愛人だったという説もある
幼くして父を失ったブルトゥスは、母の愛人であったカエサルに父親代わりに育てられました。一部の歴史家は「カエサルがブルトゥスの実父だったのではないか」という説まで唱えています。
養子としての名前
ブルトゥスは成長過程で、母方の親族であるセルウィリウス氏族カエピオ家に預けられ、養子となっていた時期がありました。
そのため、クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ・ブルトゥスという名前を名乗っていたこともあります。カエサル暗殺後には、この養子としての名前を再び使用しています。
これは、セルウィリウス氏族も独裁者を討ち果たした祖先を持っており、共和制下での独裁を倒したという点で、より自分の行動を正当化できると考えたからでしょう。
姿・見た目
残念ながら、ブルトゥスの外見について詳しく記録した同時代の資料は、ほとんど残っていません。
推測される容姿
当時のローマ貴族の一般的な特徴から推測すると、こんな感じだったと考えられます。
- 地中海地方の人々らしい浅黒い肌
- ローマ貴族らしい威厳のある顔立ち
- トーガ(ローマ市民の正装)を身にまとった姿
トーガとは:古代ローマの市民が着用した、大きな一枚布を体に巻き付ける形式の衣服
後世の芸術作品での描かれ方
ブルトゥスは、後世の多くの絵画や彫刻で描かれています。
ただし、これらは実際の容姿というよりも、芸術家たちが想像で描いたものです。多くの作品では、高潔で思慮深い表情の人物として描かれています。
シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』では、ブルトゥスは知的で哲学的な性格の人物として描かれており、この影響もあって、後世のイメージが形成されていきました。
特徴

ブルトゥスという人物を理解するには、彼の複雑な性格と行動原理を知る必要があります。
哲学者としての一面
ブルトゥスは単なる政治家ではなく、哲学にも深い関心を持っていました。
特にプラトン哲学の影響を強く受けており、この哲学には「不正な支配者(暴君)を倒すことは正義である」という考え方があったんです。
この思想が、カエサル暗殺という行動の理論的な支えになったと考えられています。
誠実で原則を重んじる性格
ブルトゥスは、個人的な感情よりも公的な義務を優先する人物でした。
実際、ローマ内戦が始まった時、多くの人はブルトゥスがカエサル側につくと予想していました。なぜなら、カエサルはブルトゥスの恩人だったからです。
しかし、ブルトゥスは意外にもカエサルの敵であったポンペイウスの側につきました。父の仇であるポンペイウスと手を組んだのは、元老院の決定に従うという公的な原則を優先したからなんです。
葛藤する心
カエサル暗殺の計画に加わるまで、ブルトゥスは長い間悩んだと伝えられています。
彼を苦しめた葛藤
- カエサルへの個人的な恩義
- ローマの伝統(共和政)を守る義務
- 家系の使命(独裁者を倒す)
最終的に、彼は個人の恩義よりも共和政への忠誠を選びました。これが、歴史上最も有名な暗殺事件へとつながっていきます。
伝承
ブルトゥスにまつわる伝承の中心は、やはり紀元前44年3月15日のカエサル暗殺です。
暗殺への道
当初、ブルトゥスは暗殺の謀議には加わっていませんでした。しかし、周囲から強く促されるようになります。
暗殺の首謀者であるカッシウス・ロンギヌスが、伝説の祖先ルキウス・ブルトゥスの銅像の前に手紙を置き、ユニウス氏族の使命を思い起こさせたと言われています。
ただし、この有名な逸話はシェイクスピアによる創作と見られています。
実際には、カエサルの独裁的な振る舞いに対して、元老院議員として率直に反感を抱いたのだろうと考えられています。
3月15日の悲劇
暗殺当日、カエサルの妻カルプルニアは悪夢を見たという理由で、夫が議場へ向かうのを止めようとしていました。
暗殺計画が露見したかのように思われましたが、ブルトゥスは諦めずにカエサルを元老院で待ち続けました。
そして、カエサルがついに元老院を訪れると、複数の議員が短剣で襲いかかります。ブルトゥスも最初の一撃を加えた人物の一人だったとされています。
「お前もか」の真実
シェイクスピアの戯曲で有名になった「ブルトゥス、お前もか (Et tu, Brute?)」という言葉。
実はこれ、シェイクスピアの創作なんです。
古代の歴史家スエトニウスは、カエサルが「息子よ、お前もか?」という言葉をギリシャ語で言ったと記録しています。ただし、これすらも本当に言ったかどうかは不明です。
より信頼できる資料によれば、カエサルは致命傷を受けた後、何も言わずにトーガで自分の顔を覆ったとされています。
暗殺後の運命
暗殺後、元老院はブルトゥスらの罪を許す恩赦を決議しました。しかし、状況は急速に悪化していきます。
カエサルの腹心であったマルクス・アントニウスと、カエサルの養子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)が手を結び、ブルトゥスらを追い詰めていきました。
フィリッピの戦い
紀元前42年10月、ギリシアのフィリッピで決戦が行われました。
アントニウスの優れた戦術によって、ブルトゥス軍は壊滅的な敗北を喫します。敗北を悟ったブルトゥスは、捕虜になることを潔しとせず、自ら命を絶ちました。
ブルトゥスの遺骸を見つけたアントニウスは、自らが纏っていた紫色の外套をその上に掛け、手厚く葬るよう命じたと伝えられています。これは、かつてアントニウスとブルトゥスが友人であったことを示しています。
出典・起源
ブルトゥスに関する情報は、古代ローマの歴史書から得られています。
主要な史料
プルタルコス『英雄伝』
- ギリシャの歴史家プルタルコスによる伝記集
- ブルトゥスの生涯を詳しく記録している
- ただし、カエサル暗殺については劇的に描きすぎている面も
スエトニウス『ローマ皇帝伝』
- ローマの歴史家スエトニウスによる皇帝たちの伝記
- カエサルの項でブルトゥスについても言及
- 「お前もか」の元となった記述がある
アッピアノス『ローマ史』
- ギリシャ系ローマ人の歴史家による歴史書
- 内戦の時代を詳細に記録している
カッシウス・ディオ『ローマ史』
- 2世紀のローマの歴史家による記録
- より客観的な視点から事件を記述
シェイクスピアの影響
16世紀末のイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアが書いた戯曲『ジュリアス・シーザー』は、ブルトゥスのイメージ形成に大きな影響を与えました。
この劇では、ブルトゥスは高潔で哲学的な人物として描かれており、この影響で後世の人々のブルトゥス像が形成されています。
まとめ
マルクス・ユニウス・ブルトゥスは、恩義と正義の間で苦悩した悲劇の人物です。
重要なポイント
- 紀元前85年~紀元前42年に生きた古代ローマの政治家
- 共和政を樹立した伝説の祖先を持つ名家の出身
- カエサルに育てられながらも、共和政を守るために暗殺に加わった
- 「ブルトゥス、お前もか」は実はシェイクスピアの創作
- フィリッピの戦いで敗北し、自害して生涯を終えた
- 後世では「裏切り者」と「共和政の守護者」という両極端な評価を受ける
ブルトゥスの生涯は、個人的な恩義と公的な義務のどちらを優先すべきかという、永遠のテーマを私たちに問いかけています。
彼の選択が正しかったのか間違っていたのか。それは、見る人の立場によって、今でも評価が分かれるところなんですね。

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