古代中国で、酒池肉林にふける暴君を倒し、新しい王朝を打ち立てた英雄がいました。
その名は武王(ぶおう)、本名は姫発(きはつ)。
父の遺志を継ぎ、わずか5万の軍勢で70万の大軍を破り、800年続く周王朝の礎を築いた伝説の君主です。
この記事では、中国史上最も重要な革命「殷周革命」を成し遂げた武王の生涯と、その偉業について詳しくご紹介します。
概要

武王(ぶおう)は、紀元前11世紀頃に殷(商)王朝を滅ぼし、周王朝を建国した初代の天子です。
本名は姫発(きはつ)といい、「武王」というのは死後に贈られた諡号(しごう)なんです。諡号というのは、その人の生前の功績を称える名前のこと。「武」という字は「武力に優れた王」という意味を込めて贈られました。
中国の歴史上、「武王」と呼ばれる王は何人もいますが、単に「武王」といえば、この周の武王を指すことがほとんど。それだけ歴史的に重要な人物なんですね。
父は文王(姬昌)という名君で、殷王朝で最高位の官職「三公」の地位にありながら、領土を拡大していた実力者でした。武王はその父の遺志を受け継ぎ、伝説の軍師太公望(呂尚)の支えを得て、暴君・紂王を倒すという偉業を成し遂げます。
偉業・功績
武王の最大の功績は、何といっても殷周革命を成し遂げたことです。
牧野の戦い
武王が王位を継いで2年後、ついに殷討伐の時が来ました。
この戦いは「牧野の戦い」と呼ばれ、中国史上最も劇的な戦いの一つとされています。
両軍の戦力差
- 周軍:戦車300台、将校3,000人、兵士45,000人
- 殷軍:70万を超える大軍
数字だけ見れば、周軍に勝ち目はないように思えますよね。
ところが、殷軍には致命的な弱点がありました。その大半が奴隷兵や捕虜として無理やり戦わされていた人々だったんです。他の部族から連れてこられた人や、戦争で捕まった人たちが多く、紂王への忠誠心なんてありませんでした。
そのため、武王の軍が攻めてくると、殷の兵士たちはこぞって寝返り、逆に殷軍に襲いかかったのです。これを「前徒倒戈(ぜんとどうか)」といい、「前線の兵士が武器を逆さまにして味方を攻撃した」という意味なんですね。
紂王の最期
大敗した紂王は都に逃げ帰り、焼身自殺を遂げました。
武王は紂王の焼け爛れた遺体に3本の矢を放ち、黄金の斧で首を切り落として、旗の先に掲げたといいます。これは、暴君の時代が完全に終わったことを示す象徴的な行為でした。
周王朝の建国
殷を滅ぼした武王は、鎬京(こうけい、現在の陝西省西安市付近)を都として周王朝を建国しました。
さらに、副都として洛邑(らくゆう)も整備します。
建国後の武王は、寛大な政治を行いました。
武王の統治政策
- 殷の紂王に殺された比干の墓を改葬し、その功績を称えた
- 紂王によって投獄されていた賢者箕子を解放し、朝鮮に封じた
- 紂王の息子武庚に殷の祭祀を続けさせた(懐柔政策)
- 古代の聖王たちの子孫を探し出して各地に封じた
- 功臣たちに領地を与えた(封建制度の始まり)
特に重要なのが、「天下の武器を廃して兵士を故郷に返す」という宣言をしたこと。もう戦争はしないという意思表示をすることで、人々に平和が訪れたことを示したんです。
武王は後世、父の文王、夏の禹、殷の湯王とともに聖王として崇められるようになりました。
系譜
武王の家系を見てみましょう。
父母
- 父:文王(姬昌、西伯)- 殷の三公の位にあった名君
- 母:太姒(たいじ)- 文王の正妻
文王は15歳の時に武王をもうけたとされています。
兄弟
武王には多くの兄弟がいました。
- 兄:伯邑考(はくゆうこう)- 長男だったが、紂王によって殺された
- 弟:管叔鮮、周公旦、蔡叔度、衛康叔、霍叔処など多数
特に重要なのが同母弟の周公旦です。彼は武王の死後、幼い成王を補佐し、周王朝の基礎を固めた偉大な政治家として知られています。
妻子
- 正妻:邑姜(ゆうきょう)- 太公望(呂尚)の娘
- 子:成王(誦)、唐叔虞、邘叔、應侯、韓侯など
長男の成王が武王の後を継ぎ、周王朝2代目の天子となりました。
十乱(じゅうらん)
武王を支えた10人の重臣を「十乱」と呼びます。
『尚書』には「予(武王)には乱臣(治める臣下)が10人おり、心を一つにして協力した」と記されているんです。
十乱のメンバー
- 周公旦(弟)
- 召公奭
- 太公望(呂尚)
- 畢公高
- 榮伯
- 太顛
- 閎夭
- 散宜生
- 南宮适
- 文母(武王の母・太姒、または妻・邑姜)
興味深いのは、10人目が女性だということ。武王の母か妻のどちらかとされていますが、いずれにしても女性が重要な政治的役割を担っていたことが分かります。
姿・見た目
残念ながら、武王の容姿について詳しく記した史料は残っていません。
ただし、古代中国の伝統的な帝王の描写から、いくつかのことが推測できます。
武王のイメージ
- 威厳ある風貌:王としての権威を示す堂々とした姿
- 武人らしい体格:「武王」という諡号から、武芸に優れた体つきだったと考えられる
- 冠と礼服:周王朝の創始者として、格式高い服装をしていた
清朝時代に作られた『歴代帝王図』などの絵画では、武王は威厳ある顔立ちで、立派な冠をかぶり、礼服を身にまとった姿で描かれています。もちろん、これは後世の想像によるものですが、人々が武王をどう見ていたかを知る手がかりにはなりますね。
特徴

武王には、英雄王としてのいくつかの特徴があります。
父の遺志を継ぐ強い決意
武王の兄・伯邑考は、紂王によって殺されました。
しかも、紂王は伯邑考の肉を料理して、父の文王に食べさせるという残虐な行為をしたんです。文王も紂王に疑われ、幽閉されるという屈辱を味わいました。
武王は父の死後、この恨みを晴らすために立ち上がります。父の木主(位牌)を戦車に載せて出陣したというエピソードが象徴的ですね。自分は単なる反逆者ではなく、父の遺志を継ぐ者だと宣言したんです。
慎重かつ大胆な戦略家
武王は即位して9年目、一度殷討伐のために兵を進めました。
この時、盟津(めいしん)という場所まで進軍すると、なんと800もの諸侯が武王のもとに集まってきたんです。諸侯たちは「今こそ殷を倒す時です!」と意気込みました。
ところが、武王は「まだ時期尚早だ」として、兵を引き上げたのです。
これは武王の慎重さを示すエピソード。確実に勝てる時まで待つという判断力があったんですね。そして2年後、紂王の暴政がさらにひどくなった時、満を持して出陣し、見事に勝利を収めました。
寛大な統治者
勝利した後の武王の行動も特徴的です。
殷を完全に滅ぼすのではなく、紂王の息子に祭祀を続けさせたり、古代の聖王たちの子孫を各地に封じたり、寛大な政策を取りました。これは単なる征服者ではなく、天下を治める正当な王としての姿勢を示すものでした。
憂国の心
『呂氏春秋』には、武王が天下を得た後も「夜も眠れないほど国を憂えた」と記されています。
権力を手に入れても驕らず、常に民のことを考えていた。これが武王が聖王として崇められた理由の一つなんです。
伝承
武王にまつわる有名な伝承をご紹介します。
伯夷・叔斉の諫言
武王が殷討伐に向かう途中、二人の賢者が現れて武王を止めようとしました。
その名は伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)。
二人は孤竹国の王子でしたが、互いに王位を譲り合った末に国を出て、流浪していた人物です。文王の徳を慕って周に向かいましたが、すでに文王は亡くなっていました。
二人は武王の軍に出くわすと、馬の手綱をつかんで諫めました。
「父が死んだのに葬儀も済まさず戦争をするのは、孝といえるでしょうか。臣下でありながら君主を討つのは、仁といえるでしょうか」
これは的を射た批判でした。武王の家臣たちは二人を殺そうとしましたが、太公望が「これは義人である」として止め、二人を丁重に去らせました。
伯夷・叔斉の最期
武王が紂王を倒した後、伯夷と叔斉は「周の粟(穀物)を食べるのは恥だ」として、首陽山に隠れ住みました。
そして、ワラビやゼンマイなどの山菜だけを食べて生活し、最後には餓死してしまったのです。
この話は後世、「義に生きた人物」として称賛されるようになりました。日本でも、徳川光圀(水戸黄門)が『史記』の「伯夷列伝」に感銘を受け、それまでの放蕩な生活を改めたという逸話があります。
武王の早逝
建国後、武王は病にかかりました。
『周書』には、弟の周公旦が「私の命を兄の代わりに」と神に祈った話が記されています。しかし、その願いもむなしく、武王は建国わずか3年後に亡くなってしまいました。
享年については諸説あり、45歳、54歳、60代、93歳、94歳など、文献によってバラバラです。現代の研究者の多くは、武王は30代半ば頃に亡くなったと考えています。
武王は幼い息子の成王に後を託し、周公旦や太公望に補佐を頼んで世を去りました。その死は、周王朝にとって大きな試練となりましたが、優れた家臣たちの支えにより、周は800年にわたって続く長命の王朝となったのです。
出典・起源
武王の物語は、多くの古典文献に記されています。
主な史料
『史記』
中国の歴史家・司馬遷が紀元前1世紀に著した歴史書。「周本紀」に武王の事績が詳しく記されています。後世の中国史の基本文献となりました。
『尚書』
古代中国の政治文書や演説を集めた書物。「牧誓」「武成」などの章に、武王の言葉や殷討伐の記録が残されています。孔子が編纂したとも伝えられる重要な古典です。
『詩経』
中国最古の詩集。周王朝の建国を称える詩が含まれており、武王の功績を讃える内容があります。
『竹書紀年』
戦国時代の魏の墓から出土した歴史書。武王の年齢について独自の記述があり、研究者の間で議論の対象となっています。
考古学的発見
20世紀以降、甲骨文字や青銅器の銘文から、殷周交代期の歴史的証拠が次々と発見されています。
特に青銅器の銘文には「武王」の名が刻まれたものがあり、武王が実在の人物であったことを裏付けています。
年代について
武王の在位期間については、研究者の間でも意見が分かれています。
夏商周断代工程(中国の国家プロジェクト)の結論では、武王の在位を紀元前1046年〜紀元前1043年としていますが、これもあくまで推定です。
『剣橋中国史』(ケンブリッジ大学出版)では、紀元前1049年〜紀元前1043年頃としています。
いずれにしても、紀元前11世紀の中頃に、武王による殷周革命が起こったことは間違いないでしょう。
後世への影響
武王の物語は、中国文化に深く根付いています。
儒教思想では、武王は「暴君を倒した正義の英雄」として理想化されました。
道教では、武王を霊宝天尊(道教の最高神の一つ)の化身とする説もあります。
また、明代に書かれた伝奇小説『封神演義』では、武王が主要な登場人物の一人として描かれ、太公望や哪吒といった仙人や神々の助けを得て紂王を倒す物語として、エンターテインメント化されました。日本でも、漫画家・藤崎竜による『封神演義』で広く知られるようになりましたね。
まとめ
武王(姫発)は、古代中国史上最も重要な革命を成し遂げた英雄王です。
重要なポイント
- 殷の暴君・紂王を倒し、周王朝を建国した初代天子
- 父・文王の遺志を継ぎ、軍師・太公望の支えを得て革命を実現
- わずか5万弱の軍で70万の大軍を破った牧野の戦いで勝利
- 寛大な統治政策により、民心を掴んだ
- 建国わずか3年で病没したが、後世に聖王として崇められた
- 周王朝は800年続く長命の王朝となった
- 『史記』『尚書』など多くの古典に記録が残る
- 儒教では理想の君主の一人として尊敬される
武王の物語は、単なる権力闘争ではなく、「暴政を倒し、正しい統治を実現する」という理想を体現したものとして、3000年以上経った今でも語り継がれています。
父の恨みを晴らし、民を救うために立ち上がった若き王。その勇気と決断が、中国史上最も長く続いた王朝の礎を築いたのです。

