仏教を広めた人・伝えた人は誰?世界と日本に教えを伝えた偉人たちを徹底解説

神話・歴史・伝承

お寺に行ったり、歴史の授業で「仏教」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか?

仏教は約2600年前にインドで生まれ、現在では世界中で5億人以上が信仰する大きな宗教になっています。
でも、インドで生まれた教えが、どうやって遠く離れた日本まで伝わってきたのか、気になりませんか?

実は、仏教が世界に広まった背景には、命をかけて教えを伝えようとした多くの人々の存在があります。
王様から一般の僧侶まで、さまざまな人たちが仏教の教えを広めるために尽力してきたのです。

この記事では、仏教を広めた人・伝えた人を、インドから日本まで時代順にわかりやすく紹介していきます。


スポンサーリンク

仏教はどうやって広まったの?

仏教が広まるまでの大きな流れ

仏教が世界に広まった経路は、大きく分けて2つあります。

南伝仏教(上座部仏教)

  • インドからスリランカへ
  • その後、東南アジア(タイ、ミャンマー、カンボジアなど)へ

北伝仏教(大乗仏教)

  • インドから中央アジアを経由して中国へ
  • 中国から朝鮮半島を経て日本へ
  • チベットにも伝播

日本に伝わったのは「北伝仏教」のルートです。
シルクロードという交易路を通じて、商人や僧侶たちが経典を運び、各地で翻訳されながら伝わっていきました。


仏教の始まり──釈迦(ブッダ)

どんな人物?

仏教を最初に始めた人物は、釈迦(しゃか)です。
本名はゴータマ・シッダールタといい、紀元前5世紀頃のインドに生まれました。

釈迦は「シャカ族の王子」として裕福な暮らしをしていましたが、29歳のときに人生の苦しみについて深く考えるようになります。
そして城を出て修行の旅に出かけ、35歳で悟りを開きました。

「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味で、悟りを開いた釈迦のことを指します。

釈迦が行ったこと

悟りを開いた後、釈迦は約45年間にわたってインド各地を歩き回り、自らの教えを説きました。

釈迦が広めた教えの特徴は以下の通りです。

  • カースト制度を否定 – 身分に関係なく誰でも救われると説いた
  • 口頭で教えを伝えた – 自分では書物を残さなかった
  • 弟子を各地に派遣 – 現地の言葉で教えを広めるよう指示した

釈迦は80歳で亡くなりましたが、その頃には数千人の弟子がいたとされています。

釈迦の死後

釈迦が亡くなった後、弟子たちは師の教えを口頭で伝え続けました。
定期的に集会を開いて教えの内容を確認し、やがて紀元前1世紀頃には文字に書き残されるようになります。

こうして作られた教えをまとめた書物が「経典」です。


インドで仏教を広めた人──アショーカ王

どんな人物?

アショーカ王(在位:紀元前268年頃~紀元前232年頃)は、古代インドのマウリヤ朝の王様です。

最初は残忍な王として知られ、武力でインドのほとんどを統一しました。
しかし、ある戦争で多くの犠牲者を出したことを深く後悔し、仏教に帰依するようになります。

アショーカ王が行ったこと

仏教に帰依した後、アショーカ王は仏教を広めるために積極的に動きました。

  • 石柱や岩に仏教の教えを刻んだ碑文を建てた
  • 僧侶を集めて経典の編纂(第三結集)を行った
  • スリランカに弟を派遣して仏教を伝えた
  • 各地に仏舎利(釈迦の遺骨)を納めた塔を建設した

アショーカ王の時代に、仏教は初めてインドの外へ広がり始めました。
現在のインド国旗の中央にある車輪模様は、アショーカ王の石柱に刻まれた仏教のシンボルが元になっています。

なぜ重要な人物なの?

アショーカ王がいなければ、仏教はインドの一地方の宗教で終わっていたかもしれません。
王の権力を使って仏教を保護し、海外にまで伝道師を派遣したことで、仏教は世界宗教への第一歩を踏み出したのです。


中国に仏教を伝えた人──鳩摩羅什と玄奘三蔵

仏教がインドから中国に伝わるためには、経典を翻訳する必要がありました。
インドの言葉で書かれた経典を中国語に訳した人たちの功績は、とても大きいものです。

鳩摩羅什(くまらじゅう)

鳩摩羅什(344年~413年)は、中央アジア出身の僧侶で、仏教経典の翻訳者として知られています。

彼が翻訳した経典は300巻以上にのぼり、その美しい文章は現在でも読み継がれています。

鳩摩羅什が翻訳した主な経典は以下の通りです。

  • 法華経 – 日本の天台宗や日蓮宗で重視される経典
  • 阿弥陀経 – 浄土宗や浄土真宗で読まれる経典
  • 般若心経 – 最も有名な仏教経典の一つ

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)

玄奘三蔵(602年~664年)は、唐の時代の中国の僧侶です。
「西遊記」の三蔵法師のモデルになった人物としても有名ですね。

玄奘は629年に中国を出発し、インドまで約17年かけて往復しました。
持ち帰った経典は657部にもおよび、その後の生涯をかけて翻訳作業に取り組みました。

玄奘の功績は以下の点にあります。

  • 大量の経典をインドから持ち帰った
  • 正確な翻訳で仏教の教えを中国に伝えた
  • 旅行記「大唐西域記」を残し、当時の中央アジアやインドの様子を伝えた

鳩摩羅什と玄奘三蔵がいなければ、日本に仏教が伝わることはなかったかもしれません。
日本で読まれている経典の多くは、彼らが中国語に翻訳したものがベースになっているのです。


日本に仏教を伝えた人──百済の聖明王と聖徳太子

日本への仏教伝来

日本に仏教が公式に伝わったのは、6世紀半ば(538年または552年)のことです。
朝鮮半島の百済(くだら)という国の聖明王(せいめいおう)が、欽明天皇に仏像や経典を贈ったのが始まりとされています。

当時、百済は高句麗や新羅と争っており、日本との同盟関係を強化するために仏教を伝えたと考えられています。

聖徳太子(しょうとくたいし)

日本で仏教を広めた最も重要な人物は、聖徳太子(574年~622年)です。

聖徳太子は推古天皇の摂政として政治を行いながら、仏教の普及に力を入れました。

聖徳太子が行ったことは以下の通りです。

  • 十七条憲法の制定 – 第二条で「篤く三宝を敬え」と仏教を尊ぶよう定めた
  • 四天王寺や法隆寺の建立 – 日本最古級の寺院を建てた
  • 三経義疏の執筆 – 法華経、維摩経、勝鬘経の解説書を書いた
  • 遣隋使の派遣 – 中国から仏教をさらに学ぶため使節を送った

聖徳太子の活動により、仏教は貴族や皇室の間で広く受け入れられるようになりました。

蘇我氏と物部氏の対立

仏教が日本に伝わった当初、受け入れるかどうかで激しい対立がありました。

  • 蘇我氏 – 仏教を受け入れるべきと主張
  • 物部氏 – 日本古来の神を大切にすべきと反対

この争いは蘇我氏側の勝利に終わり、仏教は日本に定着していくことになります。


日本に戒律を伝えた人──鑑真(がんじん)

どんな人物?

鑑真(688年~763年)は、中国・唐の高僧で、日本に正式な戒律を伝えた人物です。

「戒律」とは、僧侶が守るべきルールのこと。
当時の日本には正式な戒律の制度がなく、誰でも簡単に僧侶になれてしまう状態でした。
そこで聖武天皇は、唐から戒律に詳しい僧侶を招くことを決めたのです。

6度の渡航失敗と失明

742年、日本からの僧侶・栄叡と普照が鑑真のもとを訪れ、日本への渡航を依頼しました。
鑑真は弟子たちに声をかけましたが、危険な航海を恐れて誰も手を挙げません。

そこで鑑真は自ら渡航することを決意します。
しかし、その後の渡航は困難を極めました。

  • 1回目 – 弟子の密告により中止
  • 2回目 – 暴風雨で船が難破
  • 3回目 – 弟子の密告で中止
  • 4回目 – 官吏に阻止される
  • 5回目 – 暴風雨で海南島まで漂流、この苦難で両眼を失明

5度も失敗し、66歳で失明してもなお、鑑真は諦めませんでした。

6度目の成功と日本での活動

753年、鑑真は遣唐使船に乗り込み、ついに日本への渡航に成功します。
最初の挑戦から実に12年の歳月が経っていました。

日本に到着した鑑真は、以下のような活動を行いました。

  • 東大寺に戒壇を設置 – 聖武上皇や光明皇太后など約400人に授戒
  • 唐招提寺の建立 – 律宗の総本山として759年に創建
  • 悲田院の設立 – 貧しい人々を救済する施設を作った
  • 薬学や彫刻の知識を伝えた

鑑真が日本にもたらしたのは戒律だけではありません。
仏教の経典、書道の技術、医薬品の知識、建築技術など、多くの文化が鑑真とともに伝わったのです。


平安時代に仏教を広めた人──空海と最澄

奈良時代に栄えた仏教が政治に口を出すようになると、桓武天皇は新しい仏教を求めました。
そこで登場したのが、空海最澄です。

最澄(さいちょう)

最澄(767年~822年)は、天台宗の開祖です。

804年に遣唐使とともに中国に渡り、天台山で天台宗を学びました。
帰国後は比叡山に延暦寺を建て、多くの弟子を育てています。

最澄の特徴は、「すべての人が仏になれる」という考えを広めたことです。
後の鎌倉仏教を開いた法然、親鸞、道元、日蓮などは、みな比叡山で学んでいます。

空海(くうかい)

空海(774年~835年)は、真言宗の開祖です。

最澄と同じ804年に中国に渡り、密教を学びました。
帰国後は高野山に金剛峯寺を建て、真言密教を広めました。

空海は仏教だけでなく、以下のような分野でも活躍しました。

  • 書道 – 三筆の一人として有名
  • 教育 – 庶民のための学校「綜芸種智院」を設立
  • 土木事業 – 満濃池の修築など

「弘法大師」という名前でも親しまれ、今でも「お大師さま」として広く信仰されています。


鎌倉時代に仏教を広めた人たち

平安時代末期になると、世の中が乱れ、人々は不安を感じるようになりました。
そんな中、誰でも救われる「易しい仏教」を説く僧侶たちが現れます。

法然(ほうねん)と親鸞(しんらん)

法然(1133年~1212年)は、浄土宗の開祖です。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽浄土に生まれ変われると説きました。

親鸞(1173年~1262年)は、法然の弟子で浄土真宗の開祖です。
法然の教えをさらに深め、悪人こそが救われるという「悪人正機説」を唱えました。

栄西(えいさい)と道元(どうげん)

栄西(1141年~1215年)は、臨済宗を日本に伝えました。
宋に渡って禅を学び、鎌倉幕府の保護を受けて禅宗を広めています。
また、日本にお茶を広めた人物としても知られています。

道元(1200年~1253年)は、曹洞宗の開祖です。
宋で学んだ禅の教えを日本に伝え、福井県に永平寺を建てました。
「ただ座ること(只管打坐)」を重視する禅を広めました。

日蓮(にちれん)

日蓮(1222年~1282年)は、日蓮宗の開祖です。
法華経こそが釈迦の真の教えだと主張し、「南無妙法蓮華経」と唱えることを説きました。

日蓮は他の宗派を激しく批判したため、何度も迫害を受けましたが、信念を曲げませんでした。


現代に仏教を広めた人──鈴木大拙

どんな人物?

鈴木大拙(1870年~1966年)は、禅を世界に広めた仏教哲学者です。

明治時代の石川県に生まれ、若くしてアメリカに渡りました。
生涯を通じて英語で仏教や禅の思想を世界に発信し続けたのです。

鈴木大拙が行ったこと

  • 英語で多数の著作を発表 – 禅や仏教について西洋人にわかりやすく解説
  • 大学で教鞭をとる – コロンビア大学などで禅について講義
  • 親鸞の「教行信証」を英訳 – 浄土真宗の教えを世界に紹介

鈴木大拙の影響で、多くの西洋人が禅に興味を持つようになりました。
「ZEN」という言葉が世界で通じるのは、大拙の功績といえるでしょう。


仏教を広めた人・伝えた人 一覧表

人物名時代功績
釈迦(ブッダ)紀元前5世紀頃仏教の開祖、インド各地で教えを説いた
アショーカ王紀元前3世紀インド全土に仏教を広め、スリランカにも伝道
鳩摩羅什4~5世紀法華経など多くの経典を中国語に翻訳
玄奘三蔵7世紀インドから大量の経典を持ち帰り翻訳
聖明王6世紀日本に仏教を公式に伝えた百済の王
聖徳太子6~7世紀日本で仏教を広め、多くの寺院を建立
鑑真8世紀日本に戒律を伝え、唐招提寺を建立
最澄8~9世紀天台宗の開祖、比叡山延暦寺を開く
空海8~9世紀真言宗の開祖、高野山金剛峯寺を開く
法然12~13世紀浄土宗の開祖、念仏の教えを広める
親鸞12~13世紀浄土真宗の開祖、法然の教えを発展
栄西12~13世紀臨済宗を日本に伝える
道元13世紀曹洞宗の開祖、只管打坐を重視
日蓮13世紀日蓮宗の開祖、法華経信仰を説く
鈴木大拙19~20世紀禅を世界に広めた仏教哲学者

まとめ

仏教は約2600年前にインドで釈迦によって始まり、多くの人々の手によって世界中に広められてきました。

仏教が広まった過程を振り返ると、いくつかの共通点が見えてきます。

命をかけた伝道
鑑真のように、何度失敗しても諦めずに教えを伝えようとした人々がいました。

権力者の保護
アショーカ王や聖徳太子のように、権力者が仏教を保護したことで広く普及しました。

翻訳者の功績
鳩摩羅什や玄奘三蔵のように、経典を翻訳した人々がいたからこそ、言葉の壁を越えて教えが伝わりました。

時代に合わせた変化
法然や親鸞のように、時代の人々に合った「わかりやすい仏教」を説いた僧侶たちがいました。

現在、日本には約7万以上の寺院があり、多くの人がお墓参りや初詣などで仏教と関わっています。
その背景には、ここで紹介した人々の努力があったことを、ぜひ覚えておいてください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました