「ブルータス、お前もか」――この言葉を聞いたことはありますか?
信頼していた人からの裏切りを表す、世界で最も有名な言葉の一つです。この言葉の主人公は、古代ローマの独裁者ユリウス・カエサルと、彼を暗殺したマルクス・ユニウス・ブルトゥスという二人の男。
恩人を手にかけた男は、なぜそんな選択をしたのでしょうか?そして、カエサルは本当にこの言葉を言ったのでしょうか?
この記事では、歴史上最も有名な暗殺事件の中心人物・ブルトゥスと、2000年以上語り継がれる伝説の真実についてご紹介します。
概要

マルクス・ユニウス・ブルトゥス(紀元前85年~紀元前42年)は、古代ローマの政治家で、独裁官ユリウス・カエサルを暗殺した中心人物です。
英語読みの「ブルータス」という名前でも広く知られており、16世紀のイギリスの劇作家シェイクスピアが書いた戯曲『ジュリアス・シーザー』の主人公として、世界中で有名になりました。
現代では「裏切り者」の象徴として語られることが多いのですが、一方で「共和政の守護者」として称賛する声もあります。個人的な恩義と公的な義務の間で苦悩した、悲劇の人物なんですね。
「ブルータス、お前もか」の真実
シェイクスピアが生んだ名セリフ
「ブルータス、お前もか(Et tu, Brute?)」というラテン語の言葉は、実はシェイクスピアの創作なんです。
16世紀末の戯曲『ジュリアス・シーザー』で、暗殺されるカエサルが信頼していたブルトゥスの姿を認めた瞬間に叫ぶ言葉として描かれました。シェイクスピアの作品では、カエサルはこう言います。
「ブルータス、お前もか? もはやシーザーもここまでか!」
(Et tu, Brute? Then fall, Caesar!)
この劇的な場面が世界中で上演されたことで、西洋社会では「信頼していた者からの裏切り」を意味する格言として定着したんですね。
歴史書に残された別の言葉
では、本当のカエサルは何と言ったのでしょうか?
古代ローマの歴史家スエトニウスは、紀元2世紀に書いた『皇帝伝』で、カエサルが古代ギリシャ語でこう言ったという噂を記録しています。
「καὶ σὺ, τέκνον(カイ・スュ・テクノン)」
意味:「息子よ、お前もか?」
教養ある古代ローマ人は、日常的にギリシャ語を流暢に話していました。ですから、カエサルがこう言ったとしても不自然ではありません。
「息子よ」という言葉の意味
なぜカエサルはブルトゥスを「息子」と呼んだのでしょうか?
実は、ブルトゥスはカエサルの実の息子だったのではないかという説があるんです。ブルトゥスの母セルウィリアは、カエサルの愛人だったと伝えられています。真相は分かりませんが、カエサルがブルトゥスを実の息子のように可愛がっていたのは確かです。
別の解釈としては、「息子よ、お前も私と同じ末路を辿るだろう」という呪いや予言だったという説もあります。実際、ブルトゥスはこの暗殺の2年後、戦いに敗れて自害することになるんですね。
本当は何も言わなかった?
面白いことに、同じスエトニウスは別の箇所でこうも書いています。
「カエサルは言葉を残す暇もなく、刺されて死んだ」
また、ギリシャの歴史家プルタルコスは『英雄伝』で、こう記録しています。
「カエサルはブルトゥスの姿を見ると、トーガ(ローマ人の正装)で身を覆う仕草を見せた」
つまり、カエサルは何も言わず、ただ顔を覆って死んでいったのかもしれません。死の瞬間に何を言ったかは、永遠の謎なんですね。
ブルトゥスという人物
伝説の英雄の子孫
ブルトゥスの家系は、ローマ史において特別な意味を持っています。
彼の先祖とされるルキウス・ユニウス・ブルトゥスは、紀元前509年にローマから王を追放して、共和政ローマを樹立した伝説的な英雄なんです。
共和政というのは、王や独裁者ではなく、元老院や民会など複数の機関が協力して国を治める仕組みのこと。ブルトゥスにとって、「独裁者を倒して共和政を守る」ことは、まさに家系の使命だったわけですね。
複雑な生い立ち
ブルトゥスの人生は、幼い頃から波乱に満ちていました。
- 父の死:幼い頃、父が政治的な抗争で殺害された
- 母の愛人:母セルウィリアの愛人がカエサルだった
- カエサルの庇護:父を失ったブルトゥスを、カエサルが父親代わりに育てた
つまり、ブルトゥスにとってカエサルは、恩人であり、育ての親であり、もしかしたら実の父だったかもしれない存在なんです。
哲学者としての一面
ブルトゥスは、単なる政治家ではありませんでした。彼はプラトン哲学を深く学んでおり、この哲学には重要な考え方がありました。
「不正な支配者(暴君)を倒すことは正義である」
この思想が、後にカエサル暗殺という行動の理論的な支えになったと考えられています。
誠実すぎた男
ブルトゥスの性格を表すエピソードがあります。
ローマ内戦が始まった時、誰もがブルトゥスは恩人カエサルの側につくと予想していました。ところが、ブルトゥスは意外にもカエサルの敵ポンペイウスの側についたんです。
実は、ポンペイウスはブルトゥスの父の仇でした。それでも、ブルトゥスは元老院の決定に従うという公的な原則を優先したんですね。個人的な恩義や恨みよりも、公的な義務を重んじる人物だったことが分かります。
カエサル暗殺の伝承
紀元前44年3月15日
歴史上最も有名な暗殺事件は、紀元前44年3月15日に起こりました。この日は、ローマ暦で「イデス(15日)」と呼ばれる日でした。
妻の悪夢
暗殺当日の朝、カエサルの妻カルプルニアは恐ろしい悪夢を見ました。
夫が殺される夢を見た彼女は、カエサルが元老院に行くのを必死で止めようとしたんです。一時は暗殺計画が台無しになるかと思われました。
元老院での凶行
しかし、カエサルは結局、元老院を訪れました。
待ち構えていた複数の元老院議員たちが、突然カエサルに襲いかかります。ブルトゥスも、最初の一撃を加えた人物の一人だったとされています。
カエサルは全身に23箇所の刺し傷を受けて、息絶えました。
暗殺後の混乱
カエサルを殺した後、ブルトゥスたちはどうなったのでしょうか?
一時的な恩赦
最初、元老院はブルトゥスたちの罪を許す恩赦を決議しました。暗殺者たちは、自分たちの行動が正当化されると信じていたんです。
アントニウスの反撃
しかし、カエサルの腹心だったマルクス・アントニウスと、カエサルの養子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)が手を結び、復讐を誓いました。
状況は急速に悪化していきます。
フィリッピの戦い
紀元前42年10月、ギリシアのフィリッピで最後の戦いが行われました。
アントニウスの優れた戦術によって、ブルトゥス軍は壊滅的な敗北を喫します。敗北を悟ったブルトゥスは、捕虜になることを潔しとせず、自ら剣に身を投げて命を絶ちました。
かつての友への敬意
ブルトゥスの遺骸を見つけたアントニウスは、自分が纏っていた紫色の外套をその上に掛け、手厚く葬るよう命じたと伝えられています。
かつて友人だった二人。最後の瞬間、アントニウスは敵将としてではなく、友人としてブルトゥスを弔ったんですね。
後世への影響

文学作品での描かれ方
ブルトゥスは、2000年以上にわたって数多くの文学作品に登場してきました。
シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』
最も影響力があったのは、やはりシェイクスピアの戯曲です。
この作品では、ブルトゥスは高潔で哲学的な人物として描かれています。個人的な恩義と公的な義務の間で苦悩し、最終的に「ローマのため」という大義を選んだ悲劇の英雄として表現されているんですね。
ダンテ『神曲』
一方、13世紀イタリアの詩人ダンテは、『神曲』の中でブルトゥスをまったく違う形で描きました。
地獄の最下層で、ブルトゥスは裏切り者の代表として、悪魔ルシファーに永遠に噛まれ続ける罰を受けているんです。同じ罰を受けているのは、イエス・キリストを裏切ったユダと、もう一人の暗殺者カッシウスだけ。
「裏切り」という言葉の象徴
現代の多くの言語で、「Et tu, Brute?(ブルータス、お前もか)」は信頼していた者からの裏切りを表す慣用句として使われています。
面白いことに、フランス、イタリア、スペインなどのロマンス語圏では、シェイクスピア版の「Et tu, Brute」よりも、スエトニウス版の「tu quoque, mi fili(息子よ、お前までが)」の方がよく使われるそうです。
対照的な評価
興味深いのは、ブルトゥスへの評価が時代や立場によって真逆になることです。
裏切り者として
- 恩人を殺した卑怯者
- 個人的な野心のために動いた偽善者
- 地獄に落ちるべき大罪人
英雄として
- 共和政を守ろうとした愛国者
- 私情よりも公益を優先した理想主義者
- 暴君に立ち向かった勇気ある人物
どちらの見方も、一面的には正しいんですね。
まとめ
ブルトゥスとカエサル暗殺の物語は、恩義と正義、個人と国家、友情と義務という永遠のテーマを私たちに問いかけています。
重要なポイント
- 「ブルータス、お前もか」はシェイクスピアの創作で、実際に言われたかは不明
- 歴史書には「息子よ、お前もか?」というギリシャ語の言葉が記録されている
- ブルトゥスは共和政樹立の英雄を祖先に持つ名門の出身
- 哲学者でもあり、プラトン哲学の影響を受けていた
- 恩人カエサルを暗殺したが、それは共和政を守るためだった
- 暗殺後わずか2年で、フィリッピの戦いで敗北して自害
- 後世では「裏切り者」と「英雄」という両極端な評価を受ける
彼の選択が正しかったのか、間違っていたのか。2000年以上経った今でも、答えは出ていません。ブルトゥスの物語は、時代を超えて、人間の永遠の葛藤を映し出す鏡なんですね。

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