「織田信長の妹と結婚しながら、なぜ信長を裏切ったのか?」
浅井長政という名を聞いて、多くの人が抱くのはこの疑問でしょう。
戦国一の美女と称されたお市の方を妻に迎え、一時は信長と強固な同盟を結んでいた長政。
しかし彼は、朝倉氏との古い絆を選び、義兄・信長に刃を向けました。
この選択が、長政の運命を大きく変えることになります。
わずか29年という短い生涯の中で、長政は何を守ろうとしたのでしょうか?
この記事では、浅井長政の波乱に満ちた人生を追いかけます。
浅井長政の基本情報
浅井長政は、天文14年(1545年)に生まれた北近江の戦国大名です。
幼名は猿夜叉丸といいます。
父は浅井久政、祖父は北近江に勢力を築いた浅井亮政です。
しかし長政が生まれた頃、浅井家は南近江の六角氏に従属する立場でした。
15歳で元服した長政は、六角義賢から「賢」の一字をもらい「浅井賢政」と名乗ります。
さらに六角氏の家臣・平井定武の娘との結婚を強いられました。
この屈辱的な扱いが、のちの長政の反骨精神を形作ったのかもしれません。
主な呼び名
- 幼名:猿夜叉丸(さるやしゃまる)
- 初名:浅井賢政(あざいかたまさ)
- 通称:新九郎、備前守
- 最終的な名:浅井長政
野良田の戦いと家督相続
永禄3年(1560年)、16歳の長政に転機が訪れます。
六角氏の圧力に耐えかねた浅井家の重臣たちが、父・久政に隠居を強要。
長政が家督を継ぐことになったのです。
長政はまず、六角氏から押し付けられた妻を実家に返しました。
これは六角氏への宣戦布告に等しい行為です。
怒った六角義賢は、浅井方についた肥田城を攻撃。
そして同年8月、両軍は野良田で激突しました。
兵力は六角軍25,000に対し、浅井軍はわずか11,000。
圧倒的不利な状況です。
しかし長政は巧みな戦術で六角軍を撃破。
この勝利で、長政は北近江に確固たる地位を築きました。
勝利の後、長政は「賢政」という屈辱の名を捨て「新九郎」と改名します。
やがて祖父の受領名を継いで「備前守」を名乗り、永禄4年(1561年)に「長政」と改名しました。
若き長政の武勇は、近隣諸国に轟いたのです。
織田信長との同盟
永禄年間、美濃の斎藤氏と対立していた織田信長は、浅井長政との同盟を模索します。
北近江を味方につければ、美濃を挟み撃ちにできるからです。
信長にとって、長政は戦略上欠かせない存在でした。
永禄10年(1567年)末から永禄11年(1568年)初めにかけて、両家は同盟を締結。
その証として、信長の妹・お市の方が長政のもとに嫁ぎました。
政略結婚でしたが、2人の仲は良かったとされています。
やがて茶々、初、江という3人の娘が生まれました。
永禄11年(1568年)、織田・浅井連合軍は六角氏の観音寺城を攻撃。
六角氏を南近江へ退却させ、浅井氏の宿敵を打ち破ったのです。
この頃が、長政にとって最も幸福な時期だったのかもしれません。
信長との決別
元亀元年(1570年)4月、事態は急変します。
織田信長が越前の朝倉義景を攻撃したのです。
浅井家と朝倉家は、祖父・亮政の代から3代にわたる盟友でした。
長政は織田家との同盟を結ぶ際、「朝倉氏とは戦わない」という約束を信長から取り付けていたとされています。
しかし信長はその約束を破ったのです。
長政は苦渋の決断を迫られました。
新しい同盟相手の信長か、古くからの盟友・朝倉か。
最終的に長政は、朝倉との絆を選びます。
浅井軍は越前へ向かう織田軍を背後から急襲しました。
これが「金ヶ崎の戦い」です。
挟み撃ちとなった信長は、命からがら京都へ逃げ帰ります。
この戦いは「信長最大の危機」とも呼ばれ、長政の奇襲がなければ信長の天下統一はなかったかもしれません。
姉川の戦い
金ヶ崎から撤退した信長ですが、黙っているはずがありません。
元亀元年(1570年)7月30日、信長は徳川家康と連合し、浅井・朝倉連合軍を迎え撃ちました。
舞台は琵琶湖北部を流れる姉川です。
織田・徳川連合軍は約25,000。
浅井・朝倉連合軍は約18,000でした。
戦いは2つの戦線に分かれます。
織田軍と浅井軍が東で、徳川軍と朝倉軍が西で激突しました。
浅井軍は兵力で劣っていたものの、猛攻で織田軍を押し込みます。
一時は信長の本陣まで迫る勢いでした。
しかし朝倉軍が徳川軍に敗れ、徳川軍が浅井軍の側面を突きます。
挟撃を受けた浅井軍は撤退を余儀なくされました。
姉川の戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わります。
それでも長政は小谷城に籠り、抵抗を続けました。
信長包囲網と孤立
姉川の戦いの後も、長政は戦い続けます。
本願寺、比叡山延暦寺、武田信玄らが信長に対抗する「信長包囲網」が形成され、浅井・朝倉もその一角を担いました。
元亀2年(1571年)、信長は浅井・朝倉軍が立てこもる比叡山延暦寺を焼き討ちします。
多くの僧侶や民衆が犠牲になりました。
元亀3年(1572年)、武田信玄が西上作戦を開始。
信長は窮地に立たされます。
しかし翌元亀4年(1573年)4月、信玄が病死。
さらに7月には足利義昭が信長に降伏します。
信長包囲網は崩壊しつつありました。
長政の状況は日に日に厳しくなっていきます。
朝倉氏の滅亡
天正元年(1573年)8月、信長は朝倉領へ侵攻しました。
浅井家の重臣・阿閉貞征が織田方に寝返ったことで、信長は小谷城を包囲します。
長政を救うため、朝倉義景は約20,000の軍勢を率いて出陣しました。
しかし近隣の砦が次々と織田軍の手に落ちると、義景は早々に撤退を決断。
信長は朝倉軍を追撃し、越前の一乗谷まで攻め込みます。
8月20日、朝倉義景は自害。
500年続いた朝倉氏は滅亡しました。
これで長政は完全に孤立します。
援軍はもう来ません。
小谷城の戦いと最期
朝倉氏を滅ぼした信長は、すぐさま小谷城へ戻りました。
8月26日、信長は約30,000の軍勢で小谷城を包囲します。
城内の浅井軍はわずか5,000でした。
8月27日の夜、羽柴秀吉率いる3,000の兵が京極丸を占拠。
京極丸は本丸と小丸(父・久政が守る曲輪)をつなぐ重要拠点です。
父子は分断されました。
小丸の久政は約800の兵で抗戦しましたが、圧倒的な兵力差の前に自害します。
本丸では、長政が最後の時を過ごしていました。
妻のお市は「共に死ぬ」と言いましたが、長政は説得します。
8月28日の夜、長政はお市と3人の娘を信長のもとへ送り届けました。
政略結婚でしたが、2人の愛情は本物だったのでしょう。
信長はお市を通じて、長政に降伏を勧めます。
しかし長政はこれを拒否しました。
9月1日、赤尾清綱の屋敷で、長政は自害します。
享年29歳でした。
こうして浅井氏は、わずか3代で滅亡したのです。
浅井三姉妹のその後
長政の死後、お市と3人の娘は織田家に引き取られました。
長女・茶々は後に豊臣秀吉の側室となり、淀殿と呼ばれます。
豊臣秀頼の生母となりますが、大坂の陣で自害しました。
次女・初は京極高次と結婚し、常高院と号します。
大坂の陣では、豊臣方と徳川方の仲介役として奔走しました。
三女・江は徳川秀忠の正室となり、崇源院と号します。
3代将軍・徳川家光の生母です。
浅井の血は完全には絶えず、むしろ天下に広がっていったのです。
お市自身は天正10年(1582年)に柴田勝家と再婚しますが、翌年の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、勝家と共に自害しました。
長男の万福丸は小谷城から脱出しますが、後に秀吉の軍に捕らえられ、わずか10歳で処刑されています。
浅井長政の人物像
長政はどのような人物だったのでしょうか?
史料によれば、長政は勇猛果敢で戦上手な武将でした。
16歳で六角軍を破った野良田の戦いは、その才能を証明しています。
一方で、義理堅く誠実な性格だったとも伝えられます。
信長との同盟より朝倉との絆を選んだことが、その証でしょう。
お市との仲も良好で、政略結婚にもかかわらず夫婦の絆は強かったようです。
最期まで妻と娘の安全を気遣った姿が、それを物語っています。
ただし、この義理堅さが運命を変えました。
もし長政が信長との同盟を優先していれば、浅井家の運命は大きく変わっていたかもしれません。
長政の選択は、戦国時代の複雑な人間関係と、武士の生き方を象徴しているのです。
まとめ
浅井長政の生涯をまとめます。
- 1545年に北近江の浅井家に生まれ、幼少期は六角氏の支配下で過ごす
- 1560年、16歳で家督を継ぎ、野良田の戦いで六角軍を破る
- 1567年頃、織田信長の妹・お市の方と結婚し同盟を結ぶ
- 1570年、信長の朝倉攻撃を機に織田家と決別
- 姉川の戦いで敗北するも、小谷城で3年間抵抗を続ける
- 1573年、小谷城の戦いで敗れ、29歳で自害
浅井長政は、義理と友情を貫いた武将でした。
その選択が正しかったかは、誰にもわかりません。
しかし彼の娘たちは、豊臣家や徳川家の重要人物となり、日本の歴史に大きな影響を与えました。
浅井の血は、確かに受け継がれていったのです。
信長を裏切った武将として語られることの多い長政ですが、その人生は単純な裏切りでは片付けられません。
戦国時代の複雑な人間関係の中で、長政は自分なりの正義を貫いたのです。
その選択の先に待っていたのは悲劇でしたが、長政の生き方は今も多くの人の心に残り続けています。


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