アウグスト・ウィルヘルミ(August Wilhelmj)とは?「G線上のアリア」を生んだドイツの天才ヴァイオリニスト

「G線上のアリア」という曲名を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。
クラシック音楽に詳しくなくとも、あの美しい旋律はCMや映画、結婚式などで一度は耳にしたことがあるはずです。
しかし、この名曲を世に送り出した人物の名前を知る人は意外に少ないかもしれません。
その人物こそ、19世紀ドイツを代表するヴァイオリンの巨匠、アウグスト・ウィルヘルミ(August Wilhelmj)です。
この記事では、ウィルヘルミの生涯、ワーグナーとの深い絆、「G線上のアリア」誕生の経緯、そして彼が愛したストラディヴァリウスまで、徹底的に解説します。

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概要

アウグスト・エミール・ダニエル・フェルディナント・ウィルヘルミ(August Emil Daniel Ferdinand Wilhelmj, 1845年9月21日 – 1908年1月22日)は、ドイツ出身のヴァイオリニスト・教育者です。
幼少期から神童と称され、「ドイツのパガニーニ」「ヴァイオリン王」の異名を持ち19世紀の音楽界を席巻しました。
J.S.バッハの管弦楽組曲第3番の第2楽章を編曲した「G線上のアリア」の編曲者として最もよく知られています。
また、リヒャルト・ワーグナーの盟友として1876年の第1回バイロイト音楽祭でコンサートマスターを務めた人物でもあります。

生い立ちと神童の才能

音楽に恵まれた家庭環境

ウィルヘルミは1845年9月21日、ドイツ・ナッサウ公国のウージンゲン(Usingen)に生まれました。
父親は同姓同名のアウグスト・ウィルヘルミで、法学博士の資格を持ちプロイセンの検事総長を務めた法律家でした。
同時に、ハッテンハイム(Hattenheim)にぶどう園を所有し、ヴィースバーデン(Wiesbaden)でワイン商を営んでもいたとされています。
父自身もアマチュアのヴァイオリニストであり、息子の音楽的才能にいち早く気づいた人物でもありました。
母シャルロッテ・ペトリ(Charlotte Petry)は優れたピアニストで、アンドレ(André)、オッフェンバッハ(Offenbach)、フレデリック・ショパンに師事した経歴を持っています。
このような文化的・音楽的に恵まれた家庭環境が、ウィルヘルミの天賦の才を開花させる土台となりました。

「ドイツのパガニーニになるだろう」

ウィルヘルミは1849年、わずか4歳のときにナッサウ公国の宮廷楽長コンラート・フィッシャー(Konrad Fischer)からヴァイオリンの手ほどきを受け始めました。
その上達は驚異的なものだったと伝えられています。
1852年、7歳のウィルヘルミの演奏を聴いた著名なソプラノ歌手ヘンリエッテ・ゾンタークは、こう予言しました。
「この子はドイツのパガニーニになるだろう」――この言葉は、のちに現実のものとなります。

グローヴ音楽辞典によれば、1854年1月8日にルンブルク・アン・デア・ラーン(Lumbourg-on-the-Lahn)で開催されたチャリティ・コンサートに出演したのが初の公開演奏であり、大きな反響を呼びました。
その後、ヴィースバーデンの宮廷劇場での演奏でも聴衆を驚かせたと伝えられています。

リストの推薦でライプツィヒ音楽院へ

1861年、16歳のウィルヘルミの才能は、当時ヨーロッパ楽壇の頂点に君臨していたフランツ・リスト(Franz Liszt)の耳にも届きます。
リストは彼の演奏を聴き、ライプツィヒ音楽院のフェルディナント・ダーヴィト(Ferdinand David)に宛てた推薦状にこう書きました。
「未来のパガニーニを紹介させてください!この子をよく見てやってください!」
ウィルヘルミはダーヴィトのもとでヴァイオリンを学ぶとともに、モーリッツ・ハウプトマン(Moritz Hauptmann)に音楽理論と作曲を、ヨアヒム・ラフ(Joachim Raff)にはフランクフルトで作曲を師事しました。
こうして名教師たちの薫陶を受け、卓越した技巧と深い音楽性を兼ね備えた演奏家として成長していきます。

華々しい演奏キャリア

ヨーロッパ各国への演奏旅行

1865年に本格的な演奏活動を開始したウィルヘルミは、瞬く間にヨーロッパ各国で高い評価を得ました。
1868年1月27日にはエクトル・ベルリオーズ(Hector Berlioz)とともにサンクトペテルブルクで初めて演奏し、大公妃エレナ・パヴロヴナの招きに応えています。
1869年にはフランス、スイス、ベルギーを巡演し、翌1870年にはバリトン歌手サントリー(Santley)とともにイングランド、スコットランド、アイルランドを回りました。
1871年にはオランダ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンへと演奏旅行を拡大しています。
このスウェーデン訪問の際、ストックホルム王立アカデミーの会員に選出され、グスタフ・ヴァーサ勲章の騎士に叙されるとともに、芸術科学大賞を授与されるなど、各国で最高級の栄誉を受けました。
1872年にはベルリンのジングアカデミー演奏会に初登場し、1873年にはウィーンでも初めて舞台に立っています。
Britannicaは彼の演奏を「堂々として威厳があり、豊かな音色」と評しており、「ドイツ式ヴァイオリン奏法の最後の巨匠」と位置づけています。

世界ツアーとスルタンの宮殿

1878年から1882年にかけて、ウィルヘルミは大規模な世界ツアーを敢行しました。
1881年にはオーストラリアにも渡り、シドニーのフリーメイソンズ・ホールで演奏しています。
ただし、オーストラリア公演は芸術的には高く評価されたものの、集客面では十分な成功を収められなかったとされています。
1885年には、オスマン帝国のスルタンの招待を受け、セラリオの女性たちの前で演奏するという異色の体験もしました。
Britannicaによれば、これは当時としても極めて珍しい出来事であったとのことです。

ワーグナーとの絆 ― 第1回バイロイト音楽祭

父のワイナリーから始まった交友

ウィルヘルミとリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)の関係は、音楽を超えた個人的な友情に根ざしたものでした。
ワーグナーは、ウィルヘルミの父が営むヴィースバーデンのワイナリーの常連客であり、一家とは親しい間柄にあったと伝えられています。
この家族ぐるみの付き合いが、のちの音楽史に残る共演へとつながっていくことになります。

1876年、バイロイト音楽祭でのコンサートマスター

1876年8月13日から17日にかけて、バイロイト祝祭劇場で音楽史上の大事件が起こりました。
ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』全4部作の初演です。
指揮はハンス・リヒター(Hans Richter)が務め、ウィルヘルミはコンサートマスター(第1ヴァイオリンの首席奏者)としてオーケストラを率いました。
この初演は音楽史において画期的な出来事であり、ウィルヘルミの名は楽劇の歴史と永遠に結びつくことになったのです。
翌1877年には、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催されたワーグナーの演奏会にも参加しています。
このロンドン公演ではワーグナー本人も臨席しており、リヒターの指揮のもとで演奏が行われました。
近年の研究では、ウィルヘルミが遺したヴァイオリン演奏法に関する著作が、1876年のバイロイト初演における演奏実践を知る貴重な資料として注目されています。

「G線上のアリア」― バッハを世界に届けた編曲

編曲の経緯

ウィルヘルミの名を不朽のものにしたのが、1871年に発表されたJ.S.バッハの管弦楽組曲第3番ニ長調(BWV 1068)第2楽章「アリア(Air)」のヴァイオリンとピアノのための編曲です。
原曲はニ長調で書かれていますが、ウィルヘルミはこれをハ長調に移調し、さらに旋律を1オクターブ低く移しました。
その結果、全ての旋律がヴァイオリンの最も低い弦、すなわちG線のみで演奏可能になったのです。
これが「G線上のアリア(Air auf der G-Saite)」という名称の由来となりました。
ウィルヘルミはさらに、原曲にはないロマン派風の強弱記号を加えています。
ピアニッシモ、スタッカート、弱音器(con sordino)の使用、ピッツィカートといった指示が追加され、バロック音楽の厳格な構造にロマンティックな情感が吹き込まれました。

賛否両論の評価

この編曲はバッハの音楽を広く一般に普及させた功績が認められる一方で、厳格な音楽家たちからは痛烈な批判も浴びました。
当時のヴァイオリン界の巨匠ヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)はこの編曲を「バッハ作品の恥知らずな改ざん」と非難したとされています。

また、イギリスの音楽学者ドナルド・フランシス・トーヴィー(Donald Francis Tovey)も厳しく批判しており、「私のコンサートでは、ハ長調でコントラルト的な深みを見せるのではなく、バッハが書いたとおりのニ長調の天使的な旋律として演奏される」と述べています。

しかし、こうした批判にもかかわらず、ウィルヘルミの編曲は絶大な人気を獲得していきます。
「G線上のアリア」という名称は、今日ではどのような楽器で演奏されようとも、この曲の通称として定着しています。

バッハ復興への貢献と文化的影響

ウィルヘルミの編曲が持つ音楽史的な意義は、バッハの音楽をコンサートホールから一般大衆へと届けた点にあります。

1902年にはチェリストのアレクサンドル・ヴェルジビロービッチ(Aleksandr Verzhbilovich)がこの編曲を録音しており、これはバッハの作品として史上初のレコーディングとされています。
イギリスの指揮者ヘンリー・ウッド(Henry Wood)は、1905年から1930年代にかけてロンドン・プロムスでこの曲を定期的に取り上げています。
20世紀のポピュラー文化にも大きな影響を与え、プロコル・ハルム(Procol Harum)の1967年のヒット曲「青い影(A Whiter Shade of Pale)」には、この編曲からの影響が指摘されています。
映画、テレビCM、冠婚葬祭など、現代の日常生活のさまざまな場面で耳にする機会があり、クラシック音楽の中でも最も広く知られた旋律の一つとなりました。

ウィルヘルミのストラディヴァリウス

1725年製「ウィルヘルミ」

ウィルヘルミが愛用した楽器の中で最も有名なのが、1725年製のストラディヴァリウスです。

楽器商タリジオ(Tarisio)のアーカイブによれば、法学博士でアマチュア・ヴァイオリニストでもあった父親が、1866年にボッホミュール(Bochmühl)から購入したものです。
ウィルヘルミは多くの名器を所有していましたが、この1725年製ストラディヴァリウスを最も気に入っていたとされています。
1896年頃、50代前半で公開演奏から引退する際に手放しており、「最良の状態で引退したい」と語ったと伝えられています。
この楽器はのちに「ウィルヘルミ」の名で呼ばれるようになりました。
1725年はストラディヴァリの「黄金期(Golden Period, 1700年 – 1725年)」の最終年にあたり、この時期の楽器は特に高い評価を受けています。
現在、この楽器は日本音楽財団(Nippon Music Foundation)が2001年に取得し、貸与プログラムを通じてヴァイオリニストに貸し出されています。

その他の所有楽器

ウィルヘルミはストラディヴァリウス以外にも、1843年製のジョヴァンニ・フランチェスコ・プレッセンダ(Giovanni Francesco Pressenda)のヴァイオリン(「エクス=ウィルヘルミ」と呼ばれる)を所有していました。
また、1785年製のグァダニーニ(Guadagnini)も所有しており、こちらは後にイギリス・ドイツ系のヴァイオリニスト、ジャック・リーベック(Jack Liebeck)の手に渡っています。

その他の音楽活動

編曲・作曲作品

ウィルヘルミは「G線上のアリア」以外にも、重要な編曲を残しています。
1883年から1884年にかけて、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調(Op. 6)の第1楽章のオーケストレーションを新たに手がけました。
ワーグナーの「夢(Träume)」をヴァイオリンと小オーケストラのために編曲した作品も知られています。
自身の作品としては、弦楽四重奏曲やヴァイオリンとオーケストラのための楽曲を残しており、古典的なヴァイオリン協奏曲のためのカデンツァも作曲しました。
また、共同制作者ブラウン(Brown)とともに、ノヴェロ(Novello)出版社から有名作品のヴァイオリンとピアノのための編曲集を全17巻にわたって刊行しています。

ヴァイオリン演奏法に関する著作

演奏家としてだけでなく、ウィルヘルミはヴァイオリン演奏法に関する著作も遺しました。
ルバート、ポルタメント、テンポの変化についての自身の見解を記しており、19世紀後半のドイツ式ヴァイオリン奏法を知る貴重な文献として評価されています。

教育者としての晩年

ギルドホール音楽演劇学校の教授

1886年にジェニー・リンド(Jenny Lind)の紹介でロンドンの聴衆に広く知られるようになったウィルヘルミは、イギリスでも一躍有名になりました。
1886年から1893年まではドレスデン近郊のブラーゼヴィッツ(Blasewitz)を拠点として活動したのち、1893年にロンドンへ移住しています。
1894年、ギルドホール音楽演劇学校(Guildhall School of Music and Drama)のヴァイオリン科教授に就任しました。
以後、1908年に亡くなるまで同校で教鞭を執り続け、ヴァイオリン科の主任教授として多くの後進を育成しています。
世界ツアーを終えた後のビーベリッヒ(Biberich)滞在期間には、R.ニーマン(R. Niemann)とともにヴィースバーデンにヴァイオリン学校も設立していました。

門下から巣立った音楽家たち

ウィルヘルミの門下からは、各国で活躍する音楽家が輩出されました。
アメリカのヴァイオリニスト・指揮者ナハン・フランコ(Nahan Franko)、カナダの多才な音楽家ドナルド・ハインズ(Donald Heins)、オーストラリアの指揮者エイルマー・ビュースト(Aylmer Buesst)などが代表的な弟子です。
また、息子のアドルフ・ウィルヘルミ(Adolf Wilhelmj, 1872年3月31日生)も音楽家の道に進み、1895年にベルファスト音楽院のヴァイオリン教授に就任しています。

ウィルヘルミが音楽史に残したもの

ウィルヘルミは1908年1月22日、ロンドンに62歳で生涯を閉じました。
彼の功績は多岐にわたります。
「G線上のアリア」の編曲によるバッハ音楽の大衆化、第1回バイロイト音楽祭でのワーグナー楽劇初演への参加、そしてギルドホール音楽演劇学校における教育活動です。
19世紀ドイツのロマン派ヴァイオリン奏法の伝統を20世紀の音楽界につなぐ架け橋として、ウィルヘルミの存在は音楽史上きわめて重要な位置を占めています。
「G線上のアリア」は今もなお世界中で愛され続けており、ウィルヘルミの名は、この美しい旋律とともに永遠に記憶されることでしょう。

まとめ

  • アウグスト・ウィルヘルミ(1845年 – 1908年)は、ドイツ出身のヴァイオリニスト・教育者
  • 幼少期から神童と称され、「ドイツのパガニーニ」の異名を持つ
  • 1871年にJ.S.バッハの管弦楽組曲第3番第2楽章を編曲し、「G線上のアリア」として世界的に普及させた
  • 1876年、第1回バイロイト音楽祭でワーグナー『ニーベルングの指環』初演のコンサートマスターを務めた
  • 1725年製ストラディヴァリウス「ウィルヘルミ」は、現在日本音楽財団が所有している
  • 1894年から亡くなる1908年まで、ロンドンのギルドホール音楽演劇学校でヴァイオリン科教授を務めた

参考情報

この記事で参照した情報源

百科事典・学術的参照資料

楽器・演奏史資料

伝記的資料


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