世界がまだ何もなかった時、暗黒の水の中から一柱の神が自らを生み出しました。
その神は、たった一人で他の神々を創造し、やがて世界を形作ることになるんです。
古代エジプトで数千年にわたって崇められてきたこの偉大な存在、それが創造神アトゥムです。
この記事では、エジプト神話の始まりともいえるアトゥムについて、その神秘的な姿や特徴、興味深い神話をわかりやすくご紹介します。
概要

アトゥム(Atum)は、エジプト神話における最初の神であり、すべての神々の始祖となる創造神です。
「ヌン」と呼ばれる原初の水から自らの力で誕生し、他の神々や世界そのものを創り出した存在として知られています。ヘリオポリス九柱神の筆頭に数えられ、「完成する者」「完全なる者」という意味を持つ名前のとおり、万物の始まりと終わりを司る神なんですね。
独特なのは、アトゥムが両性具有の神だということ。なぜかというと、誰の助けも借りずに一人で他の神々を生み出したからです。この「自己創造」という概念は、古代エジプト人の宇宙観の根幹をなす重要な思想でした。
系譜
アトゥムの系譜は、まさにエジプトの神々の家系図の出発点になります。
アトゥムから始まる神々の系統
第一世代:アトゥム自身
- 原初の水ヌンから自力で誕生
- 両性具有の創造神
第二世代:最初の子供たち
- シュー(大気の神)
- テフヌト(湿気の女神)
これらの神々は、アトゥムが自慰行為、くしゃみ、唾を吐くことで生まれたとされています。ちょっと変わった誕生方法ですが、これは「無から有を生み出す」という創造の神秘を表現したものなんです。
第三世代以降の展開
シューとテフヌトからは、大地の神ゲブと天空の女神ヌトが生まれました。さらにその子供たちが、有名なオシリス、イシス、セト、ネフティスです。
つまり、エジプト神話の主要な神々はみんな、アトゥムの子孫ということになるんですね。
姿・見た目
アトゥムの姿は、実はいくつものバリエーションがあるんです。
人間の姿(最も一般的)
- 二重王冠(上下エジプト統一の象徴)をかぶった王の姿
- 手にはアンク(生命の象徴)とウアス杖(力の象徴)を持つ
- 威厳ある成人男性として描かれることが多い
動物の姿への変身
アトゥムは状況によって様々な動物に変身します。
蛇の姿
- 世界創造時と世界の終末時の姿
- 脱皮による再生と永遠を象徴
その他の動物形態
- 雄牛:力強さの象徴
- マングース:蛇を退治する聖獣として
- 猫:太陽神の化身として
- トカゲ:再生能力の象徴
- 猿:後期には弓矢を持つ猿として描かれることも
面白いのは、朝・昼・夕でも姿が変わることです。朝は若い太陽神ケプリ(スカラベ)、昼は力強いラー、夕方は老いた姿のアトゥムとして描かれました。
特徴

アトゥムには、他の神々とは違う独特な特徴があります。
創造と破壊の二面性
創造の力
- 自らを生み出す「自己創造」の能力
- 言葉や思考、体液から神々を創造
- 世界に光をもたらし、秩序を確立
破壊の予言
- 世界の終末時、すべてを原初の水に戻す役割
- 「何百万年後、私とオシリスだけが蛇の姿で生き残る」という予言
太陽神としての役割
アトゥムは特に夕方の太陽と結びつけられています。
昼間は若々しい太陽神ラーとして天空を旅し、夕方になると老いたアトゥムの姿に変わるんです。そして夜の間は冥界を通り、悪の化身である巨大な蛇アポピスと戦いながら、翌朝の復活に備えます。
ここで興味深いのは、アトゥム自身も蛇の姿をとるのに、同じく蛇の姿のアポピスと戦うということ。これは蛇が持つ「生と死」「創造と破壊」という二面性を表しているんですね。
ファラオとの特別な関係
アトゥムは死んだファラオの魂を天に導く役割も担っていました。ピラミッドの中の呪文(ピラミッド・テキスト)には、アトゥムがファラオを神として生まれ変わらせる場面が数多く描かれています。
伝承
アトゥムにまつわる神話は、エジプト神話の根幹をなすものばかりです。
世界創造の物語
最も有名なのが、ヘリオポリス創世神話です。
創造の瞬間
- 原初の水ヌンの中で、アトゥムが自らの意志で誕生
- 最初の陸地「ベンベン」の丘の上に立つ
- 孤独を感じ、最初の神々を生み出すことを決意
- 様々な方法で神々を創造
創造方法については複数の伝承があります。くしゃみや唾から生まれたという説、自慰行為から生まれたという説、そして言葉の力で生まれたという説。どれも「無から有を生む」神秘を表現しているんです。
失われた子供たちの探索
ある時、アトゥムの子供であるシューとテフヌトが、原初の水を探検に出かけて行方不明になってしまいました。
心配したアトゥムは、自分の目を「太陽の目(ラーの目)」として送り出し、子供たちを探させました。
長い探索の末、ついに子供たちは見つかりました。アトゥムは再会の喜びのあまり涙を流し、その涙から最初の人間が生まれたという美しい伝承が残されています。
世界の終末についての予言
『棺文書』という古代の宗教文書には、アトゥムとオシリスの重要な対話が記されています。
アトゥムはこう語りました。「私は自分が創造したすべてのものを破壊し、世界を原初の水ヌンに戻すだろう。何百万年もの後、この宇宙にはオシリスと私だけが蛇の姿で生き残る」
この予言は、創造と破壊が永遠に繰り返されるという、古代エジプト人の循環的な世界観を示しているんです。
ラーとの習合
中王国時代になると、アトゥムは太陽神ラーと習合し、「ラー・アトゥム」として崇拝されるようになりました。
朝は若々しいケプリ、昼はラー、夕方は老いたアトゥムという太陽の一日の旅を表現したこの信仰は、エジプト全土に広まっていきます。さらに後の時代には、テーベの主神アメンとも習合し、「アメン・ラー・アトゥム」という究極の太陽神として信仰されました。
出典・起源

アトゥム信仰の歴史は、エジプト文明そのものと同じくらい古いんです。
信仰の発祥地
アトゥム信仰の中心地はヘリオポリス(エジプト語で「イウヌ」)でした。
「太陽の都」を意味するこの都市は、下エジプト第13ノモス(州)の州都で、現在のカイロ近郊に位置していました。ここには有名なベンベン石があり、アトゥムが最初に立った聖なる丘を象徴する信仰の対象となっていたんです。
歴史的な記録
先王朝時代(紀元前3100年以前)
- すでに原初の神として概念が存在していた可能性
古王国時代(紀元前2686-2181年)
- ピラミッド・テキストに頻繁に登場
- ファラオの守護神として重要な地位を確立
- 第12王朝のセンウセレト1世が建てたオベリスクは現在も残存
中王国時代(紀元前2055-1650年)
- ラーとの習合が進み「ラー・アトゥム」として信仰
- 『棺文書』に重要な役割で登場
新王国時代(紀元前1550-1069年)
- アメン・ラーとも習合
- 「神の手」と呼ばれる女性神官がアトゥムの儀式を執行
名前の意味と語源
「アトゥム」という名前は、エジプト語の動詞「tem(テム)」から来ています。
この言葉には「完成する」「完了する」という意味があり、まさに創造を完成させ、最後には世界を終わらせる神にふさわしい名前なんですね。古代エジプト語では「イテム」や「テム」とも発音され、コプト語では「アトゥム」となりました。
考古学的な証拠
現在でも見ることができるアトゥム信仰の痕跡として、カイロのマタリーヤ地区にヘリオポリスのオベリスクが残っています。
これは第12王朝のセンウセレト1世(紀元前1971-1926年)が建てたもので、もともとは対になる2本のオベリスクの1本でした。高さ約20メートルのこの記念碑は、3000年以上もの間、同じ場所に立ち続けているんです。
まとめ
アトゥムは、エジプト神話の始まりであり終わりでもある、壮大なスケールを持つ創造神です。
重要なポイント
- 自己創造の神:原初の水から自らの力で誕生した最初の神
- 両性具有の存在:独力で他の神々を生み出した完全なる創造者
- 多様な姿:人間、蛇、様々な動物に変身できる変幻自在の神
- 太陽神の一面:特に夕方の太陽と結びつく、一日の終わりを司る神
- 創造と破壊の二面性:世界を作り、最後には元に戻す循環の支配者
- ヘリオポリス信仰:古代から続く太陽信仰の中心的存在
- ファラオの守護者:死後の王を神に変える重要な役割
古代エジプト人にとってアトゥムは、単なる神話上の存在ではありませんでした。毎日沈む太陽、脱皮する蛇、そして生と死の循環という、日常的に目にする現象の背後にある神秘的な力そのものだったんです。
原初の孤独から世界を創造し、いつかすべてを終わらせるという壮大な物語は、人類が持つ「始まりと終わり」への根源的な問いに対する、古代エジプト人なりの答えだったのかもしれませんね。

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