世界最古の大洪水伝説をご存じでしょうか?
旧約聖書の「ノアの箱舟」よりも1000年以上古い、メソポタミア文明の粘土板に刻まれた物語――それが「アトラ・ハシース叙事詩」です。
この叙事詩は、人間がなぜ創られたのか、そしてなぜ大洪水が起きたのかを語る、古代人の世界観が詰まった貴重な記録です。
概要
アトラ・ハシース叙事詩(Atrahasis)は、紀元前18世紀頃に古バビロニア時代のアッカド語で記録された叙事詩です。
「賢き者」を意味する主人公アトラ・ハシースが、神々の警告を受けて大洪水から人類を救う物語として知られています。
人間創造の理由、神々と人間の関係、そして大洪水という破滅的な出来事を通じて、古代メソポタミアの人々が抱いた深遠な問いに答えています。
アトラ・ハシース叙事詩とは?
基本情報
アトラ・ハシース叙事詩は、3枚の粘土板に記録された長編叙事詩です。
W. G. LambertとA. R. Millardの研究によれば、約1,245行にわたる内容が含まれていたと推定されています。
メソポタミアでは、冒頭の言葉「イヌマ・イル・アウィルム(inuma ilu awilum)」(「神々が人のようだった時」の意)で知られていました。
現代では主人公の名前「アトラ・ハシース」で呼ばれています。
発見と研究の歴史
最初の断片は1876年にジョージ・スミスによって翻訳されました。
その後、1965年にW. G. LambertとA. R. Millardが古バビロニア版(紀元前1650年頃に記述)を含む多数の資料を発表し、叙事詩のほぼ全容が明らかになりました。
粘土板はアッシュルバニパルの図書館(ニネヴェ)から発見されたアッシリア版や、ウガリットからの断片など、複数のバージョンが存在します。
現在、大英博物館やメトロポリタン美術館に実物が保存されています。
成立時代と文化的背景
この叙事詩が記録された古バビロニア時代は、メソポタミア文明が最も栄えた時期の一つです。
ハンムラビ王の治世(紀元前1792年~紀元前1750年頃)から数世代後の時代にあたり、法典や文学が発展しました。
アトラ・ハシース叙事詩は、コロフォン(奥付)からハンムラビ王の玄孫アンミ・サドゥカ王(紀元前1646年~紀元前1626年)の治世に記録されたことがわかっています。
ただし、物語そのものはさらに古く、口承によって伝えられてきたと考えられています。
主人公アトラ・ハシースとは?
名前の意味
「アトラ・ハシース(Atrahasis)」はアッカド語で「賢き者」「最高の賢者」を意味します。
元来は「アトラム・ハシース(Atra-m-hasis)」と呼ばれていました。
この名前は、彼の知恵と洞察力を象徴しています。
他の伝承での名前
アトラ・ハシースは、他のメソポタミア神話では異なる名前で登場します。
ギルガメシュ叙事詩:
ウトナピシュティム(Utnapishtim)(「生命を見た者」の意)として登場します。
ギルガメシュが不老不死を求めて訪れる賢者として描かれています。
シュメール語の洪水伝説:
ジウスドラ(Ziusudra)またはジウスドゥラ(「永遠の生命」「永続する生命」の意)と呼ばれました。
ギリシャ語版『バビロニア史』:
ヘレニズム時代のベロッソスによって、クシストロス(Xisuthros)の名で伝えられました。
これらはすべて基本的に同一人物として扱われ、大洪水を生き延びた賢者という共通の特徴を持っています。
役割と性格
アトラ・ハシースは神官でもあり、シュルッパクの町に住んでいました。
知恵の神エンキ(Enki)から特別な信頼を得ており、神々の秘密の計画を知らされる唯一の人間でした。
物語の内容:3つのタブレット
タブレット1:宇宙の創造と人間の誕生
神々の時代
物語は、神々だけが存在していた太古の時代から始まります。
天空の神アヌ(Anu)、風と秩序の神エンリル(Enlil)、水と知恵の神エンキ(Enki)という三柱の偉大な神々が宇宙を創造しました。
エンリルは地上の統治を任され、下位の神々であるイギギ(Igigi)に農業や治水の労働を命じました。
下位の神々の反乱
40年間、イギギたちは黙々と働き続けましたが、ついに過酷な労働に耐えかねて反乱を起こします。
彼らはエンリルの宮殿を取り囲み、労働からの解放を要求しました。
この危機に際して、知恵の神エンキが画期的な解決策を提案します。
それが「人間の創造」でした。
人間の創造
母なる女神ニンフルサグ(Ninhursag)(別名マミ(Mami))が、人間創造の役割を担います。
創造の過程は以下の通りです:
- 知恵の神ゲシュトウーエ(Geshtu-e)が自ら犠牲となって殺される
- ニンフルサグがゲシュトウーエの肉と血を粘土に混ぜる
- 他の神々も粘土に唾を混ぜる
- 10ヶ月後、人間が誕生する
この創造神話には重要な意味が込められています。
神の血が混ぜられたことで、人間には神的な要素(理性や魂)が備わりました。
同時に、人間は「神々の労働を代わりに行う存在」として創られたのです。
タブレット2:人口過剰と神々の対策
人類の繁栄と問題
人間たちは順調に繁栄し、地上に広がっていきました。
しかし、それは新たな問題を生みました。
1200年(神々の時間では比較的短い期間)が経過すると、人口が爆発的に増加し、地上は人間の騒音で満ちあふれます。
エンリルは人間たちの騒々しさに悩まされ、眠ることができなくなりました。
段階的な人口削減
エンリルは人口を減らすため、段階的に災厄をもたらします。
第1の災厄:疫病
エンリルは疫病の神ナムタル(Namtar)に命じて疾病を流行させます。
人々は頭痛、病気、熱病に苦しみました。
しかし、エンキはアトラ・ハシースに助言し、ナムタルへの供物を捧げることで疫病を止めさせます。
第2の災厄:干ばつ
再び1200年が経過し、人口が元に戻ると、エンリルは今度は干ばつをもたらします。
雨の神アダド(Adad)に命じて雨を降らせないようにしました。
エンキの助言により、人々はアダドに賄賂を贈り、雨を降らせることに成功します。
第3の災厄:さらなる飢饉
エンリルはさらに厳しい措置をとります。
土地が作物を実らせないようにし、魚も捕れなくなりました。
しかし、またしてもエンキの助けにより、人類は生き延びます。
最終的な決断:大洪水
エンリルは神々の会議を招集し、「最終解決(final solution)」として大洪水による人類の絶滅を提案します。
神々は誓いを立て、この計画を人間に漏らさないことを約束しました。
タブレット3:大洪水とその後
エンキの警告
エンキは直接的にアトラ・ハシースに話すことは誓いに反するため、巧妙な方法を使います。
アトラ・ハシースの家の壁に向かって話しかけることで、間接的に警告を伝えました。
エンキはアトラ・ハシースに以下のように指示します:
- 家を解体して船を造ること
- 財産よりも命を優先すること
- 家族と動物を船に乗せること
- 船は葦、瀝青(アスファルト)、木で造ること
船の建造と避難
アトラ・ハシースは長老たちに事情を説明し、船の建造を開始します。
住民たちも手伝い、完成した船に食料、家族、あらゆる種類の動物を乗せました。
準備が整うと、嵐の神アダドが雲の中から咆哮し始めます。
アトラ・ハシースは最後まで船の外で作業を続けましたが、ついに船に乗り込み、扉を閉めました。
大洪水の発生
洪水が始まると、世界は恐ろしい光景に包まれます。
古代の記録には、洪水の武器「カシグ(kashigu)」が軍隊のように人々を襲ったと記されています。
嵐と洪水は7日7晩続きました。
地上のすべてが水に飲み込まれ、人類は滅びました。
神々の後悔
洪水が起きると、神々自身も恐怖に襲われます。
人類を滅ぼしたことで、神々に供物を捧げる者がいなくなり、神々は飢えと渇きに苦しみ始めました。
特に母神ニンツ(Nintu)は人類を滅ぼしたことを深く悲しみました。
生贄と和解
7日後、洪水が収まるとアトラ・ハシースは船から降り、神々に動物の生贄を捧げます。
飢えていた神々は、蝿のように生贄に群がり、その香りを貪りました。
エンリルは船を発見し、計画が漏れたことに激怒します。
しかし、エンキは自分の行動を弁護し、「罪のない者まで罰するのは不正だ」と主張しました。
最終的にエンリルとエンキは和解します。
新しい世界秩序
大洪水後、エンキは人口過剰問題の恒久的な解決策を提案します。
エンキは誕生の女神ニンツを召喚し、新しい種類の人間を創造するよう命じます:
- 子供を産めない女性の創造 – 不妊の女性が一定数存在するようにする
- パシトゥ悪魔の創造 – 幼児を奪い、流産を引き起こす悪魔
- 聖なる処女の創造 – 神に仕える女性は子供を産まない
これらの措置により、人口は自然に制限され、かつてのような過剰な増加は起こらなくなりました。
アトラ・ハシース自身は、神々によって楽園に運ばれ、永遠の命を与えられました。
他の洪水伝説との関係
ギルガメシュ叙事詩との関係
『ギルガメシュ叙事詩』の第11粘土板には、ほぼ同じ洪水物語が含まれています。
研究者ジェフリー・H・タイゲイによれば、ギルガメシュ叙事詩の洪水物語はアトラ・ハシース叙事詩から借用されたものと考えられています。
ギルガメシュ版では以下のような編集上の変更が見られます:
- 主人公の名前がウトナピシュティムに変更
- 洪水中の神々の飢えと渇きに関する詳細な描写が削除
- 洪水が始まる時、アトラ・ハシースが宴会を開いている描写が追加
シュメール洪水伝説(エリドゥ創世記)
シュメール語の洪水伝説の現存する粘土板は紀元前1600年頃のものですが、物語自体はさらに古い口承伝承に由来すると考えられており、アトラ・ハシース叙事詩よりも古い可能性があります。
この伝説では主人公がジウスドラと呼ばれ、基本的な筋書きは同じです。
アトラ・ハシース叙事詩は、このシュメール伝承をアッカド語に翻案し、さらに詳細な物語として再構成したものと考えられています。
旧約聖書のノアの方舟との類似
旧約聖書『創世記』の「ノアの方舟」は、アトラ・ハシース叙事詩と驚くほど似ています。
共通点:
- 神(神々)が人類の罪(騒音)を理由に洪水を起こす
- 一人の正しい人間(アトラ・ハシース/ノア)だけが警告を受ける
- 大きな船(方舟)を造って家族と動物を乗せる
- 洪水が7日間(または40日間)続く
- 洪水後に生贄を捧げる
- 神が人類を滅ぼさないことを約束する
相違点:
- アトラ・ハシースでは複数の神々が登場するが、聖書では唯一神
- アトラ・ハシースでは人口過剰が問題だが、聖書では人間の罪が問題
- アトラ・ハシースでは構造的な解決策(不妊など)が示されるが、聖書では道徳的な契約(虹の契約)
多くの学者は、聖書の洪水物語がメソポタミアの伝承から影響を受けたと考えています。
ギリシャ神話のデウカリオーンとの関係
1991年、研究者ステファニー・ダリーは、アトラ・ハシースとギリシャ神話の洪水を起こすデウカリオーンの父プロメーテウスとの名前の類似性を指摘しました。
また、1992年にはヴァルター・ブルケルトが、ホメロスの叙事詩『イリアス』との関連性を論じています。
古代の洪水伝説は、文化を超えて広く共有されていた可能性があります。
アトラ・ハシース叙事詩の主題とテーマ
人間の存在理由
この叙事詩は「人間はなぜ存在するのか?」という根本的な問いに答えています。
アトラ・ハシース叙事詩における答えは明確です――人間は神々の労働を代わりに行うために創られました。
この考え方は、古代メソポタミア社会の階層構造を反映しています。
王や神官が民衆に労働を課すように、神々も人間に労働を課すのです。
神々と人間の関係
神々は完全に善良でも、完全に悪でもありません。
エンリルは人間の騒音に苛立つ短気な性格として描かれる一方、エンキは人間に優しく助けになる存在です。
この対比は、自然災害(洪水、干ばつ)と恵み(知恵、水)という、人間を取り巻く環境の二面性を象徴しています。
苦しみと死の意味
アトラ・ハシース叙事詩は、人間の苦しみの起源を説明します。
なぜ女性は出産で苦しむのか?
なぜ幼児死亡率が高いのか?
なぜ不妊の女性がいるのか?
古代メソポタミアの人々にとって、これらは神々の計画の一部でした。
旧約聖書が「エデンの園での罪」で説明するのに対し、アトラ・ハシース叙事詩は「人口制限のための措置」として説明しています。
創造、破壊、再生の循環
物語全体を通じて、創造→破壊→再生というサイクルが描かれます。
- 人間の創造
- 人口過剰による混乱
- 疫病・干ばつによる削減
- 再び人口増加
- 大洪水による破壊
- アトラ・ハシースによる人類の保存
- 新しい世界秩序の確立
このサイクルは、メソポタミアの農業社会における自然のリズム(洪水、乾季、収穫)を反映していると考えられています。
文化的・歴史的意義
世界最古の文学作品の一つ
アトラ・ハシース叙事詩は、古バビロニア時代の「黄金時代」の文学作品として高く評価されています。
LambertとMillardの研究により推定される約1,245行という長さは、この時代のアッカド語神話作品としては最長級です。
他の創世神話への影響
研究により、アトラ・ハシース叙事詩は後のバビロニア創世神話『エヌマ・エリシュ』の主要な資料源となったことが示されています。
人間創造の場面や神々の会議の描写は、『エヌマ・エリシュ』に引き継がれました。
古代メソポタミア社会の洞察
この叙事詩は、古代メソポタミアの政治制度や「原始民主主義」の概念を研究する上で貴重な資料となっています。
神々の会議での投票による決定は、当時の人間社会の政治システムを反映していると考えられています。
考古学的証拠との関連
多くの学者は、アトラ・ハシース叙事詩の洪水物語が、紀元前2800年頃のメソポタミアで実際に起きた大規模な洪水を基にしていると推測しています。
ティグリス川とユーフラテス川の氾濫は比較的頻繁に起こっていましたが、特に記憶に残る大洪水が神話として語り継がれたのでしょう。
ただし、世界規模の大洪水が実際にあったという証拠はなく、あくまで地域的な洪水が神話化されたものと考えられています。
現代への影響
文学作品への影響
アトラ・ハシース叙事詩は、後世の多くの文学作品に影響を与えました。
洪水伝説は世界中に存在し、その多くが共通の要素を持っています。
ポップカルチャーでの登場
ゲーム:
『Fate/Grand Order』では、ギルガメシュやウトナピシュティムが登場します。
映画・アニメ:
『Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-』では、ジウスドゥラという名前で老人として登場します。
比較神話学の重要資料
アトラ・ハシース叙事詩は、世界中の洪水神話を比較研究する上で欠かせない資料となっています。
メソポタミア、聖書、ギリシャ、インド、中国など、多くの文化に洪水伝説が存在する理由を探る手がかりとなっています。
まとめ
アトラ・ハシース叙事詩は、人間の創造、苦しみの起源、大洪水という壮大なテーマを扱う古代の傑作です。
紀元前18世紀に記録されたこの物語は、人類が抱き続けてきた根本的な問い――「私たちはなぜ存在するのか?」「苦しみにはどんな意味があるのか?」――に対する古代メソポタミアの人々の答えを示しています。
神々の労働を代わりに行うために創られた人間、人口過剰という問題、そして大洪水による破滅と再生。
この物語は、単なる神話ではなく、古代社会の価値観、自然との関係、そして人間存在の意味を深く考察した哲学的作品でもあります。
旧約聖書のノアの方舟やギルガメシュ叙事詩との関連性も、文化を超えた物語の伝播と変容を示す貴重な例となっています。
約4000年の時を経ても、アトラ・ハシース叙事詩が私たちに語りかけるメッセージは色褪せることがありません。
参考情報
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この記事で参照した情報源
一次資料・学術資料
- Lambert, W. G., and Millard, A. R. “Atra-ḫasīs: The Babylonian Story of the Flood” (1969) – 古バビロニア版を含む最も包括的な研究
- 桑原俊一「アトラ・ハシース叙事詩(Atra-hasis)」北海学園大学人文論集 第43号・第44号・第45号 (2009-2010) – 日本語による翻字・翻訳・注釈
- 月本昭男 訳『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店、1996年 – 関連する洪水物語の日本語訳
- 岡田明子、小林登志子『シュメル神話の世界-粘土板に刻まれた最古のロマン-』中央公論新社〈中公新書〉、2008年
博物館・研究機関
- The British Museum: Cuneiform tablet from Sippar with the story of Atra-Hasis – 紀元前1635年の粘土板
- The Metropolitan Museum of Art: Cuneiform tablet: Atra-hasis, Babylonian flood myth – 紀元前7-6世紀の粘土板断片
学術記事・解説
- Bible Odyssey: Atrahasis – ノートルダム大学Abraham Winitzer教授による解説
- World History Encyclopedia: The Atrahasis Epic – 包括的な解説記事
- Center for Online Judaic Studies: Atrahasis Epic – The Flood Story – 聖書との比較研究
参考になる外部サイト
- Wikipedia「アトラ・ハシース」 – 基本情報の確認
- Wikipedia (English) “Atra-Hasis” – 詳細な研究史と参考文献リスト


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