足利直義──室町幕府を支えた名補佐役の悲劇

兄を支えて天下統一に貢献し、政治の才能で新しい時代を切り開いた名補佐役。

それなのに、最後は兄と争い、毒殺されるという悲劇的な最期を遂げた武将がいます。

それが足利直義(あしかがただよし)です。

足利尊氏の弟として、室町幕府の創設に大きく貢献した直義。兄が武将として戦場で活躍する一方、直義は政務を担当して幕府の基礎を固めました。「両将軍」とまで呼ばれた二人の二頭政治は、当初は順調に見えました。

しかし、革新派の執事・高師直との対立が深まると、幕府は真っ二つに分裂します。やがて兄弟の絆にも亀裂が入り、ついには日本史上最大の兄弟争いとされる「観応の擾乱」へと発展したんです。

この記事では、室町幕府の礎を築きながら、最期は失意のうちに命を落とした足利直義の生涯を詳しくご紹介します。

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概要

足利直義は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した武将・公卿・政治家です。

基本情報

  • 生年:徳治元年(1306年)
  • 没年:正平7年/観応3年2月26日(1352年3月12日)
  • 享年:47歳
  • 父:足利貞氏
  • 母:上杉清子(上杉頼重の娘)
  • 兄:足利尊氏
  • 養子:足利直冬(尊氏の庶子)

直義は室町幕府初代将軍・足利尊氏の同母弟として、幕府の創設と運営に中心的な役割を果たしました。兄と同じ母から生まれ、年もひとつしか違わない兄弟だったため、幼い頃から非常に仲が良かったと伝えられています。

別名と呼び名

当時の人々は直義を、名前ではなく様々な呼び方で呼んでいました。

  • 三条殿(さんじょうどの):京都の邸宅があった地名から
  • 錦小路殿(にしきこうじどの):同じく邸宅の所在地から
  • 御所(ごしょ):将軍に準じる待遇から
  • 大休寺殿(だいきゅうじどの):菩提寺の名前から

法号は恵源(えげん)、または古山慧源(こざんえげん)といいます。

偉業・功績

直義の功績は、軍事面と政治面の両方にわたります。

倒幕への貢献

元弘の乱(1331-1333年)において、直義は兄・尊氏とともに行動しました。

当初は鎌倉幕府の命令に従って西上しましたが、情勢を見極めた後、兄とともに後醍醐天皇側に寝返ります。そして京都の幕府出先機関である六波羅探題攻めに参加し、鎌倉幕府滅亡に大きく貢献したんです。

この功績により、後醍醐天皇から高く評価されました。左馬頭という武家の憧れの官職を与えられ、相模国など14カ所の地頭職も授かっています。

関東支配の確立

建武の新政が始まると、直義には重要な任務が与えられました。

1333年12月、後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて鎌倉に向かい、鎌倉将軍府の実質的な長官となったんです。これは後の鎌倉府の基礎となる重要な役職でした。

ここで直義が示した姿勢は明確でした。建武政権から独立した、武家による関東支配の確立です。後醍醐天皇が武家勢力を警戒して関東に将軍を送ろうとしなかったのに対し、直義は事実上の独自政権を築き上げたんですね。

護良親王殺害の決断

1335年、中先代の乱が勃発します。北条高時の遺児・北条時行が挙兵し、直義軍は敗退を重ねました。

鎌倉が陥落する危機に直面した直義は、冷徹な政治的判断を下します。鎌倉に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子・護良親王を、配下の淵辺義博に命じて殺害させたのです。

これは冷酷に見えますが、実は建武政権の立場に立った行動でもありました。もし護良親王が北条軍に奪われて祀り上げられてしまえば、足利方の鎌倉周辺での戦いが極めて不利になります。それを防ぐための、苦渋の決断だったんですね。

室町幕府の創設と運営

1336年、光明天皇を擁立して室町幕府が成立すると、直義の政治的手腕が本領を発揮しました。

二頭政治の確立

1338年、尊氏が征夷大将軍に就任すると、兄弟で権限を明確に分割します。

  • 尊氏:軍事指揮権、恩賞給与、守護任免などの主従制的支配
  • 直義:所領裁判、行政・司法などの統治権的支配

この体制は「両御所」(りょうごしょ)、あるいは「両将軍」と呼ばれました。直義は左兵衛督に任じられ、「武衛将軍」とも称されたんです。

建武式目の制定

室町幕府の基本方針を示す「建武式目」の制定において、その内容には直義の意思が強く反映されていると言われています。

建武式目の特徴は、鎌倉幕府の古法を多く踏襲した保守的な内容でした。直義は北条義時・泰時を範とする政治理念を持ち、伝統や格式を重んじる姿勢を貫いたんですね。

禅宗文化の保護

直義は禅宗を篤く敬い、特に臨済宗の高僧・夢窓疎石との交流が深いことで知られています。

夢中問答集

夢窓疎石と直義との対話を記録した『夢中問答集』は、仏教思想史上の重要な書物です。仮名で書かれた法語として、信心の基本や仏道の要諦を平易に説いています。

安国寺・利生塔の建立

夢窓疎石の勧めにより、尊氏とともに全国66ヶ国に安国寺と利生塔を建立しました。これは元弘の乱以来の戦死者の霊を、敵味方問わず供養するためのものです。

また、後醍醐天皇の菩提を弔うため、尊氏・夢窓疎石・光厳上皇とともに天龍寺を創建しました。

文化人としての側面

直義は優れた武家歌人でもありました。

兄の尊氏には及ばないとはいえ、武家歌壇では兄に次ぐ和歌の力量を持っていたんです。特に尊氏が隠居していた康永・貞和年間(1342-1350年)には、直義が武家歌壇を統率する存在でした。

『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に、26首が入集しています。

系譜・出生

家系と血筋

足利氏は河内源氏の名門です。

清和源氏の流れを汲み、鎌倉幕府を開いた源頼朝と同じ血筋にあたります。直義の祖先は源義国の子・足利義康で、足利氏は代々、東国武士をまとめる象徴的存在として意識されていました。

父・足利貞氏

足利貞氏(1273-1331年)は鎌倉幕府の有力御家人でした。

貞氏の時代には、すでに足利氏の勢力が執権北条氏に警戒されるほど大きくなっていました。そのため歴代の足利当主は、北条氏から正室を迎えるなどして関係強化に努めていたんです。

母・上杉清子

直義の母は上杉清子といい、上杉頼重の娘でした。

清子は貞氏の正室ではありません。しかし、尊氏も清子が産んだ子であり、直義と尊氏は同母兄弟でした。これが二人の強い絆の源だったんですね。

兄弟構成

直義には二人の兄がいました。

  • 長兄・足利高義:早世
  • 次兄・足利尊氏(高氏):同母兄、室町幕府初代将軍

本来であれば、長兄の高義が家督を継ぐはずでした。もし高義が長命であれば、尊氏も直義も歴史の表舞台に立つことはなかったかもしれません。

しかし高義が若くして亡くなったため、次男の尊氏に家督が回ってきました。そして三男の直義も、兄を支える重要な立場を得ることになったんです。

幼名と改名

直義は当初、北条氏からの偏諱を受けて高国(たかくに)と名乗っていました。

これは執権・北条高時の「高」と、祖先・源義国の「国」から一字ずつ取ったものです。足利氏の慣例に従った命名でした。

しかし、後醍醐天皇に味方して北条氏に叛旗を翻した後、河内源氏の通字である「義」を用いた名前に改めます。最初は忠義(ただよし)、その後直義(ただよし)と名乗ったんです。

この改名には、平氏を称した北条氏(本来は家格が劣る)ではなく、源氏の正統として戦うという強い意志が込められていました。

養子・足利直冬

直義には長く子供ができませんでした。

そのため、尊氏の庶子・直冬を養子に迎えます。直冬は尊氏に認知されず、直義の養子として育てられました。

ところが夫婦ともに40歳を過ぎてから、思いがけず男子・如意丸が誕生します。『太平記』は、このことが直義に野心を芽生えさせたと描いていますが、真偽のほどは定かではありません。

姿・見た目

直義の容貌について、史料には詳しい記述が残っていません。

肖像画の新説

長らく直義の肖像画や彫像は存在しないとされてきました。

しかし1995年、美術史家の米倉迪夫氏が驚くべき説を発表します。京都・神護寺に伝わる国宝「伝源頼朝像」が、実は足利直義の肖像画ではないかというのです。

神護寺三像

神護寺には三枚の肖像画が伝わっています。

  • 伝源頼朝像
  • 伝平重盛像
  • 伝藤原光能像

このうち、伝源頼朝像を足利直義、伝平重盛像を足利尊氏にあてる新説が発表されました。

根拠は以下の通りです。

  • 画法から見て、制作年代は南北朝時代以降
  • 神護寺に残る文書との整合性
  • 顔の表現が鎌倉時代のものとは異なる

この説については現在も論争が続いており、結論が出るまでには時間がかかりそうです。しかし、もしこれが直義の真の姿だとすれば、冷静沈着で知的な印象を受ける人物像といえるでしょう。

特徴

直義の性格と行動様式には、いくつかの際立った特徴があります。

性格──冷静沈着で実直

同時代の記録によれば、直義は冷静沈着で実直な人物でした。

感情の起伏が激しい尊氏とは対照的に、直義は極めて理性的に物事を判断したんです。夢窓疎石も「尊氏は武事に長け、直義は政務に優れる」と評しています。

保守的な政治理念

直義の政治姿勢は、伝統と格式を重んじる保守的なものでした。

鎌倉幕府の執権政治を模範とし、皇族や公家の権威も正当なものと認めていました。法律や書類を重視する、まさに「忠実な官僚」という感じですね。

また、直義は八朔(8月1日)の贈り物を賄賂として受け取らない高潔さを持っていたと伝えられています。当時の武士には、お世話になった人へ8月1日に贈り物をする習慣がありました。しかし直義は、これが賄賂になることを嫌って受け取らなかったんです。

優柔不断で感情的な尊氏を諌める役割

尊氏は優れた武将でしたが、政治的な判断では揺れ動くことが多い人物でした。

手越河原の戦いで新田義貞に敗れた時、尊氏は後醍醐天皇に赦免を求めて出家しようとします。しかし直義は強く諌めました。

「そんなことをしたら殺されてしまいます! 今は鎌倉にとどまり、足元を固めましょう」

この時点で直義は、後醍醐天皇と決別し、東国で幕府を作ろうと考えていたのかもしれません。弟が着々と戦支度を進める横で、やっぱり官軍に弓を引きたくない尊氏は浄光明寺にこもって出家したものの、新田義貞はそんな事情を気にしてくれません。

やむなく直義らが迎え撃ちますが押される一方。ついに危機感を抱いた尊氏が出陣し、箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破ることができました。

このように、直義は感情的になりやすい兄を常に支え、冷静な判断で危機を乗り越えてきたんです。

戦下手だが政治は天才的

直義自身は戦場での指揮に長けていませんでした。

中先代の乱では北条時行に敗れ、手越河原の戦いでも新田義貞に敗北しています。『逃げ上手の若君』でも描かれているように、直義は戦が苦手だったんですね。

しかし政治面では天才的な能力を発揮しました。

室町幕府の成立は、政治家としての直義の手腕に大きな部分を負っていたと評価されています。尊氏が清水寺に奉納した願文には、こんな言葉が残されています。

「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」

つまり「この世のことは直義に任せる」という、兄の弟想いの心情と、新たな政治の現実は直義が担っていくという認識が表れているんです。

公家・寺社勢力との関係

直義は公家や寺社本所勢力との協力関係を重視しました。

北朝の光厳上皇との関係強化にも努め、厚い信頼を得ています。これは後の幕府運営において、非常に重要な基盤となりました。

一方、高師直ら革新派の武士たちは、「土地や役職は実際に功績のあった武士に優先して与えられるべきであり、何もしていない公家になど与える必要はない」という考え方でした。

この根本的な価値観の違いが、後の対立の原因となっていくんです。

伝承

直義の人生は、栄光から悲劇へと転落していきます。

高師直との対立の始まり

貞和4年(1348年)頃から、足利家の執事を務める高師直と直義の対立が表面化します。

対立の原因

対立には複数の原因がありました。

第一の理由:政治思想の違い

  • 直義:鎌倉幕府の古法を踏襲する保守的政治
  • 師直:新興武士の実力主義を重視する革新的政治

師直は『太平記』で「帝などハリボテでも立てておけばいい」とまで言ったと書かれるほどの超リアリストでした。この発言を実際にしたかどうかはさておき、「師直ならそう言ってもおかしくない」と思われていたタイプだったんでしょう。

第二の理由:人事をめぐる対立

直義は血族である足利一門を重用し、一門以外を重要なポストに就けませんでした。これに対し、師直は実力のある武士を登用すべきだと主張します。

第三の理由:養子・直冬の処遇

直義の養子・足利直冬が中国地方で勢力を拡大していました。師直はこれを警戒し、討伐を主張します。しかし直義にとって直冬は大切な養子。この問題も両者の溝を深めました。

第四の理由:上杉氏の問題

足利氏の家督継承の経緯に、対立の深い背景がありました。

元々、尊氏の父・貞氏は嫡男の高義に家督を譲り、家宰の高師重(師直の一族)に補佐させていました。しかし高義の死により、異母弟の尊氏が後継者になります。

ところが、長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏と、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏の間で対立が生じたんです。

尊氏が家宰である高氏を政務の中心に置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的でした。

特に1338年、明確な理由がないまま上杉重能が出仕停止の処分を受け、上杉憲顕が関東執事を高師冬に交替させられたことが、上杉氏および直義の尊氏への反感を高めたと考えられています。

第一次政変──直義の失脚と出家

貞和5年(1349年)、ついに事態は爆発します。

直義派からの讒言を受けて、尊氏が師直の執事職を解任すると、師直とその兄弟の師泰は激怒しました。二人は大軍を率いて直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲したんです。

尊氏が間に入って調停しましたが、結果は師直側が圧倒的に有利な条件での和睦でした。

  • 直義の腹心である畠山直宗と上杉重能を流罪
  • 直義を人事から降ろし、後任に尊氏の嫡男・義詮を任命
  • 師直は執事に復帰

人事から降ろされた直義は出家し、恵源(えげん)の法名を名乗って隠居を決め込みます。三条坊門殿の邸宅を、鎌倉から上洛してきた足利義詮に譲りました。

しかし、直義はあきらめていませんでした。

観応の擾乱──日本史上最大の兄弟争い

観応元年(1350年)10月、尊氏・師直らが直義の養子・直冬を討つために中国地方へ遠征します。

その留守に乗じて、直義はひそかに京都を脱出し、大和で挙兵しました。そして驚くべきことに、足利氏に恨みのある南朝方に降伏したんです。

南朝との同盟

南朝側も、憎い足利尊氏の実弟と手を組むべきかで大問題となりました。

しかし南朝の復興のために直義と手を組むことを決断します。ただし直義は、南朝に降ったのちも発給文書には北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は便宜的なものだったと解釈されています。

これにより、構図は大きく変わりました。

「高師直と北朝 VS 足利直義と南朝」

という対立です。

第一幕──高師直の最期

観応2年(1351年)1月、直義軍は京都に進撃します。留守を預かる足利義詮は、備前の尊氏の下に落ち延びました。

2月、尊氏軍は京都を目指しますが、播磨光明寺城での光明寺合戦および摂津打出浜の戦いで、直義軍に相次いで敗北してしまいます。

南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は和議を図りました。この交渉において尊氏は、表向きは師直の出家を条件として挙げていましたが、実際は「師直の殺害を許可する」旨の密命を伝えていたんです。

2月20日、和議は成立します。

しかし2月26日、高師直・高師泰兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲の軍勢により、摂津武庫川で一族とともに謀殺されました。

長年の政敵を排除した直義は、義詮の補佐として政務に復帰します。九州の直冬は九州探題に任じられました。

観応の擾乱の第一幕は、直義の勝利に終わったのです。

束の間の平和

しかし新体制は半年しか続きませんでした。

直義は義詮との不仲が原因で、1351年8月に政務からの引退を表明します。結局、師直を排除しても、直義と尊氏・義詮父子との不和は解消されなかったんですね。

第二幕──兄弟の決戦

同年8月、尊氏は南朝方の佐々木道誉討伐のため近江国へ、義詮も南朝方の赤松則祐討伐のため播磨国へ出陣します。

しかしこの出陣は、京都に直義をひとり残し、東西から挟み撃ちするために仕組んだ罠でした。

これに気付いた直義は、自分の派閥を伴って京都を脱出し、北陸で挙兵します。こうして観応の擾乱の第二幕が始まりました。

しかし北陸で挙兵したものの、尊氏が示した大量の恩賞を目当てに、直義軍の大勢の武将が尊氏側へ寝返ります。直義は苦戦を強いられ、とうとう北陸から鎌倉へ落ち延びていきました。

正平一統──南朝への降伏

尊氏も戦略を変えます。

1351年10月、尊氏は足利直義との戦いに集中するため、なんと南朝に政権の返還を申し入れたんです。

これにより北朝が消滅し、北朝の天皇と皇太子が廃され、北朝年号も廃止されて「正平6年」に統一されました。これを「正平一統」といいます。

そして尊氏は、南朝から足利直義討伐の綸旨(天皇の命令書)を獲得しました。

薩埵峠の戦い──直義の敗北

尊氏軍は東海道を東下し、1352年1月、駿河国の薩埵峠で直義軍を撃破します。

戦に不慣れな直義は、ついに実兄に敗れてしまいました。

悲劇的な最期

1352年2月、直義は降伏し、鎌倉の延福寺(後の浄妙寺)に幽閉されました。

そして2月26日、直義は急死します。

毒殺説

当時から尊氏による毒殺説が流布していました。

注目すべきは、直義が死んだ日付です。ちょうど政敵の師直が暗殺された一年後という日付での急死。あまりにもタイミングが良すぎるため、多くの人々が毒殺を疑ったんですね。

尊氏にとって、直義は政治的な脅威であり続けました。生かしておけば再び反乱の旗印となる可能性があります。そのため、毒を盛って排除したというのが有力な説です。

墓所

直義の墓は、鎌倉の浄妙寺境内にあります。

近くには直義の菩提寺だった熊野大休寺の遺構(やぐら)が残されており、そこが直義の墓とされています。やぐらとは、有力者の墓や供養塔を安置するために岩壁を掘削して作った人工洞窟のことです。

法号は大休寺古山恵源(だいきゅうじこざんえげん)といいます。

出典・起源

直義に関する記録は、複数の史料に残されています。

主要史料

『太平記』

南北朝時代の軍記物語『太平記』には、直義の活躍が詳しく描かれています。

ただし『太平記』は軍記物語であり、脚色された部分も多いため、史実との照らし合わせが必要です。例えば、如意丸誕生が直義に野心を芽生えさせたという記述は、『太平記』独自のものです。

『梅松論』

足利尊氏の事績を記した『梅松論』には、夢窓疎石による尊氏賞賛の辞が残されています。この中で、尊氏と直義の性格の違いが示唆されているんです。

『建武式目』

室町幕府の基本方針を示した『建武式目』は、直義の政治理念を知る上で重要な史料です。その内容には直義の意思が強く反映されていると言われています。

『夢中問答集』

夢窓疎石と直義との対話を記録した『夢中問答集』は、直義の宗教観や人間性を知ることができる貴重な史料です。

後世の評価の変遷

中世から近世──逆臣としての評価

長い間、直義は「兄に背いた逆臣」として否定的に評価されてきました。

特に護良親王殺害は、後世の直義逆臣論の大きな原因となりました。徳川時代には、上下関係を重視する儒教的価値観から、弟が兄に逆らったことが厳しく批判されたんです。

近代以降──再評価の動き

近年になって、直義の評価は劇的に変化してきました。

以下の点が評価されるようになったんです。

  • 八朔の贈り物を賄賂として嫌った高潔さ
  • 優柔不断で感情の起伏が激しい兄・尊氏を諌める怜悧にして沈着な人格
  • 室町幕府の基礎を固めた卓越した政治的手腕
  • 保守的ながらも、公家・寺社勢力との協調を重視した政治姿勢

吉川英治の小説やそれを基にした大河ドラマ『太平記』(1991年、高嶋政伸が演じた)を始めとしたマスメディアを中心に、「悲劇の副将軍・足利直義」の再評価は進みつつあります。

最近では、少年マンガ『逃げ上手の若君』に登場したことで、若い世代にも直義の存在が知られるようになりました。

学術的研究

東京大学の研究者・亀部彰先生による『足利直義』(ミネルヴァ書房)は、本格的な直義伝記として最新の研究成果に基づき、網羅的に彼の事蹟に言及しています。

特に観応の擾乱の記述が充実しており、直義研究の必読書となっています。

まとめ

足利直義は、室町幕府の創設と運営に不可欠な人物でした。

重要なポイント

  • 足利尊氏の同母弟として、幕府創設に大きく貢献
  • 兄が軍事を、直義が政務を担当する「両将軍」体制を確立
  • 建武式目の制定など、幕府の基礎を固めた卓越した政治家
  • 保守的で伝統を重んじる政治理念を持つ
  • 禅宗を篤く保護し、夢窓疎石との対話は『夢中問答集』として残る
  • 高師直との価値観の対立が観応の擾乱へと発展
  • 日本史上最大の兄弟争いの末、兄・尊氏に敗れる
  • 1352年、鎌倉で急死(毒殺説が有力)
  • 優れた武家歌人でもあり、勅撰和歌集に26首が入集

直義が残したもの

直義の政治的遺産は、室町幕府の基礎として長く受け継がれました。

鎌倉幕府の古法を尊重しつつ、公家・寺社勢力との協調を図るという直義の政治姿勢は、後の幕府運営の基盤となったんです。また、全国に建立された安国寺・利生塔は、幕府の地方浸透に大きく貢献しました。

兄弟の絆と悲劇

直義と尊氏の関係は、日本史上でも稀に見る強い兄弟の絆から始まりました。

幼い頃から助け合い、倒幕という大事業を成し遂げ、新しい時代を切り開いた二人。しかし、周囲の家臣たちの対立、政治思想の違い、そして権力闘争が、その絆に亀裂を生んでいきます。

最後には兄弟で戦うという悲劇に至りましたが、これは単なる個人的な争いではありませんでした。保守と革新、伝統と実力主義、公家勢力と新興武士──様々な価値観の対立が、直義と尊氏という二人の兄弟を通じて表面化したんですね。

現代への教訓

直義の生涯は、私たちに何を教えてくれるでしょうか。

優れた能力を持ち、理想を掲げて政治に臨んでも、周囲との調整や妥協なくしては成功しないこと。そして、どれほど強い絆で結ばれていても、価値観の違いや権力闘争は、その絆を引き裂いてしまう危険性があること。

直義は敗者として歴史に名を残しましたが、その政治的手腕と人格は、後世の再評価を受けるに値するものでした。兄を支え、新しい時代の基礎を築いた名補佐役の悲劇──それが足利直義の物語なのです。

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