【隻眼の王】アンティゴノス1世とは?アレクサンドロス大王の最有力後継者の生涯を解説!

神話・歴史・伝承

アレクサンドロス大王が築いた巨大な帝国。その偉大な王が亡くなったあと、誰が後を継ぐのか?

この問いに「俺だ」と名乗りを上げた将軍たちの中で、最も勢力を誇ったのがアンティゴノス1世でした。

80歳を超えても戦場に立ち続け、「帝国の再統一」という大きな夢を追いかけた隻眼の王。その波乱万丈の人生は、まさにドラマチックなんです。

この記事では、アレクサンドロス大王の最有力後継者「アンティゴノス1世」について、その生涯や功績、人物像を分かりやすくご紹介します。


スポンサーリンク

概要

アンティゴノス1世は、紀元前4世紀に活躍した古代マケドニアの将軍であり王です。

アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)に仕え、大王の死後は「ディアドコイ(後継者)」の一人として頭角を現しました。ディアドコイというのは、大王亡きあとに帝国の支配権を争った有力な将軍たちのことなんですね。

数多くいた後継者たちの中でも、アンティゴノスは最大の勢力を築き上げた人物です。小アジア(現在のトルコあたり)からシリア、メソポタミアまでを支配下に置き、紀元前306年には息子のデメトリオスとともに王位を宣言しました。

彼が開いた王朝は「アンティゴノス朝」と呼ばれ、紀元前168年にローマに滅ぼされるまでマケドニアを支配し続けることになります。


偉業・功績

アンティゴノス1世が成し遂げた主な功績を見ていきましょう。

フリュギア太守としての活躍

アレクサンドロス大王がペルシャ遠征に出発したとき、アンティゴノスはフリュギア太守として小アジアに残りました。太守というのは、その地域を治める責任者のことです。

大王が東へ進軍している間、ペルシャ軍が反撃してきましたが、アンティゴノスはこれを3度にわたって撃退。大王の補給路と連絡線をしっかり守り抜いたんです。この働きが認められ、アレクサンドロスから引き続き太守に任命されました。

後継者戦争での勝利

アレクサンドロス大王が紀元前323年に亡くなると、後継者争いが勃発します。

アンティゴノスは敵対するエウメネスを打ち破り、小アジア全体を掌握。さらにバビロニアも手に入れ、後継者の中で最大の勢力を築き上げました。

主な軍事的勝利

  • オルキュニアの戦い(紀元前320年):エウメネスを破る
  • クレトポリスの戦い(紀元前319年):ペルディッカス派を壊滅させる
  • ガビエネの戦い(紀元前316年):エウメネスを最終的に降す
  • サラミスの海戦(紀元前306年):息子デメトリオスがプトレマイオスに大勝

王位宣言とアンティゴノス朝の創設

紀元前306年、サラミスの海戦での勝利を受けて、アンティゴノスは息子デメトリオスとともに王(バシレウス)を名乗りました。

これは「アレクサンドロス帝国の正統な後継者は自分だ」という宣言でもあったんです。この動きをきっかけに、他の後継者たちも次々と王を称するようになりました。


系譜・出生

アンティゴノスの家族関係について見ていきましょう。

出自

  • 生年:紀元前382年
  • 没年:紀元前301年(享年81歳または82歳)
  • 出身:マケドニア
  • :ピリッポス(マケドニアの貴族)
  • :名前は不明

アンティゴノスの家系については、「農民出身」という説と「王家に連なる」という説がありますが、どちらも確証はありません。おそらくはマケドニアの有力貴族の出身だったと考えられています。

家族構成

  • :ストラトニケ(兄デメトリオスの未亡人)
  • 息子:デメトリオス1世ポリオルケテス、ピリッポス
  • 兄弟:兄デメトリオス、弟プトレマイオス

息子のデメトリオスは「ポリオルケテス(都市の攻囲者)」というあだ名で知られる名将となり、父の死後もアンティゴノス朝を継承していくことになります。


姿・見た目

アンティゴノスの外見で最も特徴的なのは、その隻眼です。

「モノフタルモス」の由来

アンティゴノスには「モノフタルモス」というあだ名がつけられていました。これはギリシャ語で「隻眼」、つまり「片目の」という意味なんです。

どのようにして片目を失ったのか、正確な記録は残っていません。一説では、紀元前340年のペリントス包囲戦で投石機の矢を目に受けたためとも言われています。

コインに残る姿

アンティゴノスの姿は、当時鋳造されたコインに残されています。コインの肖像画が右向きで描かれていることから、失ったのは左目だったと推測されているんですね。

大柄な体格

アンティゴノスは非常に大柄な体格の持ち主でした。

息子のデメトリオスも「英雄的な体格」と評されるほど大きかったのですが、アンティゴノスはそれよりもさらに背が高かったそうです。隻眼と相まって、戦場では非常に威圧感のある存在だったことでしょう。


特徴

アンティゴノスの人物像には、いくつかの際立った特徴があります。

「帝国再統一」への執念

アンティゴノスの行動を貫いていたのは、アレクサンドロス帝国の再統一という大きな夢でした。

大王の死後、帝国は複数の後継者によって分裂してしまいます。アンティゴノスは、この分裂した帝国を再び一つにまとめようと、生涯をかけて戦い続けたのです。

優れた軍事的才能

アンティゴノスは卓越した軍事指揮官でした。

イプソスの戦いで敗れるまで、彼は一度も戦いに負けたことがなかったと言われています。大胆な戦略と素早い行軍で、数々の敵を打ち破ってきました。

友人への複雑な感情

かつての友人エウメネスとの関係は、アンティゴノスの複雑な性格を表しています。

エウメネスを捕らえたとき、アンティゴノスは彼を味方に引き入れようとしました。しかし部下たちの反対で断念せざるを得ず、処刑を命じることに。それでも「友人に暴力を振るいたくない」と、餓死刑を選んだのです。

エウメネスが別の形で殺されたあと、アンティゴノスは盛大な葬儀を執り行い、遺灰を銀の壺に納めて遺族のもとへ送りました。


伝承

アンティゴノス1世にまつわる逸話や伝説を紹介しましょう。

友情を捨てた決断

アレクサンドロス大王の死後、かつての友人エウメネスがアンティゴノスに援軍を求めてきました。しかし、アンティゴノスはこれを断ってしまいます。

なぜなら、エウメネスが小アジアで自分のライバルになることを恐れたからです。この決断が、二人の運命を大きく分けることになりました。やがて後継者戦争が起こり、かつての友は敵として戦うことに。最終的にアンティゴノスはエウメネスを倒しましたが、その胸中は複雑だったことでしょう。

最後の戦い:イプソスの悲劇

紀元前301年、アンティゴノスの勢力拡大を恐れた他の後継者たち(セレウコス、プトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコス)は、反アンティゴノス同盟を結成しました。

小アジアのイプソスで決戦が行われます。戦いの最中、息子デメトリオスの部隊が敵を追撃して本隊から離れてしまい、アンティゴノスは孤立してしまいました。

82歳の老将は最後まで踏みとどまり、味方の援軍が来ることを信じて戦い続けました。しかし、ついに投げ槍を受けて戦死

彼の死により、アレクサンドロス帝国の再統一という夢は永遠に潰えることになったのです。

戦場に立ち続けた老王

80歳を超えてもなお戦場に立ち続けたアンティゴノス。

イプソスの戦いでは、自ら陣頭に立って戦いました。息子デメトリオスが敵を追いかけて離れてしまっても、「必ず戻ってくる」と信じて持ち場を離れなかったといいます。その姿勢は、まさに不屈の闘志を体現したものでした。


出典・起源

アンティゴノス1世に関する情報は、複数の古代史料から得られています。

主な史料

古代の歴史家による記録

  • ディオドロス・シクルス:『歴史叢書』で後継者戦争を詳細に記述
  • プルタルコス:『対比列伝』でデメトリオスの伝記を通じて父アンティゴノスにも言及
  • アッリアノス:『アレクサンドロス東征記』でアレクサンドロス時代の活躍を記録
  • クルティウス・ルフス:アレクサンドロス大王の歴史を記述

物証としてのコイン

アンティゴノスが鋳造させたコインも重要な史料です。

コインに刻まれた肖像画から、彼の容貌や隻眼であったことが推測されています。また、王を名乗った紀元前306年以降のコインには、王としての称号が刻まれるようになりました。


まとめ

アンティゴノス1世は、アレクサンドロス大王亡きあとの世界で、帝国再統一を目指して戦い続けた隻眼の王でした。

重要なポイント

  • アレクサンドロス大王に仕えた将軍で、大王の死後は後継者(ディアドコイ)の一人に
  • 「モノフタルモス(隻眼)」というあだ名で知られる
  • 後継者の中で最大の勢力を築き、紀元前306年に王位を宣言
  • アンティゴノス朝を創設し、マケドニア王家の祖となる
  • 紀元前301年、イプソスの戦いで82歳にして戦死
  • 彼の死により、アレクサンドロス帝国の再統一は不可能に

82歳という高齢でありながら、最後まで戦場に立ち続けたアンティゴノス。
その生涯は、野心と友情、栄光と悲劇が交錯する、古代世界を代表するドラマと言えるでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました