インド神話には、幸運と繁栄をもたらす女神ラクシュミーがいます。
しかし、その光の裏には、不幸や貧困を司る「影の女神」が存在することをご存じでしょうか。
それがアラクシュミー(Alakshmi)です。
この記事では、アラクシュミーの起源・象徴・儀式・哲学的意義まで、一次資料と学術的情報をもとに詳しく解説します。
概要
アラクシュミー(Alakshmi)は、ヒンドゥー教における不幸・貧困・不吉の女神です。
その名が示すとおり、幸運の女神ラクシュミーの「対極」に位置する存在として知られています。
ヴェーダ文献のシュリー・スークタ(Shri Sukta)にその言及が見られ、プラーナ文献では乳海攪拌(にゅうかいかくはん)の神話と結びつけられています。
日本では仏教を通じて「黒闇天(こくあんてん)」として受容されており、吉祥天(きっしょうてん)の妹にあたる存在です。
アラクシュミーの名前と語源
アラクシュミーという名前は、サンスクリット語の「अलक्ष्मी」に由来します。
これは否定の接頭辞「अ(a)」と「लक्ष्मी(Lakṣmī)」を組み合わせた語で、「ラクシュミーではないもの」すなわち「不幸」「不吉」を意味します。
アラクシュミーには複数の別名があり、それぞれが異なる側面を反映しています。
| 日本語名 | 原語 | 意味・由来 |
|---|---|---|
| ジュエーシュター | Jyeshtha / ज्येष्ठा | 「最年長の者」。乳海攪拌においてラクシュミーより先に出現した神話的背景に由来 |
| カラハプリヤー | Kalahapriya | 「争いを好む者」 |
| ダリドラー | Daridra | 「貧困」そのものを意味する |
| ムーデーヴィー | Mudevi | タミル語で「最年長の女神(Mootha Devi)」が転訛したもの(マドラス大学タミル語辞典〔1924–1936〕ではமூ「mū=最年長の」+தேவி「女神」の合成語として記録) |
英語版Wikipediaによれば、アラクシュミーという名前自体はヴェーダやウパニシャッド、初期プラーナ文献には直接登場しません。
しかし、アラクシュミーの特徴はリグ・ヴェーダに登場するニルリティ(Nirṛti)という女神と一致するとされています。
ヴェーダにおける起源:ニルリティ
アラクシュミーの原型とされるニルリティ(Nirṛti)は、リグ・ヴェーダに登場する女神です。
ニルリティという名前はサンスクリット語の「nir(=なし)」と「ṛta(宇宙の秩序)」から構成され、「秩序の欠如・混沌」を意味するとも解釈されます(別説では「nirṛ」=分離する、に由来するとも)。
リグ・ヴェーダにおいて、ニルリティは死・病・災厄を司る存在として描かれています。
彼女はヴェーダ的な秩序が存在しない世界、すなわち混沌と退廃の領域を支配するとされました。
ニルリティからアラクシュミーへの変遷について、宗教学の研究では次のように理解されています。
ヴェーダ期にはニルリティという独立した女神として崇拝されていた不吉の概念が、プラーナ時代以降にラクシュミー信仰が隆盛すると、その「対極」としてアラクシュミーに再構成されたと考えられています。
乳海攪拌とアラクシュミーの誕生
アラクシュミーの起源を語る最も重要な神話が、乳海攪拌(サムドラ・マンタナ)です。
パドマ・プラーナ(Padma Purana)によれば、宇宙の創造において神々(デーヴァ)とアスラが乳海を攪拌した際、まず猛毒ハラハラが現れ(シヴァ神がこれを飲み込んだ)、次にジュエーシュター・デーヴィー(アラクシュミー)が出現し、その後にラクシュミーが現れたとされています。
より大きな努力の末に吉兆のもの(善きもの)が生まれるという宇宙論的な秩序が示されており、ラクシュミーより先にジュエーシュター・デーヴィー(アラクシュミー)が出現したと記されています。
この神話は、ヴィシュヌやラクシュミーを中心とするインド神話の宇宙観と密接に結びついています。
光があるから影が生まれ、幸運があるから不幸が定義される――アラクシュミーの存在は、こうした二元論的な宇宙観を体現するものといえるでしょう。
一部の伝承では、アラクシュミーは聖仙ドゥッサハ(Dussaha)と結婚したとされています。
アラクシュミーの外見と象徴
英語版Wikipediaには、アラクシュミーの外見について詳しい描写が残っています。
乾いてしわだらけの体、くぼんだ顔、分厚い唇、小さな目を持ち、ロバに乗る姿で表現されるのが特徴です。
また別の記述では「牛を追い払い、アンテロープの足を持ち、雄牛の歯を持つ」とも描かれています。
これらの描写はいずれも、姉妹であるラクシュミーの美しさ・豊かさとは対照的です。
| 特徴 | アラクシュミー | ラクシュミー |
|---|---|---|
| 外見 | 乾いた肌、しわだらけ | 金色に輝く美貌 |
| 乗り物 | ロバ | フクロウ(一部の伝承では象も)※ |
| 旗印 | カラス(タミル語で「カッカイ・コーディ」) | — |
| 象徴 | 貧困・不幸・飢餓 | 富・幸運・繁栄(蓮の花) |
| 色 | 黒・暗色 | 金色・白 |
※ラクシュミーの乗り物として最も一般的に伝わるのはフクロウです。「ガジャ・ラクシュミー」の図像では象が左右に控えますが、これはラクシュミーが乗る乗り物(ヴァーハナ)ではなく、水をそそぐ随伴的な象徴です。
アラクシュミーの象徴する属性は、シュリー・スークタの注釈において「六つの苦悩(シャット・ウールミ)」として体系化されています。
Sanskrit Documentsの解説によれば、その六つとは飢え、渇き、悲嘆(śoka)、迷妄(moha)、老い、そして死です。
アラクシュミーが好んで住む場所についても伝承があります。
汚れた場所、争いの絶えない家、嘘が横行する場所、怠惰な者のもと、ヴェーダ的な生活が失われた場所にアラクシュミーが宿るとされています。
シュリー・スークタにおけるアラクシュミー
アラクシュミーに関する最も古い文献的言及は、リグ・ヴェーダの付録(キラ)に収録されたシュリー・スークタ(Shri Sukta)に見られます。
英語版Wikipedia「Lakshmi」の項によれば、シュリー・スークタは仏教成立以前に遡る可能性がある重要な讃歌で、伝統的には15節を主要部とする讃歌として知られており(第16節の自己言及「sūktaṃ pañcadaśarcaṃ」に基づく)、複数の層からなる伝承テキストです。
この讃歌では、ラクシュミーの栄光を称えると同時に、その対極にあるアラクシュミーの追放が繰り返し祈願されています。
特に重要なのは第5節、第6節、第8節です。
Sanskrit Documentsの注釈によれば、第8節では「ジュエーシュター(先に生まれた者)であるアラクシュミーを滅ぼす(nāśayāmy aham)」という宣言が述べられ、飢えと渇きに始まる六つの苦悩からの解放が求められています。
注目すべきは、この祈願が受動的な懇願ではなく能動的な宣言として表現されている点です。
「私はアラクシュミーを滅ぼす」という能動態の表現が用いられており、信仰者自身が不幸を追い払う力を持つという思想が示されています。
ジュエーシュター:南インドにおける崇拝の歴史
アラクシュミーの別名ジュエーシュター(Jyeshtha)は、かつて南インドで独立した女神として崇拝されていた時代があります。
複数の研究が示すように、ジュエーシュター崇拝は南インド(主にタミル・ナードゥ州)を中心に、7世紀から8世紀ごろに盛んであったとされています。
タミル語圏ではムッタ・デーヴィー(Mootha Devi、最年長の女神)と呼ばれ、これが後にムーデーヴィー(Mudevi)へと変化しました。
しかし、10世紀ごろまでにジュエーシュター崇拝は衰退し、その画像は寺院の隅や村の外れに放置されるようになったとされています。
一部の研究者は、これを村の地方神(グラーマ・デーヴァター)としての存続と解釈しています。
一部の研究者は、ジュエーシュターがカーリーやルドラの妻カーリカーとして再構成された可能性を指摘しています。
また、カリ・プルシャ(カリ・ユガの神)の妻として崇拝される伝承も残っています。
アラクシュミーにまつわる儀式と信仰
ディーワーリーの追放儀礼
ヒンドゥー教の重要な祭祀であるディーワーリー(光の祭り)では、ラクシュミーを家に迎えるための儀式と並んで、アラクシュミーを家から追い出す儀礼が行われます。
英語版Wikipediaによれば、多くのコミュニティ、特にディーワーリーの期間中に、ラクシュミーを歓迎する儀式を行う前にアラクシュミーを追放する儀礼を実施するとされています。
レモンと唐辛子の魔除け
北インドを中心に、レモン7本の青唐辛子を紐で結んで玄関先に吊るす習慣が広く見られます。
この風習にはアラクシュミーに関する二つの解釈があります。
一つ目は、レモンの酸味と唐辛子の辛味が生み出す強いにおいをアラクシュミーが嫌い、家に入れなくなるという解釈です。
もう一つは、酸っぱいものや辛いものを好むアラクシュミーが玄関先でその供物を受け取って満足し、家の中には入ってこない――その間に、より洗練された食べ物を好む妹のラクシュミーが家に入るという解釈です。
アラクシュミー・ナーシャナ・マントラ
アラクシュミーの影響を退けるための専用の真言として「アラクシュミー・ナーシャナ・マントラ(Alakshmi Nashana Mantra)」が伝わっています。
英語版Wikipediaによれば、この真言はアラクシュミーとその影響を追放・破壊することを祈願すると同時に、妹のラクシュミーを称え、家に迎え入れることを求める内容とされています。
仏教における受容:黒闇天
アラクシュミーは仏教に取り入れられ、日本では「黒闇天(こくあんてん)」として知られています。
吉祥天(きっしょうてん)がラクシュミーの仏教的受容であるのに対し、黒闇天はアラクシュミーに対応する存在です。
日本語版Wikipediaによれば、黒闇天は吉祥天の妹とされ、容姿醜悪で不幸をもたらす女神として描かれています。
なお、ヒンドゥー教においてアラクシュミーはラクシュミーより先に誕生した「姉」とされますが、仏教における受容では関係が逆転しており、黒闇天は吉祥天の「妹」として扱われています。この点は両伝統を比較する際に注意が必要です。
仏教においても、吉祥天と黒闇天は常に対になる存在として語られてきました。
なお、『涅槃経』では吉祥天は「功徳天(くどくてん)」の名でも記されており、日本仏教においてこの両名は同一の存在として扱われています。
『涅槃経』巻12には「姉を功徳天と云い人に福を授け、妹を黒闇女と云い人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」と記されており、二者が不可分の存在であることが明示されています。
興味深いことに、吉祥天と黒闇天は常に一対で行動し、一方だけを招き入れることはできないという説話が『涅槃経』に伝えられています。
幸運と不幸は不可分であり、一方だけを求めることはできないという仏教的な教訓が込められた物語です。
この思想は、ヒンドゥー教におけるアラクシュミーの位置づけとも共通しています。
インド神話の神々の体系において、善と悪は宇宙の両面として不可分に結びついているのです。
アラクシュミーの哲学的意義
アラクシュミーは単なる「悪い女神」ではなく、ヒンドゥー哲学における重要な概念を体現しています。
まず、宇宙の二元性の象徴という側面があります。
乳海攪拌の神話が示すように、善きものが生まれるためには、まず悪しきものが出現しなければなりません。
光と闇、富と貧困、幸と不幸――これらは切り離すことのできない一対として存在しています。
次に、人間の行為と結果の関係を示す側面です。
アラクシュミーが汚れ・争い・嘘・怠惰のある場所に宿るという伝承は、不幸が外部からやってくる災厄ではなく、人間自身の行為の結果であることを示唆しています。
ヴェーダ的な秩序(リタ)に沿った生活を送ることでアラクシュミーは遠ざかり、ラクシュミーが訪れるという教えは、行為と結果の因果関係を明確に示しています。
英語版Wikipediaには、アラクシュミーは不吉をもたらす存在でありながらも偉大なるマハーデーヴィーの一形態であり、人々をラクシュミーを引き寄せる行為へと駆り立てるために存在するという信仰があることが記されています。
不幸の女神もまた、究極的には人間の成長と向上を促す存在として位置づけられているのです。
この二元論的な世界観は、シヴァの破壊と再生の思想や、インド神話全体を貫く宇宙観とも深く結びついています。
まとめ
- アラクシュミーは「不幸の女神」であり、幸運の女神ラクシュミーの対極に位置する存在である
- サンスクリット語で「ラクシュミーではないもの」を意味し、ジュエーシュター、ムーデーヴィーなど複数の別名を持つ
- ヴェーダの女神ニルリティ(宇宙の秩序の欠如)がその原型とされている
- パドマ・プラーナでは乳海攪拌の際、毒ハラハラの次に(ラクシュミーより先に)出現したと記されている
- シュリー・スークタではアラクシュミーの追放とラクシュミーへの帰依が祈願されている
- 南インドでは7〜8世紀ごろにジュエーシュターとして独自の崇拝が存在した
- ディーワーリーの追放儀礼やレモン・唐辛子の魔除けなど、現代にも信仰が息づいている
- 仏教では黒闇天(こくあんてん)として日本にも伝わり、吉祥天の妹として知られる
- 哲学的には宇宙の二元性を体現し、人間を善き行為へと導く存在として位置づけられている
参考情報
関連記事
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- 吉祥天(きっしょうてん)とは?
- 宇宙を守る神・ヴィシュヌとは
- インド神話の三大神
- インド神話の神様一覧
- インド神話の最高神とは
- 破壊と再生の神・シヴァとは
この記事で参照した情報源
一次資料(原典への言及)
- シュリー・スークタ(Shri Sukta) — リグ・ヴェーダの付録に収録された讃歌。アラクシュミーの追放を祈願する第5節・第6節・第8節を含む
- パドマ・プラーナ(Padma Purana) — 乳海攪拌におけるアラクシュミーの出現を記述
- 『涅槃経』巻12 — 「姉を功徳天と云い人に福を授け、妹を黒闇女と云い人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」
参考にした二次・三次資料
- Wikipedia “Alakshmi”(英語版) — アラクシュミーの語源・外見描写・儀礼・信仰の基本情報
- Wikipedia “Lakshmi”(英語版) — シュリー・スークタの構成とアラクシュミーとの関係
- Wikipedia “Jyestha (goddess)”(英語版) — ジュエーシュター崇拝の歴史的記述(7〜8世紀に盛行、10世紀に衰退)
- Sanskrit Documents — Shri Suktam 注釈 — シュリー・スークタの詳細な語釈とアラクシュミーの六つの苦悩の解説
- Wikipedia「黒闇天」(日本語版) — 仏教における受容と吉祥天との関係(「吉祥天の妹」として記述)
- Wikipedia「吉祥天」(日本語版) — 「妹に黒闇天がいる」として記述

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