「敵は本能寺にあり」——そんなセリフで有名な明智光秀。
織田信長を討った謀反人として歴史に名を残した彼ですが、実はその生涯の大半は謎に包まれています。
どこで生まれたのか、なぜ信長を裏切ったのか、最期はどうなったのか。
確実にわかっていることは意外と少ないんです。
この記事では、日本史最大のミステリーとも言われる明智光秀の生涯を、わかりやすく紐解いていきます。
明智光秀とは
明智光秀は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。
織田信長の重臣として活躍し、一国一城の主にまで上り詰めました。
ところが1582年、突如として主君・信長を本能寺で襲撃。
天下を手にしたかに見えましたが、わずか13日後には豊臣秀吉に敗れて命を落としました。
この短い天下は「三日天下」と呼ばれています。
ただし「三日」は実際の日数ではなく、「ごく短い期間」という意味で使われているんですね。
謎に包まれた出自
明智光秀の前半生は謎だらけです。
生年も出身地も不明
生まれた年は1528年説が有力ですが、1526年説や1516年説もあります。
つまり、年齢すらはっきりしないんです。
出身地は美濃国(現在の岐阜県)とされています。
有力なのは可児市の明智城説ですが、恵那市や近江国(現在の滋賀県)で生まれたという説も。
家系については、清和源氏の流れを汲む土岐氏の一族とされていますが、これも確証はありません。
父親の名前すら史料によってバラバラで、明智光綱、明智光国、明智光隆など複数の説があるほどです。
織田信長の正室・濃姫とは従兄妹?
興味深いのは、濃姫との関係です。
一部の系図によると、光秀の叔母が斎藤道三に嫁ぎ、その間に生まれたのが濃姫。
つまり光秀と濃姫は従兄妹で、結果的に信長とも義理の従兄弟だったことになります。
ただし、これも確実な証拠があるわけではありません。
可能性の一つとして語られている程度です。
流浪の日々
1556年、光秀の人生は大きく変わります。
明智城の落城
主君だった斎藤道三が、息子の斎藤義龍との争い(長良川の戦い)で敗死。
光秀は道三側についていたため、義龍の報復を受けることになりました。
明智城は義龍軍に攻められ、落城。
30歳前後だった光秀は、正室の妻木煕子(つまきひろこ)とともに越前国(現在の福井県)へ逃れました。
越前での日々
越前では朝倉義景に仕えたとされていますが、詳細は不明です。
この時期、医学の知識を身につけたという記録も残っています。
落城からしばらくの間、光秀は浪人として各地を転々としていたようです。
この不遇の時代が、後の彼の行動にどう影響したのか——想像するしかありません。
足利義昭との出会い
1568年頃、光秀の運命が再び動き出します。
越前に滞在していた足利義昭(当時は「覚慶」という僧名)。
将軍の座を追われた彼は、各地の大名に支援を求めていました。
光秀は義昭の側近として仕えるようになります。
そして、細川藤孝とともに義昭と織田信長を引き合わせる役割を果たしたんです。
この仲介が、光秀の人生を大きく変えることになりました。
織田信長への仕官
信長が義昭を奉じて上洛したのは1568年。
光秀もこれに従い、次第に信長の家臣としての立場を強めていきます。
最初の城持ち大名に
1571年、光秀は比叡山焼き討ちで大きな功績を立てました。
この戦いは今でも議論を呼ぶ過激な作戦でしたが、光秀は積極的に関与したとされています。
その功績により、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)を与えられ、坂本城の城主に。
これは信長の家臣の中で、最初に城を与えられた例でした。
坂本城は琵琶湖のほとりに建てられた水城で、安土城に次ぐ規模を誇ったといいます。
信長がいかに光秀を信頼していたかがわかりますね。
丹波平定の功績
1575年から、光秀は丹波国(現在の京都府中部・兵庫県北東部)の平定を任されます。
これは簡単な仕事ではありませんでした。
地元の豪族たちが激しく抵抗したため、平定には4年もかかったんです。
1579年、ついに丹波を平定。
信長は「天下に面目を施した」と絶賛し、光秀は34万石の大領主となりました。
この時点で光秀は、織田家の重臣中の重臣。
柴田勝家や羽柴秀吉と並ぶ存在にまで上り詰めていたのです。
本能寺の変
1582年6月2日早朝。
日本の歴史を変える大事件が起こります。
事件当日の状況
6月1日、光秀は1万3000人の軍勢を率いて丹波亀山城を出発しました。
表向きは羽柴秀吉の援軍として中国地方へ向かうはずでした。
ところが、軍勢は途中で方向を変えます。
目指したのは京都——本能寺でした。
信長が本能寺に滞在していることを、光秀は把握していました。
しかも護衛はわずか150人程度。
6月2日早朝、光秀軍は本能寺を完全に包囲します。
圧倒的な兵力差の前に、信長は寺に火を放って自害しました。
「敵は本能寺にあり」は創作?
「敵は本能寺にあり」という有名なセリフがありますよね。
実はこれ、江戸時代に書かれた『明智軍記』などの創作なんです。
同時代の史料には、光秀がそう言ったという記録は一切残っていません。
ドラマチックな演出として後世に作られたものと考えられています。
なぜ信長を討ったのか
本能寺の変が起きた理由——これが日本史最大のミステリーです。
光秀は信長から高く評価され、重用されていました。
にもかかわらず、なぜ裏切ったのか。
怨恨説
最も古くから語られているのが、信長への恨みが原因とする説です。
例えば、丹波の波多野秀治を降伏させる際、光秀は人質を差し出して安全を約束しました。
ところが信長は約束を破って秀治を処刑。
怒った波多野の家臣が、人質だった光秀の母を殺害したという話があります。
ただし、この話は後世の創作の可能性が高いとされています。
光秀の母が1581年まで生きていた記録があるためです。
他にも、徳川家康の接待役を務めた際に失敗し、信長から叱責されたという話も。
人前で「禿げ頭」と罵られたなど、大小様々な恨みが積み重なったという説があります。
四国説
近年注目されているのが、四国政策が原因とする説です。
光秀の家臣・斎藤利三は、四国の長宗我部元親の親戚でした。
光秀は信長と元親の仲介役を務めていたんです。
ところが、信長は突然方針を変更。
元親に対して「土佐1国以外は返上しろ」と命じ、四国征伐を決定しました。
仲介役だった光秀は完全に面目を失った形に。
この屈辱が謀反の引き金になったという説です。
野望説
光秀自身が天下を狙っていたとする説もあります。
戦国時代は下剋上の時代。
能力のある者が主君を倒して権力を握ることは、決して珍しくありませんでした。
実際、光秀は本能寺の変の後、「信長父子の悪虐は天下の妨げ」という書状を送っています。
これが本心だったのか、それとも大義名分だったのか——判断は難しいところです。
その他の説
朝廷が黒幕だったという説、徳川家康が裏で糸を引いていたという説など、様々な説が提唱されています。
ただし、どれも決定的な証拠はありません。
複数の要因が重なって、光秀を追い詰めたのかもしれませんね。
山崎の戦いと最期
本能寺の変の後、光秀は天下人となるべく動き出します。
孤立する光秀
光秀は朝廷や有力大名に協力を求めましたが、反応は冷ややかでした。
期待していた細川藤孝は、すぐに光秀と縁を切ります。
筒井順慶も日和見を決め込みました。
一方、羽柴秀吉の動きは素早かった。
中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、信長の死を知るとすぐに和睦。
驚異的な速度で京都へ引き返してきたんです。
決戦
1582年6月13日、山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)で両軍が激突。
光秀軍は約1万人。
対する秀吉軍は約2万人。
兵力で劣る光秀軍でしたが、善戦します。
しかし、援軍が来ないまま徐々に押され、ついに敗走。
光秀の最期
敗走する光秀を待っていたのは、落ち武者狩りでした。
坂本城を目指して逃げる途中、農民に襲われて命を落とした——これが通説です。
ただし、光秀の首を確認したという確実な記録は残っていません。
自害したという説もあれば、実は生き延びて僧となり、南光坊天海として徳川家康に仕えたという説まであります。
最期まで謎に包まれているんですね。
本能寺の変から山崎の戦いまで、わずか13日間。
これが「三日天下」と呼ばれる所以です。
光秀の人物像
謀反人としてのイメージが強い光秀ですが、本来はどんな人物だったのでしょうか。
優れた文化人
光秀は高い教養を持つ文化人でした。
連歌や茶の湯に通じ、当代一流の文化人たちと交流していました。
足利義昭の上洛直後には、公家や連歌の宗匠が集まる格式高い連歌会に参加しているほどです。
こうした教養が、朝廷や公家との交渉で役立っていたんですね。
有能な行政官
武将としてだけでなく、行政官としても優秀でした。
坂本や丹波では善政を敷いたとされ、領民から慕われていたといいます。
軍団の統制のために定めた『家中軍法』は、当時としては先進的なものでした。
この軍法の最後には「落ちぶれた身分から召し抱えてもらった恩義」が記されています。
本能寺の変のわずか1年前に書かれたこの文章が、なんとも皮肉ですね。
家族思いの一面
妻の妻木煕子との間には、深い絆があったようです。
煕子は結婚直前に天然痘にかかり、顔に痘痕が残ってしまいました。
妻木家では妹を身代わりに嫁がせようとしましたが、光秀はそれを断り、煕子を正室に迎えたといいます。
光秀が煕子に宛てた手書きの手紙も残っており、他の武将の書簡と比べてかなりくだけた調子。
妻を友人のように思っていたことがうかがえます。
まとめ
明智光秀について、わかっていることをまとめると:
- 戦国時代から安土桃山時代の武将で、織田信長の重臣として活躍
- 出自や前半生は謎が多く、確実なことはほとんどわかっていない
- 1582年6月2日、本能寺で信長を襲撃し、天下を手にする
- 本能寺の変の動機は不明で、怨恨説・四国説・野望説など諸説ある
- 6月13日の山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、わずか13日で天下を失う
- 優れた武将であり、文化人であり、行政官でもあった多才な人物
本能寺の変から400年以上が経った今でも、光秀の真意は謎のままです。
なぜ信長を討ったのか、本当は何を考えていたのか——想像の余地が残されているからこそ、私たちは今でも光秀に魅了され続けているのかもしれませんね。


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