1888年の秋、霧深いロンドンの貧民街で、連続殺人事件が発生しました。
犯人は今なお特定されておらず、世界で最も有名な未解決事件として知られています。
この記事では、犯罪史上最も悪名高い連続殺人犯「ジャック・ザ・リッパー(Jack the Ripper)」について、事件の詳細から文化的影響まで詳しくご紹介します。
概要
ジャック・ザ・リッパー(Jack the Ripper)は、1888年にイギリス・ロンドンのホワイトチャペル地区とその周辺で犯行を繰り返した正体不明の連続殺人犯です。
わずか2ヶ月の間に少なくとも5人の女性を殺害し、遺体を残酷に切り裂いたことからこの名で呼ばれるようになりました。
犯人は捕まることなく姿を消し、130年以上が経過した現在でも真犯人は特定されていません。
この事件は犯罪史上初の「劇場型連続殺人事件」として、世界中の注目を集めました。
事件の背景:1888年のロンドン
ホワイトチャペル地区の惨状
事件が起きたホワイトチャペル地区は、ロンドン東部イーストエンドに位置する極貧のスラム街でした。
19世紀後半の産業革命により、ロンドンの人口は爆発的に増加していました。
1851年には270万人だった人口が、1901年には660万人に達し、当時世界最大の都市となっていたのです。
この急激な人口増加により、深刻な問題が発生しました。
住宅不足、過密状態、劣悪な衛生環境が蔓延し、特にイーストエンドの貧困は極限に達していました。
一つの部屋を複数の家族で共有することも珍しくなく、換気の悪い湿気だらけの家屋が立ち並んでいたのです。
貧困と犯罪の温床
ホワイトチャペル地区では、日雇い労働者の仕事は不安定で低賃金でした。
多くの人々が飲酒、売春、犯罪に手を染めざるを得ない状況に追い込まれていました。
事件の被害者たちも、こうした極貧の中で生きていた女性たちだったのです。
当時の社会は、このような貧困層を見て見ぬふりをしていました。
しかし、ジャック・ザ・リッパー事件が発生したことで、一気に社会の注目が集まることになります。
皮肉にも、この残酷な事件がイーストエンドの惨状を世に知らしめ、社会改革の契機となったのです。
カノニカル・ファイブ:5人の被害者
ロンドン警視庁は、1888年4月から1891年2月にかけて発生した11件の殺人事件を「ホワイトチャペル殺人事件」として捜査しました。
しかし、そのうち5件の殺人事件が同一犯によるものとみなされ、これらは「カノニカル・ファイブ(Canonical Five)」と呼ばれています。
第1の被害者:メアリー・アン・ニコルズ
事件発生日:1888年8月31日
メアリー・アン・ニコルズ(Mary Ann Nichols)は43歳の女性でした。
彼女はソーホーで鍵職人の父のもとに生まれ、18歳で印刷機製作工の男性と結婚し、5人の子どもに恵まれました。
しかし夫の浮気が発覚して以降、酒に溺れるようになり、最終的には家を出て実家に身を寄せることになります。
父親ともケンカ別れした彼女は、下宿を転々とする生活を送っていました。
事件当日、彼女はホワイトチャペルの共同下宿に泊まる予定でしたが、宿代が払えませんでした。
午前2時30分頃に「客待ち」をしている姿が目撃されたのを最後に、約1時間後にバックス・ロウ(現在のダーウォード・ストリート)で遺体となって発見されました。
喉を横に2度切り裂かれ、さらに下腹部から喉に向けて縦に深く切り上げられていました。
不思議なことに、流れ出た血液量はワイングラス2杯程度しかなく、別の場所で殺害された後に運ばれた可能性が指摘されています。
第2の被害者:アニー・チャップマン
事件発生日:1888年9月8日
アニー・チャップマン(Annie Chapman)は第2の被害者となりました。
彼女の遺体からは内臓が取り出されており、犯人が解剖学や外科学の知識を持っているのではないかという憶測が広がりました。
第3・第4の被害者:ダブル・イベント
事件発生日:1888年9月30日
9月30日の深夜、ジャック・ザ・リッパーは2人の女性を1時間以内に立て続けに殺害しました。
この出来事は「ダブル・イベント(Double Event)」として知られています。
エリザベス・ストライド(Elizabeth Stride) は44歳のスウェーデン出身の女性でした。
23歳の時に家族でロンドンへ移住し、船の修理工の男性と結婚しましたが、夫は1884年に亡くなりました。
彼女は深夜12時35分頃、「客」と見られる小柄な紳士と一緒にいる姿が目撃されました。
約30分後の午前1時頃、バーナー・ストリート(現在のヘンリク・ストリート)で喉を切り裂かれて発見されました。
まだ首から血が流れている状態だったことから、犯人は通行人の気配に気づいて慌てて逃走したと推測されています。
そのため彼女の遺体には腹部の切開がありませんでした。
欲求不満を解消するかのように、わずか45分後に次の被害者が出ました。
キャサリン・エドウッズ(Catherine Eddowes) は午前1時45分、マイター・スクエアで発見されました。
彼女の遺体は最も激しく損傷されており、顔面も切り刻まれていました。
片方の耳の一部が斜めに切り取られていたことも特徴的でした。
第5の被害者:メアリー・ジェーン・ケリー
事件発生日:1888年11月9日
メアリー・ジェーン・ケリー(Mary Jane Kelly)は、ジャック・ザ・リッパーの最後の被害者とされています。
他の被害者が40代だったのに対し、彼女は20代半ばと若かったことも注目されました。
11月9日午前10時45分、ミラーズ・コート13番地の彼女の部屋で遺体が発見されました。
家賃を滞納していたため、家主の助手が家賃の取り立てに訪れたのです。
ドアをノックしても返事がなかったため、窓の隙間から中を覗いた彼が目にしたのは、想像を絶する光景でした。
メアリーの遺体は認識不可能なほど切り刻まれていました。
腹部全体が空洞になり、乳房は切り取られ、内臓は頭の下や枕元のテーブルに置かれていました。
室内での犯行だったため、犯人は時間をかけてこの残虐行為を行うことができたのです。
事件の特徴
犯行の手口
ジャック・ザ・リッパーの犯行には、いくつかの共通した特徴がありました。
被害者の選定:
- 全員が極貧の生活を送っていた女性
- ほとんどが40代(メアリー・ケリーを除く)
- 路上で客を待っているところを襲われた
殺害方法:
- 喉を横に切り裂く
- 腹部を切開して内臓を取り出す
- 少なくとも3人の被害者から内臓が持ち去られた
- 左から右へ傷をつけていることから、左利きまたは両利きと推測
時間帯:
- 全て深夜から早朝にかけて発生
- 路上または屋内(メアリー・ケリーのみ)
解剖学的知識の有無
遺体の切開の仕方から、犯人は解剖学や外科学の知識を持っているのではないかという推測が広まりました。
内臓が正確に摘出されていたことから、医師、外科医、食肉処理業者などの職業が容疑者として浮上したのです。
ただし、この点については専門家の間でも意見が分かれています。
単に切り裂いただけで、特別な技術は必要なかったという見方もあります。
「切り裂きジャック」の名前の由来
最初は「ホワイトチャペルの殺人鬼」
事件当初、犯人には特定の呼び名はありませんでした。
新聞は「ホワイトチャペル殺人事件」という見出しを使い、地元住民は犯人を「レザー・エプロン(Leather Apron、革のエプロン)」と呼んでいました。
現場近くに食肉処理場があり、そこで働く職人たちが鋭利な刃物と革製のエプロンを使っていたことから、この呼び名が生まれたのです。
「Dear Boss」の手紙
1888年9月25日付で、ある手紙がセントラル・ニュース・エージェンシーに届きました。
9月27日に消印が押されたこの手紙は、9月29日にスコットランドヤードに転送されました。
手紙は「親愛なるボスへ(Dear Boss)」という書き出しで始まり、こう続いていました:
「俺は娼婦に恨みがある。次は女の耳を切り取って警察に送ってやる」
そして最後に「ジャック・ザ・リッパー(Jack the Ripper)」という署名がありました。
これが「切り裂きジャック」という名前の初出です。
当初、この手紙はいたずらと考えられていました。
しかし3日後にエドウッズが片方の耳の一部を切り取られた状態で発見されたことから、手紙の内容が注目されるようになったのです。
名前の定着
警察がこの手紙を公開すると、「レザー・エプロン」という呼び名は「ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)」に取って代わられました。
「ジャック」という名前は、既に別のロンドンの伝説的な怪人「バネ足ジャック(Spring-heeled Jack)」にも使われており、身元不明の男性につける俗称でもありました。
その他の手紙
事件発生中、警察や新聞社には何百通もの手紙が送られてきました。
その中で特に有名なものが3つあります。
「Dear Boss」手紙 (9月25日付):最初に「ジャック・ザ・リッパー」の名を使用
「Saucy Jacky」ポストカード (10月1日):ダブル・イベントについて言及し、「二重の出来事(double event)」という表現を使用
「From Hell」手紙 (10月16日):ホワイトチャペルの警察宛に届き、腎臓の半分が同封されていました。手紙には「女から切り取った腎臓の半分を送る。残りの半分は焼いて食べた。なかなかの味だったよ」と書かれていました。
ただし、これらの手紙のほとんどは偽物だったと考えられています。
「Dear Boss」の手紙も、新聞記者が話題作りのために書いた可能性が指摘されているのです。
主な容疑者
ジャック・ザ・リッパー事件では、これまでに100人以上の容疑者の名前が挙がっています。
しかし、当局が正式に犯人と認めた人物は一人もいません。
アーロン・コスミンスキー
近年、DNA分析によって注目されているのがアーロン・コスミンスキー(Aaron Kosminski)です。
彼はポーランドからの移民で、事件当時23歳の理容師でした。
ホワイトチャペル地区の近くに住んでおり、精神疾患と暴力行為の履歴がありました。
また、女性に対する憎悪を抱いていたという記録も残っています。
1894年にロンドン警視庁の助理警視長サー・メルヴィル・マクノートンが作成した覚書には、「コスミンスキー」という名前が容疑者の一人として記されています。
2014年、ある歴史家がDNA分析を行い、事件現場に残されたショールからコスミンスキーのDNAが検出されたと主張しました。
しかし、このDNA分析の手法については専門家から多くの批判が寄せられており、決定的な証拠とは認められていません。
モンタギュー・ドルイット
モンタギュー・ドルイット(Montague Druitt)は弁護士兼教師でした。
最後の事件後に姿を消し、のちにテムズ川で遺体となって発見されました。
彼の失踪のタイミングが事件の終息と一致していることから、長年有力な容疑者とされてきました。
しかし、確実な証拠は何もありません。
ウォルター・シッカート
画家のウォルター・シッカート(Walter Sickert)も容疑者の一人として名前が挙がっています。
彼の描いた絵画の中に、ジャック・ザ・リッパー事件を連想させるものがあったためです。
しかし、これも憶測の域を出ない説です。
ジョージ・チャップマン
ジョージ・チャップマン(George Chapman)、本名セヴェルィン・クウォソフスキ(Seweryn Kłosowski)はポーランド出身の殺人者です。
ホワイトチャペル殺人事件が始まる少し前にイギリスに移住し、事件当時はホワイトチャペルに住んで床屋を営んでいました。
後に3人の妻を次々と毒殺したことが判明し、1903年に絞首刑となりました。
事件を担当したアバーライン警部は、チャップマンを有力容疑者と考えていたとされています。
しかし、彼の殺人手口は毒殺であり、ジャック・ザ・リッパーのような切り裂き方とは大きく異なります。
連続殺人犯が犯行方法を大きく変えることは稀であるため、可能性は低いとする意見もあります。
その他の容疑者
他にも、女性犯人説(「ジル・ザ・リッパー」)や、精神病患者、医師、貴族など、様々な説が唱えられてきました。
しかし、決定的な証拠がないため、真犯人は永遠の謎のままです。
事件の影響と文化的意義
社会改革の契機
ジャック・ザ・リッパー事件は、それまで見て見ぬふりをされてきたイーストエンドの貧困問題に光を当てました。
作家ジョージ・バーナード・ショーは1888年9月24日、『スター』紙への投書でこう皮肉りました:
「我々従来型の社会民主主義者が教育や扇動、組織作りに時間を費やしている間に、ある独立した天才が問題を手中に収めた」
事件の残虐性と被害者たちの悲惨な生活状況が報道されたことで、世論は過密で不衛生なスラムの改善を求めるようになりました。
この事件がきっかけとなって、社会改革の動きが加速したのです。
近代的な犯罪捜査の始まり
ジャック・ザ・リッパー事件は、近代的な犯罪捜査手法が発展する契機ともなりました。
当時はまだ法医学研究所も指紋鑑定も確立されていませんでした。
警察は懸命に捜査を行い、遺体の検視、目撃証言の収集、容疑者の取り調べなど、様々な手法を試みました。
しかし犯人を捕まえることはできず、内務大臣と警視総監が辞任に追い込まれる事態となりました。
「リッパロロジー」の誕生
この事件を研究・分析する人々を「リッパロロジスト(Ripperologist)」と呼び、その学問を「リッパロロジー(Ripperology)」と呼びます。
130年以上経った今でも、世界中の研究者たちが新たな説を唱え続けています。
関連書籍は100冊を超え、今なお新しい研究が発表されています。
未解決という事実が、かえって人々の想像力をかき立て続けているのです。
文化への影響
ジャック・ザ・リッパーは、数多くの創作物に影響を与えました。
文学作品:
- ベロック・ローンズ『下宿人』(1913年)
- アラン・ムーア『フロム・ヘル』(1991-96年、グラフィック・ノベル)
映画:
- アルフレッド・ヒッチコック『下宿人』(1927年)
- 『フロム・ヘル』(2001年)
- その他多数のホラー映画や推理映画
その他:
- オペラ、テレビドラマ、ゲーム、コミックなど多様なジャンルに登場
特に連続殺人犯にニックネームをつける手法は、この事件から始まったとされています。
「ボストンの絞殺魔(Boston Strangler)」「ヨークシャーの切り裂き魔(Yorkshire Ripper)」など、後の連続殺人事件でも同様の命名法が使われるようになりました。
現代への継承
現代でもロンドンのホワイトチャペル地区では、ジャック・ザ・リッパーをテーマにしたウォーキングツアーが人気を集めています。
切り裂きジャック博物館も開設され、事件ゆかりの場所を巡ることができます。
当時は極貧のスラムだったホワイトチャペル地区は、今では高級住宅地へと変貌を遂げました。
かつて数百ポンドだった家が、今では数百万ポンドで取引されるようになったのです。
参考情報
この記事で参照した情報源
学術資料:
- The Whitechapel murders: the case of Jack the Ripper – PubMed掲載の学術論文
信頼できる研究サイト:
- Jack the Ripper | London Museum – ロンドン博物館の公式解説
- Jack the Ripper – History, Victims, Letters, Suspects – 専門研究サイト
百科事典・辞典:
- Wikipedia「切り裂きジャック」- 基本情報の確認
- Wikipedia「Whitechapel murders」- 英語版の詳細情報
- Britannica「Whitechapel Murders」
メディア記事:
まとめ
ジャック・ザ・リッパー(Jack the Ripper)は、1888年のロンドンで少なくとも5人の女性を殺害した正体不明の連続殺人犯です。
事件の特徴:
- わずか2ヶ月の間に5人を殺害(カノニカル・ファイブ)
- 被害者は全員極貧の生活を送っていた女性
- 遺体を残酷に切り裂き、内臓を摘出
- 犯人は解剖学的知識を持っていた可能性
名前の由来:
- 「Dear Boss」という手紙で初めて「Jack the Ripper」という署名が使用された
- 警察が手紙を公開したことで、この名前が定着
影響:
- イーストエンドの貧困問題に社会の注目が集まり、改革の契機となった
- 近代的な犯罪捜査手法の発展に寄与
- 文学、映画、ゲームなど多様な創作物に影響を与えた
- 連続殺人犯にニックネームをつける手法の始まり
容疑者:
- 100人以上の名前が挙がっているが、確定的な証拠はない
- 近年はDNA分析でアーロン・コスミンスキー説が注目されているが、議論は続いている
130年以上経った今でも、ジャック・ザ・リッパーの正体は謎のままです。
この未解決という事実が、かえって人々の想像力をかき立て続け、世界で最も有名な連続殺人事件として語り継がれています。


コメント