七福神と吉祥天の関係とは?かつてのメンバーが外れた理由を徹底解説

七福神といえば、日本で最も親しまれている福の神のグループです。
しかし、現在の七福神が最初から固定されていたわけではありません。
実は、かつて七福神の一員だった「吉祥天(きちじょうてん)」という美しい女神が、ある時期を境にメンバーから外れているのです。

なぜ吉祥天は七福神から外されたのでしょうか?
この記事では、七福神と吉祥天の関係、メンバー変遷の歴史、そして吉祥天に代わって弁財天が選ばれた理由について詳しく解説します。

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概要

吉祥天は、インドの女神ラクシュミーを起源とする仏教の天部の神です。
奈良時代から平安時代にかけて貴族の間で篤く信仰され、七福神の初期の構成では弁財天の代わりにメンバーに入ることもありました。
しかし、時代が下るにつれて民衆の信仰を集めた弁財天がその座を奪い、現在の七福神の構成が確立されていきます。
この記事では、吉祥天の特徴や七福神の成立過程を踏まえながら、両者の深い関わりを解説していきます。

吉祥天とはどんな神か

インドの女神ラクシュミーが起源

吉祥天の起源は、ヒンドゥー教の女神ラクシュミーにあります。
ラクシュミーは美・幸運・富・豊穣を司る女神で、ヴィシュヌ神の妻として広く信仰されてきました。

この女神が仏教に取り入れられ、「吉祥天」として日本に伝わりました。
仏教では天部に属する神として位置づけられ、功徳天(くどくてん)とも呼ばれています。

日本での信仰

日本に吉祥天信仰が伝来したのは、奈良時代(710〜794年)のことです。
『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』という経典を通じて広まり、国家の安泰や五穀豊穣を祈る「吉祥悔過(きちじょうけか)」という法会が宮中や東大寺・薬師寺などの諸大寺で盛んに行われました。

特に奈良時代から平安時代にかけて、貴族階級の間で絶大な人気を誇っています。
薬師寺に伝わる「吉祥天女画像」(国宝)は、麻布に描かれた彩色画で、独立した画像としては日本最古の作例とされています。
当時の信仰の深さを物語る貴重な作品です。

吉祥天の家族関係

仏教における吉祥天の家族構成も興味深いものがあります。
吉祥天は毘沙門天の妻とされ(一説には妹とする説もあります)、善膩師童子(ぜんにしどうじ)の母でもあります。
また、姉妹には黒闇天(こくあんてん)という不幸や災いを司る女神がいるとされています。

つまり、吉祥天は現在の七福神メンバーである毘沙門天と非常に近しい関係にあるのです。
この関係は、吉祥天と七福神の深いつながりを示しています。

七福神の成り立ちと歴史

七福神はいつ生まれたのか

七福神の信仰は、一度にまとまったものではなく、長い年月をかけて徐々に形成されました。

最も古い起源は、平安時代末期頃に遡るともいわれています。
この頃、大黒天恵比寿が「二福神」としてセットで祀られるようになったのが始まりとされていますが、詳しい成立の経緯には不明な点も多く残っています。
やがて毘沙門天が加わり「三福神」となり、室町時代にはさらに弁財天・布袋・福禄寿・寿老人が加わって、七柱の構成が形作られていきます。

「七」の数に込められた意味

なぜ福の神が「七柱」なのかについては、仏教経典『仁王経(にんのうきょう)』に由来するという説が有力です。
『仁王経』には「七難即滅、七福即生(しちなんそくめつ、しちふくそくしょう)」という言葉があり、これは「七つの災いが消え、七つの福が生じる」という意味です。
この教えにあやかって、福の神を七柱にまとめたとされています。

また、中国の「竹林七賢(ちくりんしちけん)」の画題が日本で人気を博したことも影響しているといわれています。
七人の賢人が集うイメージが、七柱の福の神に重ねられたと考えられています。

七福神巡りの始まり

七福神信仰が庶民に広く浸透したのは、室町時代から江戸時代にかけてのことです。
応永27年(1420年)頃には、京都で七福神に関連する行事が行われていた記録が残っています。

江戸時代に入ると、徳川家康に仕えた天海僧正が七福神信仰を奨励したとする伝承もあり、庶民の間で「七福神巡り」が盛んに行われるようになりました。
正月に七福神を祀る寺社を巡拝する風習は、この頃に定着したものです。

七福神のメンバーは固定ではなかった

入れ替わりのあった歴史

現在の七福神は以下の七柱で知られています。

日本語名由来御利益
恵比寿日本(唯一の日本固有の神)商売繁盛・大漁
大黒天インド(マハーカーラ)五穀豊穣・財運
毘沙門天インド(ヴァイシュラヴァナ)武運・財運
弁財天インド(サラスヴァティー)芸能・財運・知恵
布袋中国(実在した僧侶)笑門来福・家庭円満
福禄寿中国・道教幸福・富貴・長寿
寿老人中国・道教長寿・健康

しかし、この顔ぶれが最終的に定まったのは江戸時代後期(享和年間、1801〜1804年頃)のことです。
それ以前は、メンバーの入れ替わりが頻繁にありました。

吉祥天が七福神に入っていた時代

吉祥天が七福神の一員として数えられることがあったのは、主に室町時代から江戸時代初期にかけてです。

福禄寿と寿老人は、もともと同一神(道教の南極老人星の化身)とする説が根強く存在しています。
そのため、「福禄寿と寿老人は同じ神だから、一方を外して吉祥天を入れよう」という考え方が生まれました。
一部の地域では、寿老人の代わりに吉祥天を七福神に加える構成が採用されていたのです。

吉祥天以外にも候補がいた

七福神の「七番目の席」をめぐっては、吉祥天以外にもさまざまな神が候補に挙がっていました。
猩々(しょうじょう)、稲荷神、虚空蔵菩薩、達磨大師など、地域によって異なる神が七福神に組み込まれることがあったのです。

このことからも、七福神の構成が長い間流動的だったことがわかります。

なぜ吉祥天は弁財天に入れ替わったのか

両者の共通点が多すぎた

吉祥天が七福神から外れ、弁財天がその座に収まった最大の理由は、両者の性格が非常に似通っていたことにあります。

比較項目吉祥天弁財天
起源ラクシュミー(インド)サラスヴァティー(インド)
性別女神女神
外見美しい女性美しい女性
御利益美・富・幸運芸能・財運・知恵
主な信仰層貴族階級庶民にも広く浸透

どちらもインド由来の美しい女神で、富や幸運の御利益を持つという共通点があります。
七福神に同じような性格の女神が二柱並ぶのは、バランスが悪いと考えられたのでしょう。

弁財天の方が庶民に人気だった

決定的だったのは、信仰の広がりの違いです。

吉祥天は奈良・平安時代に宮中や貴族の間で篤く信仰されましたが、鎌倉時代以降は次第にその勢いを失っていきました。
吉祥悔過の法会も衰退し、吉祥天の信仰は貴族的な色彩が強いままにとどまったのです。

一方の弁財天は、鎌倉時代以降に民衆の間で爆発的な人気を獲得しました。
弁財天には音楽や芸能の神という独自の個性があり、さらに水の神としての性格も持っていたため、漁業や農業に携わる庶民にとって身近な存在だったのです。
各地に弁天社が建てられ、「弁天様」として親しまれるようになりました。

「弁財天が嫉妬する」という俗説

民間には「七福神に美しい女神が二人もいると、弁財天が嫉妬してしまう」という俗説も伝わっています。
弁財天は嫉妬深い神としても知られており、この伝承が吉祥天を外す理由づけに使われたとも考えられます。

もちろん、これは後付けの民間伝承ですが、当時の人々が二柱の女神の共存に違和感を覚えていたことを示す興味深いエピソードといえるでしょう。

信仰の習合と混同

もう一つの要因として、吉祥天と弁財天の信仰が次第に習合(混ざり合う)していったことが挙げられます。

ラクシュミーと弁財天はインドにおいても関係が深く、日本でも両者の性格が混同されることが少なくありませんでした。
吉祥天の「美と富の女神」という要素が弁財天に吸収される形で、吉祥天の独自性が薄れていったのです。

結果的に、より広い信仰基盤を持つ弁財天が七福神に残り、吉祥天はメンバーから外れることになりました。

現代に残る吉祥天と七福神のつながり

八福神として復活

現在でも、吉祥天と七福神のつながりは完全に途絶えたわけではありません。
一部の地域では、通常の七福神に吉祥天を加えた「八福神」として祀っている例があります。

たとえば、千葉県の「八千代八福神」や東京都の「八王子七福神」(八福神を含む構成)など、吉祥天を加えた独自の福神巡りを行っている地域が存在します。
これは、吉祥天のかつての七福神としての地位を偲ぶものといえるでしょう。

毘沙門天との縁で今も祀られる

吉祥天は毘沙門天の妻であることから、毘沙門天を祀る寺院では吉祥天も一緒に祀られていることが多くあります。
四天王の一員でもある毘沙門天の脇侍として、現在も多くの寺院でその姿を見ることができます。

七福神からは外れましたが、仏教における吉祥天の重要性は今日でも失われていません。

まとめ

七福神と吉祥天の関係について、要点を整理します。

  • 吉祥天はインドの女神ラクシュミーを起源とする仏教の天部の神
  • 奈良〜平安時代に貴族の間で篤く信仰され、七福神の初期構成ではメンバーに入ることもあった
  • 福禄寿と寿老人が同一神とされたため、寿老人の代わりに吉祥天を入れる構成が存在した
  • 弁財天と性格が似通っていたこと、弁財天の方が庶民に広く浸透していたことが、吉祥天が外れた主な理由
  • 両者の信仰が習合し、吉祥天の独自性が弁財天に吸収されていった
  • 現在も「八福神」として吉祥天を加える地域や、毘沙門天と共に祀られる寺院が存在する

七福神のメンバーが現在の七柱に確定するまでには、長い歴史の中でさまざまな入れ替わりがありました。
吉祥天は、その変遷の中で最も重要な存在の一つだったといえるでしょう。

参考情報

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この記事で参照した情報源

一次資料(経典・文献)

  • 『仁王般若波羅蜜経(仁王経)』- 「七難即滅、七福即生」の出典
  • 『金光明最勝王経』- 吉祥天信仰の基盤となった経典

学術資料・百科事典

参考になる外部サイト

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