「幸運の女神」と「不幸の女神」が実は姉妹で、いつも一緒に行動している――そんな話を聞いたら驚きませんか?
仏教には、吉祥天(きっしょうてん)と黒闇天(こくあんてん)という二柱の女神が登場します。
片方は美と福徳を、もう片方は災いと貧困を司る、まさに正反対の存在です。
しかし仏典によれば、この二柱は姉妹であり、決して離れることがないとされています。
この記事では、吉祥天と黒闇天の関係について、仏典やヒンドゥー教の起源から、その教えが持つ深い意味まで詳しく解説します。
概要
吉祥天と黒闇天は、仏教の天部に属する女神です。
吉祥天は幸福・美・富を司り、黒闇天は不幸・醜悪・貧困を司るとされています。
『大般涅槃経(だいはつねはんきょう)』には、この二柱が「常に同行して離れず」と記されており、幸福と不幸は切り離すことができないという仏教的な世界観を象徴する存在として知られています。
ヒンドゥー教では吉祥天の起源であるラクシュミー(Lakshmi)と、黒闇天の起源であるアラクシュミー(Alakshmi)として語られ、いずれも乳海攪拌(にゅうかいかくはん)の神話から誕生したとされています。
吉祥天とは
吉祥天は、仏教における美と福徳の守護神です。
サンスクリット語では「シュリー・マハーデーヴィー(Śrī-mahādevī)」と呼ばれ、「吉祥なる偉大な女神」を意味します。
もともとはヒンドゥー教の女神ラクシュミーを起源に持ち、仏教に取り入れられた後、日本へ伝来しました。
奈良時代に『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』とともに広まり、国家鎮護の法要で重要な役割を果たしています。
吉祥天の主な特徴は以下の通りです。
- 幸福・美・富・豊穣を司る女神
- 唐服の貴婦人の姿で描かれ、手に如意宝珠(にょいほうじゅ)や吉祥果(ざくろ)を持つ
- 毘沙門天(びしゃもんてん)の妻であり、鬼子母神(きしもじん)の娘とされる
- 奈良・薬師寺や京都・浄瑠璃寺の吉祥天像が特に有名
かつて日本では弁財天よりも福徳の女神として広く信仰されていた時代もありました。
黒闇天とは
黒闇天は、吉祥天とは対照的に不幸・貧困・災いを司る女神です。
サンスクリット語では「カーラ・ラートリー(Kālarātri)」、つまり「暗黒の夜」を意味し、「黒夜天(こくやてん)」「黒闇女(こくあんにょ)」とも呼ばれます。
ヒンドゥー教ではアラクシュミー(Alakshmi)、あるいはジェーシュター(Jyeṣṭhā)として知られ、ラクシュミーの姉にあたります。
日本の民間信仰では「貧乏神」のルーツの一つともいわれています。
黒闇天の主な特徴は以下の通りです。
- 不幸・貧困・争い・病を司る女神
- 密教の胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の外金剛部院に描かれる
- 曼荼羅では肉色の肌で、人頭杖(じんとうじょう)を持つ姿で表される
- 密教では閻魔天(えんまてん)の妻とされる
- 烏(からす)がその象徴とされる
注目すべきは、胎蔵界曼荼羅に描かれる黒闇天の姿が、名前の「黒闇」から想像されるほど恐ろしい外見ではないという点です。
肉色(にくしょく)の肌で描かれており、必ずしも「醜い」姿として表現されているわけではありません。
『大般涅槃経』に記された姉妹の物語
吉祥天と黒闇天の関係を最も明確に伝えるのが、『大般涅槃経』巻第十二に記された説話です。
ある家に、非常に美しい女性が訪れました。
家の主人が名を尋ねると、女性は「功徳天(くどくてん)」と名乗り、自分が訪れた家には福がもたらされると告げます。
主人は喜んで彼女を迎え入れました。
するとその直後、醜い女性が家を訪れます。
主人が名を尋ねると「黒闇女(こくあんにょ)」と答え、自分が訪れた家には禍(わざわい)がもたらされると言います。
驚いた主人は、黒闇女を追い出そうとしました。
しかし黒闇女はこう言います。
「先ほどお入りになった方は私の姉です。私たちは常に一緒におり、離れることはありません。私を追い出すなら、姉も一緒に出ていきます」
主人は結局、二人とも追い出してしまいました。
すると二人の女神は隣の貧しい家を訪れ、その家の主人は「福も禍も受け入れる」と二人を歓迎したといいます。
この説話は、幸福だけを望み不幸を拒絶しようとする人間の心理を戒めるものです。
「姉を功徳天と云い人に福を授け、妹を黒闇女と云い人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」という一節は、吉祥天と黒闇天の関係を端的に表しています。
ヒンドゥー教における起源——乳海攪拌
この姉妹関係の起源は、ヒンドゥー教の「乳海攪拌(サムドラ・マンタナ)」の神話にまで遡ります。
神々(デーヴァ)と魔族(アスラ)が不死の霊薬アムリタを求めて乳の海をかき混ぜたとき、海からはさまざまな存在が誕生しました。
その過程で、まず猛毒ハーラーハラが出現し、続いて不吉の象徴であるアラクシュミーが現れたとされています。
その後、吉兆の象徴であるラクシュミーが美しい姿で海から浮かび上がりました。
アラクシュミーが先に生まれたことから、一部の伝承ではアラクシュミーが「姉」とされます。
実際にアラクシュミーの別名「ジェーシュター(Jyeṣṭhā)」は、サンスクリット語で「年長の女」を意味します。
ただし仏典では功徳天(吉祥天)が「姉」とされており、ヒンドゥー教と仏教の間で姉妹の長幼関係には違いがあります。
ヴィシュヌ神はラクシュミーを妻として迎え、世界の維持と繁栄を守る存在としました。
一方、アラクシュミーは聖仙ウッダーラカに嫁いだものの見捨てられたとも、また別の伝承では悪魔カリの妻とされるともいわれています。
「表裏一体」の哲学——幸福と不幸は選べない
吉祥天と黒闇天の関係が伝える最も重要な教えは、「幸福と不幸は表裏一体である」という仏教的な世界観です。
これは「吉凶禍福はあざなえる縄の如し」という故事とも通じる考え方で、幸福と不幸は縄のように絡み合い、交互にやってくるものだと説いています。
吉祥天だけを歓迎し黒闇天を拒否することは、縄の片方の糸だけを取り出そうとするようなもので、本来不可能なことなのです。
この教えが指し示すのは、以下のような仏教の根本思想です。
- 無常(むじょう): あらゆるものは移り変わり、幸福も不幸も永続しない
- 中道(ちゅうどう): 幸福への執着も不幸への恐怖も、いずれも苦しみの原因となる
- 受容: 人生の吉凶をありのまま受け入れることが、心の安寧につながる
幸運だけを欲しがる貪欲さこそが、かえって不幸を招く——その戒めが、「姉妹は決して離れない」という物語に込められています。
日本仏教における吉祥天と黒闇天の信仰
日本では奈良時代以降、吉祥天は福徳の女神として広く信仰されてきました。
特に『金光明最勝王経』に基づく吉祥天の法要「吉祥悔過(きちじょうけか)」は、国家の安泰と五穀豊穣を祈る重要な仏事として行われています。
吉祥天を祀る寺院としては、以下が代表的です。
- 浄瑠璃寺(京都): 国宝の吉祥天立像で知られる
- 薬師寺(奈良): 奈良時代の吉祥天像(国宝)を所蔵する
- 成田山東京別院深川不動堂: 内仏殿に吉祥天を安置
一方、黒闇天を単独で祀る信仰は日本では少ないものの、興味深い事例もあります。
東京の太田神社(大田区)では、かつて黒闇天が「福の神」として祀られていたと伝えられています。
不幸の女神を丁重に祀ることで、かえって災いを遠ざけるという逆転の発想は、涅槃経の説話を踏まえた信仰のあり方といえるでしょう。
密教では、黒闇天は胎蔵界曼荼羅の外金剛部院に配置され、閻魔天の妃として描かれています。
閻魔天もまた人頭杖を持つ姿で知られており、夫婦ともに冥界と関わる存在として位置づけられています。
ヒンドゥー教におけるアラクシュミー信仰
ヒンドゥー教では、ラクシュミーとアラクシュミーの関係は日常的な信仰実践の中に組み込まれています。
特にディーワーリー(光の祭り)の期間には、まずアラクシュミーを家から追い払う儀式を行い、その後でラクシュミーを迎え入れるという手順が踏まれます。
具体的には以下のような慣習があります。
- 家の入口にレモンと唐辛子を吊るす(ニンブ・ミルチ・トトカ): アラクシュミーの好物とされ、外で満足させて家に入れないようにする
- 家の中には甘いお供えを置き、ラクシュミーを歓迎する
- アラクシュミー・ニッサラナの祈祷を行い、不幸を遠ざける
この実践は、仏教の涅槃経の説話とは対照的です。
仏教では「二人を切り離すことはできない」と教えるのに対し、ヒンドゥー教の民間信仰ではアラクシュミーを積極的に追い払い、ラクシュミーだけを招く方法が実践されています。
アラクシュミーの信仰は、特に南インドで盛んだったとされています。
Asian Art Museum(サンフランシスコ)の解説によれば、アラクシュミーは主に南インドで信仰された女神で、その崇拝は時代とともに衰退していったとされています。
現在では、アラクシュミーを専門に祀る寺院はほとんど残っておらず、主にラクシュミー信仰の中で「遠ざけるべき存在」として言及されるにとどまっています。
図像の特徴比較
吉祥天と黒闇天は、その姿においても対照的な特徴を持っています。
| 項目 | 吉祥天(功徳天) | 黒闇天(黒闇女) |
|---|---|---|
| 起源 | ラクシュミー(Lakshmi) | アラクシュミー(Alakshmi) |
| 司るもの | 幸福・美・富・豊穣 | 不幸・貧困・争い・病 |
| 日本での姿 | 唐服の貴婦人、如意宝珠や吉祥果を持つ | 肉色の肌、人頭杖を持つ(胎蔵界曼荼羅) |
| 配偶者 | 毘沙門天(多聞天) | 閻魔天 |
| 象徴する動物 | 象(ガジャ・ラクシュミーの姿) | 烏(からす) |
| ヒンドゥー教での姿 | 蓮の上に立ち、象が水を注ぐ | 暗い肌色、烏の旗を持つ(ロバに乗る姿も) |
| サンスクリット名 | Śrī-mahādevī | Kālarātri |
| 別名 | 功徳天、大吉祥天女 | 黒夜天、黒闇女 |
吉祥天の図像で特に名高いのは、薬師寺所蔵の「吉祥天像」(奈良時代、国宝)です。
ふくよかな唐美人の姿で描かれ、日本における女性美の理想像とされてきました。
また、浄瑠璃寺の吉祥天立像(重要文化財)も、鎌倉時代の精緻な造形で知られています。
一方、黒闇天の独立した図像は非常に少なく、主に密教の曼荼羅の中で確認されます。
まとめ
吉祥天と黒闇天の関係について、重要なポイントをまとめます。
- 吉祥天(功徳天)は幸福・美・富を司り、黒闇天(黒闇女)は不幸・貧困・災いを司る姉妹の女神である
- 『大般涅槃経』では「此二人、常に同行して離れず」と記され、幸福と不幸は決して切り離せないと説かれている
- ヒンドゥー教では乳海攪拌の神話から二柱が誕生し、ラクシュミーとアラクシュミーとして知られる
- この姉妹関係は仏教の「無常」の教えを体現しており、幸福への執着や不幸への恐怖を戒めている
- 日本では吉祥天が広く信仰される一方、黒闇天は密教の曼荼羅で閻魔天の妃として描かれている
- ヒンドゥー教のディーワーリーでは、アラクシュミーを追い払いラクシュミーを招く儀式が行われる
幸運だけを求め、不運を拒絶しようとする——それは人間として自然な心理かもしれません。
しかし吉祥天と黒闇天の物語は、その両方を受け入れることこそが真の知恵であると、静かに教えてくれています。
参考情報
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この記事で参照した情報源
一次資料(原典)
- 『大般涅槃経(Mahāparinirvāṇa Sūtra)』巻第十二 – 功徳天と黒闇女の説話の典拠。「此二人、常に同行して離れず」の記述
- 『金光明最勝王経(Suvarṇaprabhāsa Sūtra)』 – 吉祥天の法要(吉祥悔過)の典拠
学術資料・信頼できる情報源
- Wikipedia「吉祥天」 – 吉祥天の基本情報・仏教における位置づけ
- Wikipedia「黒闇天」 – 黒闇天の基本情報・胎蔵界曼荼羅での描写
- Wikipedia “Alakshmi”(英語版) – アラクシュミーのヒンドゥー教における位置づけ・乳海攪拌の神話
- Wikipedia “Jyestha”(英語版) – ジェーシュター女神としての側面・南インドでの信仰
- Asian Art Museum – “The Hindu deity Alakshmi, goddess of misfortune” – アラクシュミーの図像学・南インドでの崇拝
- 成田山東京別院深川不動堂 公式サイト – 吉祥天の祀り方・信仰の実践

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