「忠臣蔵」で悪役として描かれる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)。赤穂浪士討ち入り事件の被害者として知られる人物ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、元禄赤穂事件の中心人物・吉良義央の生涯と、史実と創作が入り混じった複雑な歴史的評価について解説します。
吉良上野介義央の基本情報
生没年
- 生: 寛永18年(1641年)9月2日(西暦:1641年10月6日)
- 没: 元禄15年(1702年)12月15日(西暦:1703年1月31日)
名前の読み方
伝統的に「きら よしなか」と読まれてきましたが、近年の研究により「きら よしひさ」が正しい読み方であることが判明しています。華蔵寺に残る義央自身の書状に記された花押(サイン)の研究から、この読み方が確認されました。
官位・役職
- 従四位上
- 左近衛権少将
- 上野介(こうずけのすけ)
- 高家肝煎(こうけきもいり)
領地
三河国幡豆郡吉良庄など合計4,200石
家系
清和源氏の流れを汲む足利氏の一族で、吉良家17代当主。家格は非常に高く、従四位上という官位は薩摩島津家(77万石)や仙台伊達家(62万石)と同格でした。しかし実際の石高はわずか4,200石で、家格に見合わない経済的困窮状態にあったとされます。
高家肝煎としての吉良義央
高家(こうけ)とは、江戸幕府において朝廷との儀礼や典礼を司る専門的な役職です。吉良義央は天和3年(1683年)に高家肝煎(最高責任者)に就任し、幕府と朝廷の間を取り持つ重要な任務を担いました。
幕府が編纂した『徳川実紀』には「今よりのち吉良上野介義央が勤を見習ふべし」と記されており、幕府から厚い信頼を得ていたことが分かります。
元禄4年(1691年)には上洛して東山天皇に謁見し、賜盃や白銀十両を拝領しています。その帰路、オランダ商館付きのドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルと行き交った際、義央は駕籠から降りて礼儀正しくすれ違いました。ケンペルは「彼は内裏から勅使下向の準備のために江戸へ急ぐ名代であり、立派な人物であった」と記録しています。
元禄赤穂事件の経緯
松の廊下事件(元禄14年・1701年3月14日)
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松の廊下で事件は起こりました。
この日は、5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院に朝廷から従一位の官位が授けられる儀式が行われる予定でした。朝廷からの勅使・院使を接待する饗応役を務めていたのが赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)で、その指南役が高家肝煎の吉良義央でした。
午前10時頃、江戸城本丸の松の廊下で、浅野内匠頭が突然「この間の遺恨覚えたるか」と叫び、吉良義央を背後から斬りつけました。驚いて振り向いた吉良の額にさらに切りかかりましたが、梶川与惣兵衛が浅野を取り押さえたため、吉良は額と背中に傷を負ったものの命は助かりました。
幕府の裁定
江戸城内で、しかも朝廷の使者を接待する重要な儀式の最中に刃傷沙汰を起こしたことに、将軍綱吉は激怒しました。
浅野内匠頭への処分
即日切腹を命じられ、その日のうちに一関藩主・田村建顕の屋敷で切腹。赤穂浅野家は取り潰し、領地は没収されました。
吉良義央への処分
応戦していなかったことを理由に「お構いなし」(無罪)
この裁定の不公平さが、後の赤穂浪士討ち入りの遠因となりました。「喧嘩両成敗」が武家社会の基本ルールだったにもかかわらず、一方だけが厳罰に処されたことに、赤穂藩の旧家臣たちは不満を抱いたのです。
刃傷の原因(諸説あり)
浅野内匠頭が吉良義央を斬りつけた理由については、史料が乏しく詳細は不明です。いくつかの説が伝えられています:
1. 賄賂・指南料トラブル説
吉良が浅野から十分な指南料(賄賂)を受け取れなかったため、冷たく接し、嫌がらせをしたという説。ただし、当時の「賄賂」は現代のようなマイナスイメージではなく、高家への正当な指南料として認識されていました。
2. 塩田遺恨説
赤穂の塩が評判を得て将軍御用達になったことで、三河の塩が売れなくなり、吉良が妨害工作をしたという説。ただし、最近の研究では吉良の領地には塩田がなかったことが確認されており、この説は否定的な意見が多くなっています。
3. 浅野の持病説
浅野内匠頭が「痞(つかえ)」という持病を抱えており、心を鎮めることができずに刃傷に及んだという説。浅野自身が切腹前に「持病のせん気があり、心を鎮めることもならず」と述べたという記録があります。
4. 費用負担の齟齬説
饗応の費用について、浅野は700両程度と見積もっていたが、吉良は1,200両必要だと否定したことが原因という説。元禄時代は物価上昇が著しい時期だったため、認識の違いが生じた可能性があります。
いずれの説も決定的な証拠はなく、真相は不明のままです。
吉良邸討ち入り(元禄15年・1702年12月14日)
松の廊下事件の後、吉良義央は自ら職を辞し、元禄14年(1701年)12月に家督を養子・吉良義周(よしちか)に譲って隠居しました。屋敷も江戸城呉服橋門内から本所(現在の墨田区両国)に移されました。
元禄15年(1702年)12月14日未明、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)率いる赤穂藩の旧家臣47名が、吉良邸に討ち入りました。激闘の末、吉良義央は炭小屋に隠れているところを発見され、首を討たれました。享年62歳(満61歳)でした。
「忠臣蔵」と吉良義央の悪役イメージ
現代の私たちが持つ吉良上野介の「悪役」イメージは、主に歌舞伎や人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』から来ています。
『仮名手本忠臣蔵』は、赤穂事件から約45年後の寛延元年(1748年)に初演されました。幕府による取り締まりを避けるため、時代設定を室町時代に変更し、実名を避けて仮名が使われています。吉良義央は「高師直(こうのもろなお)」として登場し、浅野内匠頭に対して嫌がらせをする憎々しい悪役として描かれました。
この演目は大ヒットし、歌舞伎界の「独参湯(どくじんとう)」(万能薬)と称されるほど人気を博しました。幕末までに100回以上上演され、その結果「吉良上野介=悪人」というイメージが定着していきました。
悪役イメージの形成過程
吉良の悪評の多くは、後世の創作によるものです。
「源氏巻」の逸話
津和野藩主・亀井茲親(かめいこれちか)が賄賂をケチったために吉良から嫌がらせを受けたが、家臣が菓子に小判を入れて詫びたら許されたという話。しかしこの逸話が文献に初めて登場するのは寛政8年(1796年)で、赤穂事件から約100年後です。しかも津和野藩・亀井家の文書にはこの記録がありません。実は、この逸話は「源氏巻」という郷土菓子を売り出すための創作だったとされています。
『儀人録(ぎじんろく)』の影響
儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)が著した『儀人録』には、吉良が浅野を「田舎者」と侮辱したという場面が描かれていますが、日本の研究者たちはこの著作を「不正確さに満ちている」と指摘しています。しかし、劇作家や小説家たちがこれらの話を喜んで採用し、次第に「事実」として受け入れられていきました。
地元での評価と黄金堤伝承
一方、吉良義央の領地だった三河国幡豆郡(現在の愛知県西尾市吉良町)では、義央は「名君」として語り継がれています。
黄金堤(こがねづつみ)伝承
地元に伝わる代表的な逸話が「黄金堤」です。
伝承の内容
貞享3年(1686年)、吉良義央は水害に苦しむ領民を救うため、私財を投じて長さ約180メートル、高さ約4メートルの堤防を一夜にして築いたとされます。この堤防のおかげで水害がなくなり、金色の稲穂が実るようになったことから「黄金堤」と呼ばれるようになったと伝えられています。
史料的検証
しかし、この伝承には史料的な裏付けが乏しいことが指摘されています。
- 吉良家が3代にわたって記録した『吉良家日記』(慶長14年・1609年から元禄15年・1702年)には、黄金堤築造の記述が一切ありません
- 江戸時代の史料にも、吉良義央が黄金堤を築いたという記録は発見されていません
- 1991年の発掘調査では、義央の時代という年代観は得られませんでした
- 「黄金堤」という名称自体、明治17年(1884年)の文書に初めて登場します
経済的制約
当時の吉良家は、上杉家(米沢藩)に莫大な借金の肩代わりをさせるほど財政的に困窮していました。町方への支払いも滞っている状況で、多額の資金を必要とする治水事業を独自に主導したというのは、経済的に無理があると考えられています。
伝承の形成時期
吉良義央が黄金堤を築いたという一連の伝説は、大正期に起こった地元顕彰運動に伴って広がったとされています。特に1932年に設立された吉良公史跡保存会が刊行した「郷土趣味読本」や「吉良義央公概伝」が、その源流と考えられています。
領地訪問の記録
実際に義央が三河の吉良領を訪れたのは生涯で一度だけで、『吉良家日記』によると延宝5年(1677年)11月に京都への臨時の上使を務めた帰りに立ち寄ったことが確認できるのみです。黄金堤が築かれたとされる貞享3年(1686年)とは時期が合いません。
「赤馬」伝承
吉良町には「赤馬」という郷土玩具が存在し、これは義央が黄金堤を築いた際に赤馬に乗って視察したという言い伝えに由来するとされています。しかし、この郷土玩具は義央の死後130年ほど後の天保年間になってから作られ始めたもので、義央との関連付けは後年に形作られたものと見られています。
同時代の評価
同時代人の記録
江戸時代の同時代史料には、吉良義央についてさまざまな記録が残されています。
否定的な記録
- 朝日重章の『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』には、「吉良殿日頃かくれなきおうへい人の由」(吉良殿は日頃から傲慢な人として知られている)という記述があります
- 秋田藩家老・岡本元朝の『岡本元朝日記』にも、吉良が「手の悪き人にて、且物を方々よりこい取被成候事多候由」(物をあちこちから要求する人)という評価が記されています
- 佐賀鹿島藩の『御在府日記』には、吉良が香炉や茶道具を所望して、度々品物を用立てさせた記録が残っています
肯定的な記録
一方で、前述のエンゲルベルト・ケンペルによる「立派な人物」という評価もあります。
財政状況と「賄賂」の性質
吉良家の石高は4,200石でしたが、家格は従四位上という非常に高いものでした。この家格に見合った出費(儀式や接待など)を要求されるため、生計を立てる手段として高家への指南料を受け取ることは必要不可欠でした。
当時の「賄賂(まいない)」は、明治以降の時代ほどマイナスイメージではなく、高家への正当な指南料として認識されていました。吉良が指南料を求めたことは、当時の常識の範疇での要求だったと考えられます。
討ち入り後の吉良家
赤穂浪士討ち入りの後、吉良家は厳しい処分を受けました。
- 養子の吉良義周(よしちか)は、家族を守れなかったとして信州諏訪に配流され、後に配流先で病死
- 吉良家は改易(取り潰し)となり、高家の地位も失いました
- 長男・上杉綱憲(つなのり)が継いでいた上杉家も、収入が30万石から15万石に半減されました
一方、浅野内匠頭の弟・浅野長広(大学)は再興を許され、5,000石の旗本として復帰しました。
吉良義央の墓所
吉良義央の遺体は、討ち入りの翌日に両国の回向院に仮埋葬された後、中野の万昌院功運寺に葬られました。現在も万昌院には吉良義央、祖父義定、父義冬らの墓が残されています。
三河の菩提寺である華蔵寺(愛知県西尾市)には、義央の木像(愛知県指定文化財)が義安像、義定像と並んで祀られています。毎年12月14日には毎歳忌法要が行われ、地元の参拝客が訪れています。
歴史的評価の複雑さ
吉良上野介義央という人物は、300年以上経った現代でも評価が分かれる複雑な存在です。
「忠臣蔵」での悪役イメージ
歌舞伎や映画、ドラマで繰り返し描かれてきた悪役としてのイメージは、多くが後世の創作によるものです。実際の義央が浅野内匠頭に嫌がらせをしたという確実な証拠はありません。
地元での名君伝承
黄金堤などの治績は、同時代史料では確認できず、大正期以降に形成された伝承である可能性が高いとされています。
同時代の評価
幕府からは「見習うべき」と高く評価される一方で、傲慢で物を要求する人物という否定的な評価も残されています。
被害者としての側面
松の廊下事件では一方的に斬りつけられた被害者であり、討ち入りでは私邸を襲撃され殺害された被害者でもあります。
まとめ
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、元禄赤穂事件の中心人物として、日本史上最も有名な「悪役」の一人とされてきました。しかし、史料を詳しく見ていくと、その実像は非常に複雑です。
確実に言えること
- 高家肝煎として幕府から高い評価を受けていた
- 松の廊下事件で浅野内匠頭に斬りつけられた被害者である
- 赤穂浪士討ち入りで殺害された
- 家格は非常に高かったが、経済的には困窮していた
不確実なこと
- 浅野内匠頭を斬りつけた原因
- 「悪人」だったという評価(多くが後世の創作)
- 黄金堤などの地元での名君伝承(史料的裏付けに乏しい)
吉良義央という人物は、史実と創作、評価と伝承が複雑に絡み合っています。「忠臣蔵」のドラマとしての面白さを楽しみつつも、歴史の真実を探る姿勢が大切なのかもしれません。
参考情報
この記事で参照した情報源
一次資料・同時代史料
- 『吉良家日記』(慶長14年・1609年~元禄15年・1702年)
- 『徳川実紀』
- 『鸚鵡籠中記』(朝日重章)
- 『岡本元朝日記』
- 『御在府日記』(佐賀鹿島藩)
- 『易水連袂録』(1703年)
研究資料
- 愛知県埋蔵文化財センターによる黄金堤の発掘調査報告(1991年)
- Wikipedia「吉良義央」
- Wikipedia「赤穂事件」
- Wikipedia「黄金堤」
- 墨田区立図書館「吉良義央(すみだゆかりの人物を紹介します)」
- 文化デジタルライブラリー「文楽編・仮名手本忠臣蔵」
参考になる外部サイト
- 西尾観光「吉良上野介公を巡る旅」 – 地元での顕彰と関連史跡
- サライ.jp「吉良上野介は悪人だったのか」 – 歴史的評価の検証
- SamuraiWiki “Kira Yoshinaka” – 英語での学術的考察

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