フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)とは?インカ帝国を征服したスペイン征服者の生涯を徹底解説

神話・歴史・文化

読み書きもできない貧しい私生児から、南米大陸を征服した征服者へ。
フランシスコ・ピサロは、わずか180人の兵でインカ帝国を滅ぼし、現在のペルーの首都リマを建設した人物です。
しかし、その栄光の陰には裏切りと暴力、そして悲劇的な最期が待っていました。

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概要

フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)は、16世紀のスペイン人征服者(コンキスタドール)です。
1532年から1533年にかけて南米のインカ帝国を征服し、スペイン植民地ペルーの基礎を築きました。
彼の生涯は、大航海時代の光と影を象徴する物語として、今なお歴史に刻まれています。

生い立ちと初期の経歴

私生児として生まれた少年時代

フランシスコ・ピサロは、1475年頃にスペインのエストレマドゥーラ地方トルヒーリョで生まれました。
父は歩兵大佐のゴンサロ・ピサロ(Gonzalo Pizarro)、母は召使いのフランシスカ・ゴンサレス(Francisca González)でした。
両親は正式に結婚しておらず、ピサロは私生児として育ちました。

父には他にも嫡出子がいましたが、ピサロだけは正式な教育を受けられませんでした。
読み書きを学ぶ機会もなく、伝承によれば豚飼いをしていたとされています。
父の遺言書にもピサロの名前は記されませんでした。

新大陸への旅立ち

恵まれない環境で育ったピサロは、富と名声を求めて新大陸へ向かうことを決意します。
1502年頃、ピサロはエスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)へ渡りました。

1510年、ピサロはアロンソ・デ・オヘダ(Alonso de Ojeda)の探検隊に参加し、コロンビアに植民地サン・セバスティアンを建設しました。
しかし熱帯の厳しい気候と病気により、300人の入植者のうち200人が死亡する惨事となります。
ピサロは生存者を率いて植民地を放棄し、パナマのダリエンに新たな植民地を建設しました。

太平洋の発見

1513年、ピサロはバスコ・ヌニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa)の探検隊に副官として参加しました。
この探検でバルボアらはパナマ地峡を横断し、ヨーロッパ人として初めて太平洋を目にします。

皮肉なことに、ピサロは後にバルボアの逮捕に関与することになります。
新総督ペドロ・アリアス・ダビラ(Pedro Arias Dávila)がバルボアを排除しようとした際、ピサロはバルボアを逮捕する役目を命じられたのです。
バルボアは1519年1月に斬首されました。

この功績により、ピサロは1519年から1523年まで新設されたパナマ市の市長と治安判事を務め、小さな財産を築きました。

ペルーへの探検

黄金郷の噂

1520年代、南方に豊かな黄金の帝国が存在するという噂がパナマに伝わってきました。
ピサロはこの黄金郷を征服することを夢見るようになります。

1523年、当時48歳頃だったピサロは、兵士のディエゴ・デ・アルマグロ(Diego de Almagro)と司祭エルナンド・デ・ルケ(Hernando de Luque)と組んで探検隊を組織しました。
アルマグロが装備を、ルケが資金を提供する契約でした。

失敗と挫折

第1回探検(1524-1525年)は完全な失敗に終わりました。
コロンビア沿岸での2年間の苦難の末、多くの隊員が病気や飢え、先住民の攻撃で命を落としました。
ピサロ自身も7か所の傷を負いました。

第2回探検(1526-1528年)では、バルトロメ・ルイス(Bartolomé Ruiz)が先行して赤道を越え、刺繍された布地を積んだ交易船と遭遇しました。
これにより高度な文明の存在が確認されましたが、パナマ総督は探検隊の帰還を命じました。

しかしピサロは諦めませんでした。
砂浜に線を引き、「富と栄光を求める者は私と共に来い」と叫んだと伝えられています。
わずか13人の兵士がピサロとともに残り、探検を続けました。

この探検で、ピサロはトゥンベス(Tumbes)の都市に到達し、インカ帝国の存在を確認しました。

国王からの許可

パナマ総督が探検の継続を拒否したため、ピサロは1528年にスペインに帰国しました。
ピサロは国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に直接面会し、ペルー征服の許可を求めました。

1529年、国王はピサロの要求を承認し、征服後のペルー総督の地位と様々な特権を約束しました。
この協約により、ピサロは征服地の土地と先住民を分配する権限(エンコミエンダ制度)を得ました。

インカ帝国の征服

第3回探検の開始

1530年1月、ピサロは故郷トルヒーリョに戻り、4人の兄弟たち(エルナンド、フアン、ゴンサロ、そして異父弟のフランシスコ・マルティン・デ・アルカンタラ)を含む兵士を募りました。

1531年、ピサロは約180人の兵士と37頭の馬を率いてパナマを出発しました。
後に2隻の船が合流しました。

ピサロ軍は現在のエクアドルに上陸し、南下してペルー北部のトゥンベスに到達しました。
そこでピサロはペルー初のスペイン人入植地サン・ミゲル・デ・ピウラ(San Miguel de Piura)を建設しました。

インカ帝国の内戦

ピサロにとって幸運だったのは、インカ帝国が内戦状態にあったことです。
皇帝ワイナ・カパック(Huayna Capac)がヨーロッパ人がもたらした天然痘で死去した後、二人の息子アタワルパ(Atahualpa)とワスカル(Huáscar)が皇位を争っていました。

アタワルパが勝利を収めたばかりの1532年、ピサロはカハマルカ(Cajamarca)に向けて進軍しました。

カハマルカの虐殺

1532年11月15日、ピサロ軍はカハマルカに到着しました。
アタワルパは約30,000人の軍隊とともに都市近郊に滞在していました。

ピサロの兄エルナンドと別のスペイン人が会見を要請すると、アタワルパは提案を受け入れました。
わずか180人程度のスペイン軍を脅威とは考えなかったのです。

翌11月16日、アタワルパは3,000人から4,000人の護衛とともにカハマルカの広場に入りました。
護衛たちは武装していないか、上着の下に短い棍棒と投石器を隠し持つ程度でした。

スペイン人の司祭がアタワルパにキリスト教への改宗と国王カルロス5世への服従を求めましたが、アタワルパはこれを拒否しました。
司祭から渡された聖書を投げ捨てたとも伝えられています。

これを「神への冒涜」の口実として、ピサロは攻撃を命じました。
火器と騎兵で武装したスペイン軍は、わずか数分で2,000人以上のインカ兵を殺害し、アタワルパを捕らえました。

身代金と処刑

捕らえられたアタワルパは、解放の代わりに部屋一杯の金と、その2倍の銀を支払うと申し出ました。
ピサロは表面上この申し出を受け入れ、1532年12月20日から財宝が届き始めました。

1533年5月3日までに、ピサロは要求した全ての財宝を受け取りました。
現在の価値で40億円以上とも言われる莫大な量でした。
財宝は溶かされ、精製され、延べ棒にされました。

しかしピサロは約束を破りました。
アタワルパが生きている限り、先住民が彼を担いで反乱を起こす可能性があると判断したのです。
アタワルパは様々な罪で告発され、1533年7月26日に処刑されました。

アタワルパは自身を「太陽の子」と信じており、いつか復活して復讐すると誓いつつ死んでいったと伝えられています。

クスコ入城

アタワルパ処刑後、ピサロはインカ帝国の分裂を巧みに利用しながら進軍を続けました。
アタワルパと対立していた勢力を味方につけ、1533年11月にはインカ帝国の首都クスコ(Cuzco)に無血入城しました。

ピサロは17歳のマンコ・インカ・ユパンキ(Manco Inca Yupanqui)を傀儡皇帝として即位させ、インカ帝国を事実上滅ぼしました。

リマの建設とペルーの統治

新首都リマの建設

クスコを制圧したピサロでしたが、都市は敵対する先住民の大軍に包囲される危険がありました。
また、クスコは山中にあり、パナマなどのスペイン人居留地との連絡が困難でした。

そこでピサロは、沿岸部に新しい都市を建設することを決定しました。
1535年1月18日、ピサロはリマック川(Rímac River)の谷に「シウダー・デ・ロス・レイェス(諸王の都)」を建設しました。
これが現在のペルーの首都リマ(Lima)です。

ピサロはリマの建設を生涯で最も重要な業績の一つと考えていました。

マンコ・インカの反乱

1535年、傀儡皇帝だったマンコ・インカはピサロの兄弟たち(フアンとゴンサロ)による虐待に耐えかね、反乱を起こしました。
マンコ・インカは純金の像を取り戻すという口実でクスコを脱出し、約100,000人の軍隊を集めました。

1536年初頭、マンコ・インカはクスコとリマの両都市を包囲しました。
リマはアロンソ・デ・アルバラード(Alonso de Alvarado)の到着により救われましたが、クスコは深刻な危機に陥りました。

クスコはディエゴ・デ・アルマグロがチリ遠征から戻ったことで救われましたが、これが新たな対立の火種となります。

内戦と最期

アルマグロとの対立

インカ帝国征服後、ピサロとアルマグロは支配地の分配、特にクスコの領有権をめぐって対立するようになりました。
国王はアルマグロに「新トレド総督領」を、ピサロに「新カスティーリャ総督領」を与えましたが、境界線の解釈をめぐって両者は対立しました。

1537年、アルマグロはクスコを占領し、ピサロの兄弟エルナンドとゴンサロを捕らえました(フアンはマンコ・インカの反乱で戦死していました)。

しかし1538年4月、リマから救援軍が到着し、サリナスの戦い(Battle of Las Salinas)でアルマグロ軍を破りました。
アルマグロは捕らえられ、エルナンド・ピサロの命令で1538年7月8日に絞殺されました。

フランシスコ・ピサロはこの処刑を承認しませんでしたが、時すでに遅しでした。

暗殺

アルマグロの支持者たちは、ピサロとその一族への復讐を計画しました。
アルマグロの息子(通称エル・モソ)を中心とする一派は、自分たちも排除される恐れを感じていました。

1541年6月26日、アルマグロ派の約20人の重武装した支持者がリマのピサロの宮殿を襲撃しました。
ピサロの客人のほとんどは逃げましたが、7人から25人が侵入者と戦いました。

ピサロが胸当てを装着しようとしている間に、異父弟のマルティン・デ・アルカンタラを含む防衛者たちが殺されました。
ピサロ自身も2人の襲撃者を殺し、3人目を刺し通しましたが、最終的に刺殺されました。

恐怖に怯えた市議会は、若いアルマグロをペルーの新総督に任命せざるを得ませんでした。

埋葬されなかった遺体

ピサロの遺体は埋葬されず、ミイラとして保存されました。
現在もリマ大聖堂(Lima Cathedral)に安置されています。

歴史的評価

スペインでの評価

母国スペインでは、ピサロは英雄として扱われました。
1992年から2002年のユーロ導入まで、スペインで発行されていた最後の1000ペセタ紙幣の裏面にピサロの肖像が使用されていました(表面はエルナン・コルテス)。

ペルーでの評価

一方、ペルーではピサロの評価は複雑です。
多くのペルー人は、彼をインカ文明を破壊し、先住民に死と抑圧をもたらした征服者として見ています。

1935年、リマ建都400周年を記念してピサロの故郷スペインのエストレマドゥーラからリマ市にピサロの騎馬像が贈られました。
当初は大聖堂の前に置かれていましたが、市民の反発により1952年に大統領府前のアルマス広場の片隅に移されました。

1990年代に再度反対運動が起こり、2004年にはリマ市長の命令により「国民感情にそぐわない」との理由で撤去されました。
騎馬像は現在、リマ旧市街のリマック川沿いの城塞広場に、台座のない状態で置かれています。

歴史的意義

フランシスコ・ピサロは、わずか180人の兵でインカ帝国を征服したという点で、軍事的には優れた指揮官でした。
しかし、その過程でインカの人々を虐殺し、文化を破壊したことは否定できません。

彼の征服により、南米はペルー副王領となり、スペインに莫大な富をもたらしました。
同時に、先住民に対する過酷な搾取と文化の破壊が何世紀も続くことになったのです。

参考情報

関連記事

ピサロが征服したインカ帝国の神話については、以下の記事もご覧ください:

  • ママ・サラ(Mama Sara) – インカ神話のトウモロコシの女神
  • ワリャリョ・カルウィンチョ(Huallallo Carhuincho) – ペルー神話の火と破壊の神
  • 世界中の神話に登場する英雄たち(ヴィラコチャなどインカの創造神についても記載)

この記事で参照した情報源

学術的情報源

リマの建設に関する情報源

参考になる外部サイト

まとめ

フランシスコ・ピサロは、読み書きもできない私生児から南米大陸の征服者へと上り詰めた人物です。
わずか180人の兵でインカ帝国を滅ぼし、ペルーの首都リマを建設しました。

しかし、その栄光の裏には裏切り、虐殺、文化破壊がありました。
身代金を受け取りながらアタワルパを処刑し、かつての盟友アルマグロを殺害したピサロは、最終的にアルマグロの支持者によって暗殺されました。

スペインでは英雄として、ペルーでは侵略者として、ピサロの評価は今なお分かれています。
彼の生涯は、大航海時代の冒険と征服、そして植民地主義の残酷さを象徴する物語として、歴史に刻まれ続けています。

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