「離れた場所にある2つの粒子が、瞬時に影響を及ぼし合う」。
この奇妙な現象は、かつてアインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ量子もつれ(量子エンタングルメント)です。
この記事では、量子もつれの基本的な性質から、EPRパラドックス、ベルの不等式、そして量子コンピュータへの応用まで、わかりやすく解説します。
量子もつれとは
量子もつれは、複数の量子の間で起こる不思議な現象です。
一般的な定義では、「量子多体系において現れる、古典確率では説明できない相関やそれに関わる現象」を指します。
より専門的には、複合系の状態がそれを構成する個々の部分系の量子状態の積として表せないときに、量子もつれが存在します。
簡単な例で理解する
量子もつれの特徴を、具体的な例で説明します。
2つの粒子AとBが量子もつれ状態にあるとします。
これらの粒子は、「Aが上向きスピン・Bが下向きスピン」と「Aが下向きスピン・Bが上向きスピン」の重ね合わせ状態にあります。
この状態で粒子Aのスピンを測定すると、測定結果は確率的に決まります。
しかし、Aの測定結果が分かれば、Bの状態は瞬時に確定します。
Aが上向きならBは下向き、Aが下向きならBは上向きというように、常に逆の結果になるのです。
量子もつれの驚くべき性質
量子もつれには、古典物理学では説明できない特徴があります。
- 距離に依存しない:2つの粒子がどれだけ離れていても、量子もつれは維持される
- 瞬時の相関:一方の粒子を測定すると、瞬時にもう一方の状態が決まる
- 観測前は不確定:観測するまで、両方の粒子の状態は確定していない
この「距離に依存しない」という性質が、かつてアインシュタインを悩ませました。
EPRパラドックス:量子力学への挑戦
EPRパラドックスとは
1935年、アルバート・アインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、ナサン・ローゼンの3人は、量子力学の不完全性を指摘する論文を発表しました。
この論文は、3人の名前の頭文字をとって「EPRパラドックス」と呼ばれています。
論文のタイトルは「Can Quantum-Mechanical Description of Physical Reality be Considered Complete?」(量子力学による物理的実在の記述は完全とみなせるか?)でした。
アインシュタインの主張
EPRパラドックスの核心は、以下の主張でした。
量子もつれ状態にある2つの粒子A、Bがあるとします。
Aの位置を測定すれば、Bの位置も計算できます。
Aの運動量を測定すれば、Bの運動量も計算できます。
しかし、量子力学では位置と運動量を同時に正確に知ることはできません(不確定性原理)。
アインシュタインらは次のように考えました。
「Bに何も操作していないのに、Aの測定によってBの状態が決まるのはおかしい。Bの位置と運動量は、測定する前から決まっていたはずだ。つまり、量子力学は何か重要な情報(隠れた変数)を見逃している不完全な理論だ」
「不気味な遠隔作用」
アインシュタインは、量子もつれによる瞬時の相関を「spooky action at a distance」(不気味な遠隔作用)と呼びました。
特殊相対性理論では、光速より速く情報が伝わることはありません。
しかし、量子もつれでは、どれだけ離れた粒子でも瞬時に影響を及ぼし合うように見えます。
アインシュタインは、この矛盾から量子力学が不完全であると考えました。
また、彼は「神はサイコロを振らない」という有名な言葉を残し、量子力学の確率的な性質を受け入れませんでした。
ニールス・ボーアの反論
EPRの論文に対し、ニールス・ボーアは同じ年に同じジャーナル(Physical Review)に反論を発表しました。
ボーアは、量子力学の枠組みでは、測定されていない物理量に明確な値を割り当てることはできないと主張しました。
この論争は、量子力学の解釈をめぐる長い議論の一章となりました。
ベルの不等式:決着への道
ジョン・ベルの貢献
EPRパラドックスから約30年後の1964年、北アイルランドの物理学者ジョン・スチュアート・ベルが、この論争に決着をつける方法を提案しました。
ベルは、隠れた変数理論と量子力学が予測する測定結果の違いを、数学的に表現する不等式を導出しました。
これが「ベルの不等式」です。
ベルの不等式の意味
ベルの不等式は、以下のような意味を持ちます。
もし、アインシュタインが主張したような局所的隠れた変数理論が正しければ、ベルの不等式は満たされます。
しかし、量子力学が正しければ、特定の実験条件下でベルの不等式は破られます。
つまり、ベルの不等式を実験で検証すれば、量子力学と隠れた変数理論のどちらが正しいかを判定できるのです。
ベル自身は論文の中で、「もし隠れた変数理論が局所的であれば、量子力学とは一致しない。もし量子力学と一致するなら、それは非局所的である」と述べました。
実験による検証:量子もつれの実在を証明
クラウザーとフリードマンの実験(1972年)
ベルの提案を受けて、最初の実験が行われました。
1972年、ジョン・クラウザーとスチュアート・フリードマンは、カルシウム原子から放出されるもつれた光子のペアを使って実験を行いました。
クラウザーは、実験前にアインシュタインが正しいことに2ドル賭けていました。
しかし、実験結果は量子力学の予測を支持し、ベルの不等式は破られました。
クラウザー自身が後に述べたように、「自分の実験がアインシュタインの間違いを証明してしまい、とても悲しかった」のです。
アラン・アスペの実験(1982年)
クラウザーの実験には、まだ「抜け穴」がありました。
測定装置の設定が固定されていたため、隠れた変数が測定装置の配置に依存している可能性を完全には排除できなかったのです。
1982年、フランスのアラン・アスペと共同研究者たちは、この「局所性の抜け穴」を塞ぐ画期的な実験を行いました。
アスペの実験では、もつれた光子のペアが光源を出発した後に、測定装置の設定をランダムに切り替えることができました。
切り替えは数十億分の1秒という速さで行われ、光子が移動中に設定が変更されるため、隠れた変数が測定装置の設定を「事前に知る」ことは不可能でした。
実験結果は、再び量子力学を支持しました。
これにより、局所的隠れた変数理論は否定され、量子もつれの実在が強く支持されました。
アントン・ツァイリンガーの貢献
オーストリアの物理学者アントン・ツァイリンガーは、量子もつれの研究をさらに発展させました。
1997年、ツァイリンガーのグループは量子テレポーテーションの実証に成功しました(イタリアのフランチェスコ・デ・マルティーニのグループも独立して成功)。
また、2017年には、検出器の効率を高め、測定装置間の距離を十分に離すことで、主要な抜け穴を同時に塞ぐベル実験を実現しました。
さらに、ツァイリンガーは中国の量子通信衛星「墨子号」(Micius)の開発にも協力し、衛星を用いた量子通信の実証に貢献しました。
2022年ノーベル物理学賞:量子もつれ研究の集大成
受賞者と業績
2022年、ノーベル物理学賞は、量子もつれの実験的研究に貢献した3人の物理学者に授与されました。
- アラン・アスペ(フランス、パリ・サクレー大学)
- ジョン・クラウザー(アメリカ、J. F. Clauser & Associates)
- アントン・ツァイリンガー(オーストリア、ウィーン大学)
授賞理由は「もつれた光子を用いた実験、ベルの不等式の破れの確立、量子情報科学の先駆的研究」でした。
ノーベル委員会の評価
ノーベル物理学委員会のメンバーであるエヴァ・オルソンは、授賞式で次のように述べました。
「アスペ、クラウザー、ツァイリンガーの研究は、別世界への扉を開き、測定をどう解釈するかという基本的な問題を揺るがしました」
また、委員会のアンデシュ・イルベックは次のように指摘しました。
「新しい種類の量子技術が出現していることが明らかになってきました。もつれた状態に関する受賞者の研究は、量子力学の解釈に関する基本的な問題を超えて、大きな重要性を持っています」
歴史的意義
この受賞は、量子力学の基礎に関する長年の論争に一つの決着をつけるものでした。
1935年のEPRパラドックスから約90年、1964年のベルの不等式から約60年を経て、量子もつれの実在が実験的に確認され、その功績が最高の栄誉で認められたのです。
量子もつれの応用技術
量子コンピュータ
量子もつれは、量子コンピュータの重要な資源です。
量子ビット(キュービット)は、0と1の重ね合わせ状態をとることができます。
複数の量子ビットが量子もつれ状態にあると、並列計算が可能になり、古典コンピュータでは解けない問題を解くことができます。
量子もつれを利用することで、量子コンピュータは特定の問題に対して飛躍的な高速化を実現できます。
量子暗号・量子通信
量子もつれは、安全な通信にも応用されています。
量子鍵配送(QKD)プロトコル、特にBB84プロトコルでは、量子もつれを利用して暗号鍵を安全に配送します。
盗聴者が量子状態を観測しようとすると、量子状態が変化してしまうため、盗聴が即座に検出されます。
また、量子もつれを用いた量子インターネットの構築が進められています。
数十キロメートルの光ファイバーを通じて量子もつれ状態を送信する実験や、衛星と地上局の間で量子もつれを実現する実験が成功しています。
量子テレポーテーション
量子テレポーテーションは、量子もつれを利用して量子状態を遠隔地に転送する技術です。
重要なのは、物質そのものが移動するのではなく、量子状態(情報)が転送されるという点です。
また、量子複製不可能定理により、元の粒子の量子状態は破壊されます。
1997年にツァイリンガーとデ・マルティーニのグループが初めて実証して以降、量子テレポーテーションは量子通信の基盤技術となっています。
量子センシング・量子計測
量子もつれは、精密測定にも応用されています。
もつれた量子状態を用いることで、測定精度を向上させることができます。
これは、重力波検出器や原子時計など、高精度な測定が必要な分野で応用が期待されています。
量子もつれと相対性理論の関係
情報は光速を超えない
量子もつれは「瞬時の相関」を示しますが、これが相対性理論と矛盾するわけではありません。
その理由は、量子もつれだけでは意味のある情報を伝達できないからです。
例えば、アリスとボブがもつれた粒子を1つずつ持っているとします。
アリスが自分の粒子を測定しても、その結果は確率的に決まります。
ボブも自分の粒子を測定しますが、やはり結果は確率的です。
アリスとボブが測定結果を比較すると、完全な相関があることが分かりますが、この比較には古典的な通信(光速以下)が必要です。
つまり、量子もつれを使っても、光速を超えて情報を送ることはできないのです。
非局所性と因果律
量子もつれは「非局所的」な現象ですが、因果律を破ることはありません。
一方の粒子の測定が他方に影響を与えているように見えますが、この「影響」を使って過去に情報を送ることはできません。
現代の物理学では、量子もつれは相対性理論と矛盾しない形で理解されています。
量子もつれのエントロピー
エンタングルメント・エントロピー
量子もつれの強さを定量化する指標として、エンタングルメント・エントロピーがあります。
エンタングルメント・エントロピーは、量子多体系をある領域AとBに分けたとき、その境界の面積にほぼ比例することが知られています。
これを「量子もつれの境界則」(または面積則)と呼びます。
物性物理学への応用
エンタングルメント・エントロピーは、物性物理学でも重要な役割を果たしています。
例えば、相転移を研究する際、従来は磁化などのマクロな量を観測していました。
しかし、量子もつれの強度をプロットすることで、従来の方法では見えなかった相転移が見えることがあります。
ブラックホールとの関係
エンタングルメント・エントロピーは、ブラックホールのエントロピーとも密接な関係があります。
東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構(Kavli IPMU)の大栗博司らの研究グループは、一般相対性理論から導かれる時空が、量子もつれから生まれる仕組みを解明しました。
この研究は、一般相対性理論と量子力学を統一する究極の理論の構築に大きく貢献すると期待されています。
量子もつれの生成方法
自然発生的な生成
量子もつれは、特定の量子プロセスで自然に生成されます。
- パラメトリック下方変換:特殊な結晶に強いレーザー光を当てると、1つの光子が2つのもつれた光子に分かれる
- 原子カスケード:原子が励起状態から基底状態に遷移する際、もつれた光子のペアを放出する
- 粒子対生成:高エネルギー反応で粒子と反粒子のペアが生成される際、もつれた状態で生まれる
人工的な生成と制御
現代の実験技術では、量子もつれを精密に制御できます。
- 光子のもつれ:非線形光学結晶を用いた parametric down-conversion
- 原子のもつれ:レーザー冷却された原子を用いた精密制御
- イオンのもつれ:イオントラップ技術による多体もつれ状態の生成
- 超伝導量子ビットのもつれ:超伝導回路を用いた固体素子でのもつれ生成
量子もつれ研究の最前線
多体もつれ
2つの粒子だけでなく、多数の粒子が同時にもつれた状態も研究されています。
- GHZ状態(Greenberger-Horne-Zeilinger状態):3つ以上の粒子が特殊なもつれ状態にある
- クラスター状態:量子コンピュータの一手法である測定型量子計算に用いられる多体もつれ状態
長距離量子通信
現在、量子もつれを使った長距離通信の実現に向けた研究が進んでいます。
- 量子リピーター:光ファイバー中で減衰する量子状態を中継する技術
- 衛星量子通信:地上局と衛星の間で量子もつれを実現
- 量子インターネット:世界規模の量子通信ネットワークの構築
量子もつれと機械学習
量子コンピュータを用いた機械学習(量子機械学習)では、量子もつれが重要な役割を果たします。
特定の機械学習問題では、量子コンピュータによる超高速化が期待されています。
まとめ
量子もつれは、「離れた粒子が瞬時に影響を及ぼし合う」という、古典物理学では説明できない現象です。
1935年のEPRパラドックスで注目を集め、1964年のベルの不等式によって実験的検証が可能になりました。
1972年のクラウザーの実験、1982年のアスペの実験を経て、量子もつれの実在が確認されました。
2022年には、アスペ、クラウザー、ツァイリンガーの3人がノーベル物理学賞を受賞し、約90年にわたる研究の歴史に一つの区切りがつきました。
現在、量子もつれは量子コンピュータ、量子暗号、量子テレポーテーション、量子センシングなど、幅広い技術の基盤となっています。
「第二次量子革命」とも呼ばれる新しい時代の幕開けにおいて、量子もつれは中心的な役割を果たしています。
かつてアインシュタインが「不気味」と呼んだこの現象は、今や私たちの技術と宇宙理解を革新する鍵となっているのです。
参考情報
- Einstein, A., Podolsky, B., & Rosen, N. (1935). “Can Quantum-Mechanical Description of Physical Reality be Considered Complete?” Physical Review, 47(10), 777-780.
- Bell, J. S. (1964). “On the Einstein-Podolsky-Rosen paradox”. Physics Physique Fizika, 1(3), 195-200.
- Clauser, J. F., et al. (1969). “Proposed experiment to test local hidden-variable theories”. Physical Review Letters, 23(15), 880-884.
- Aspect, A., Dalibard, J., & Roger, G. (1982). “Experimental test of Bell’s inequalities using time-varying analyzers”. Physical Review Letters, 49(25), 1804-1807.
- The Nobel Prize in Physics 2022 – NobelPrize.org
Nobel Prize in Physics 2022The Nobel Prize in Physics 2022 was awarded jointly to Alain Aspect, John F. Clauser and Anton Zeilinger "for experiment...
- Wikipedia – 量子もつれ [https://ja.wikipedia.org/wiki/量子もつれ]
- 日本物理学会誌「量子もつれの基礎および量子情報や物理との関係」井元信之
- Kavli IPMU「量子もつれが時空を形成する仕組みを解明」
量子もつれが時空を形成する仕組みを解明~重力を含む究極の統一理論への新しい視点~大栗 博司 Kavli IPMU 主任研究員 1.発表者 大栗 博司(おおぐり ひろし) 東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構 主任研究員

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