東方朔(とうぼうさく)とは?前漢の機知に富んだ宮廷詩人から仙人伝説まで

古代中国・前漢の宮廷で、皇帝すらも笑わせることができた稀代の知恵者がいました。
彼の名は東方朔(とうぼうさく)。
機知と諷刺に満ちた言動で漢の武帝に仕え、後世には道教の仙人として神格化された人物です。
歴史書に「滑稽之雄(こっけいのゆう)」と記された東方朔の魅力に迫ります。

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概要

東方朔(Dōngfāng Shuò)は、前漢時代の文人・政治家です。
字は曼倩(まんせん、Manqian)といいます。
紀元前154年頃に生まれ、紀元前93年に亡くなったとされています。
平原郡厭次県(現在の山東省徳州市陵城区)の出身で、漢の武帝に仕えました。

生涯

出自と若年期

東方朔は幼くして両親を亡くし、兄夫婦に育てられました。
『漢書』「東方朔伝」によれば、東方朔は自らを次のように語っています。

12歳で文章を学び始め、3年で一般的な文書を扱えるようになりました。
15歳で剣術を、16歳で『詩経』と『書経』を学び、22万字を暗記したといいます。
19歳では孫子・呉子の兵法書を習得し、戦術や軍事規則にも通じるようになりました。

武帝への仕官

紀元前138年、漢の武帝が「誠実で正直な者、賢明で優れた者、学問や文才に秀でた者、並外れた力を持つ者」を求めると発表しました。
多くの人々が応募する中、東方朔は3000枚の竹簡に書かれた上書を提出しました。
武帝は2ヶ月かけてこれを読み終え、東方朔を郎官(宮廷の侍従官)に任命しました。

東方朔は自己推薦の文書で、「身長は9尺3寸(約2.1メートル)、目は真珠のように輝き、歯は貝を並べたように整い、勇気は孟賁(もうほん)のごとく、素早さは慶忌(けいき)のごとく、清廉さは鮑叔(ほうしゅく)のごとく、誠実さは尾生(びせい)のごとし。このような者であれば天子の大臣となれるでしょう」と述べています。

宮廷での活躍

機知に富んだ対応

東方朔は常侍郎(じょうじろう)、太中大夫(たいちゅうたいふ)などの職に就きました。
彼は博学で機知に富み、しばしば武帝の話し相手を務めました。
気性の激しい武帝も東方朔と話せば上機嫌になり、金品を賜ったり食事の同席を命じることが度々あったといいます。

『史記』「滑稽列伝」には、東方朔が騶虞(すうぐ)という珍しい動物を見てその名前と、それが遠方の国が漢に帰属しようとする吉兆であることを言い当てた逸話が記されています。

また、『捜神記』によれば、函谷関で武帝の行く手を阻んだ山羊に似た怪物を䍺(けつ)と見抜き、酒を注いで消す方法を教えたという伝承もあります。

諷刺と諫言

東方朔は単なる道化ではありませんでした。
彼は「時觀察顏色、直言切諫」(時に顔色を観察し、直言して厳しく諫める)と評されています。
武帝の贅沢を諫め、賢明な統治を促す役割も果たしていたのです。

しかし、その諷刺的な性格のため、武帝は東方朔を「搞笑藝人(お笑い芸人)」として扱い、学者としては重用しませんでした。
このことが東方朔に『答客難』を書かせるきっかけとなります。

『史記』によれば、東方朔は老齢になり死期が近づいたとき、武帝に『詩経』の一節を引いて讒言を退けるよう諫めました。
「營營青蠅、止於蕃。愷悌君子、無信讒言。讒言罔極、交亂四國」(うるさいハエが垣根に止まるように、邪な者が君子の周りに集まる。君子よ、讒言を信じてはならない。讒言には限りがなく、国を乱す)

東方朔はまもなく病死しました。
司馬遷は「鳥がまさに死なんとするときは、その鳴き声は哀しい」と東方朔を称え、朝廷にいながら世を避けた賢人に共感を抱いていたことを記しています。

著作

代表作『答客難』

『答客難』(とうかくなん)は東方朔の代表作です。
これは問答形式で書かれた賦体散文で、武帝が賢者を重用しない現状への不満を表現しています。

この作品は新しい文学形式を開拓し、後世に大きな影響を与えました。
揚雄(ようゆう)の『解嘲』(かいちょう)や班固(はんこ)の『答賓戲』(とうひんぎ)は、この『答客難』の形式を踏襲しています。

その他の著作

『非有先生論』(ひゆうせんせいろん)は、古代の呉国の架空の官吏の物語です。
3年間沈黙を守った官吏が王に問われ、多くの歴史的事例を挙げて不適切な統治が国を滅ぼすことを説き、王を目覚めさせる内容となっています。

『漢書』「藝文志」には「《東方朔》二十篇」が著録されています。
他にも『封泰山』『責和氏璧』『試子詩』などの作品が伝わり、後人によって『東方太中集』としてまとめられました。

班固は『漢書』で東方朔を「滑稽之雄」(こっけいのゆう、道化の最たる者)と評しています。

後世の神格化と伝説

道教の仙人として

東方朔は生前から「謫仙」(たくせん、地上に追放された仙人)とみなされていました。
六朝時代(222-589年)になると、東方朔は数多くの伝説の主人公となります。

劉向(りゅうこう、紀元前77-6年)の『列仙伝』(れつせんでん)には、東方朔の仙人としての姿が早くから描かれています。
漢の昭帝(紀元前87-74年)の時代には、「ある者は彼を聖人とみなし、ある者は普通の人と考えた。その行動は深遠さと浅薄さ、大胆さと控えめさの間を行き来し、時には忠誠に満ちた言葉を発し、時には冗談を言った。誰も彼を理解できなかった」と記されています。

西王母の桃を盗んだ伝説

『漢武故事』には、西王母(せいおうぼ)が植えた3000年に一度しか実らない桃の実を、東方朔が3度も盗んだという話が記されています。
『博物志』にも同様の逸話があり、「西王母が七夕に九華殿に降臨し、五つの桃を漢の武帝に与えた。東方朔が殿の東側の朱雀の柱から覗いていると、王母が『この覗き見る小僧は、私のこの桃を3度盗んだ』と言った」とあります。

この伝承から、東方朔は「三千甲子東方朔」とも称されます。
60年ごとに訪れる甲子の年が3000回巡るという意味で、18万年もの長寿を暗示しています。

様々な化身説

東方朔は歳星(木星)や太白星(金星)の化身とされることもあります。
奇跡的な誕生、超自然的な力、そして老子や范蠡(はんれい)を含む数多くの転生を経たという伝説も語られました。

文化的影響

中国における影響

唐代の詩人・李白(りはく)は東方朔を「世人不識東方朔、大隠金門是謫仙」(世人は東方朔を知らず、宮廷に大いに隠れし謫仙なり)と称えました。

中国では東方朔は相声(そうせい、漫才のような伝統芸能)などの話芸の神様として尊敬されています。
機知と諷刺の才能が、話芸の精神と重なるためです。

日本における影響

日本の能の演目『東方朔』では、朔は仙人として登場します。

島根県には、八百比丘尼(やおびくに)に「斧を磨いて針にする」と言って驚かせ、彼女が800年生きていることを聞き出し、自分は9000年生きていると打ち明けたという伝説が残っています。

山口県吉敷郡には、106歳の三浦大介(みうらのおおすけ)、8000歳の浦島太郎と出会い、自分は9000歳だと自慢したが、3人で旅をしていると3人の出産に立ち会った産婆で7億歳の七億婆(しちおくばば)と出会い窘められたという伝説もあります。

顔真卿の書による顕彰

晋の文人・夏侯湛(かこうたん)は『東方朔画贊』(とうぼうさくがさん)を著し、東方朔の高風亮節と機知を称えました。

唐代の大書家・顔真卿(がんしんけい)は天宝13年(755年)、この文章を書いて『東方朔画贊碑』(全名『漢太中大夫東方先生画贊』)として刻みました。
この碑は現在も山東省陵城区の顔真卿公園に保存されています。

まとめ

東方朔は前漢時代の傑出した文人であり、機知と諷刺の才能で知られた宮廷の詩人でした。
武帝に仕えながらも、その奔放な性格ゆえに政治的には重用されませんでした。
しかし、『答客難』をはじめとする文学作品は後世に大きな影響を与え、新しい文学形式を開拓しました。

後世、東方朔は歴史上の人物から道教の仙人へと神格化され、数々の伝説の主人公となりました。
西王母の桃を盗んだ話や、18万年もの長寿を誇る「三千甲子東方朔」という称号は、彼の超人的なイメージを象徴しています。

中国では話芸の神として、日本では仙人伝説として語り継がれる東方朔。
彼の生涯と伝説は、歴史と神話が交錯する中国文化の豊かさを物語っています。

参考情報

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この記事で参照した情報源

一次資料(原典)

  • 司馬遷『史記』「滑稽列伝」第66巻 – 東方朔の経歴を記録
  • 班固『漢書』「東方朔伝」第65巻 – 東方朔の詳細な伝記

参考になる外部サイト

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